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プリプリの舞台挨拶付き上映にT・ジョイ梅田の席を取ったら「卓球少女 -閃光のかなたへ-」という珍しそうな作品を見かけたので、本作を観た鑑賞録。
内容的には中国のアニメスタジオが制作した卓球をテーマにした美少女スポ根ものといった感じだが、独特な表現や雰囲気の作品で、これは中々ない作品だと思ったので、その内容を書いてゆく。
異色の中国2Dアニメ
本作は日本で作られたといわれても違和感がないほどに日本的な絵柄の2Dアニメだ。中国のアニメ映画は3D作品が多いか、2Dであっても独特の絵柄であることも少なくない印象だが、本作は非常に日本的だった。
一方で鍛えられた肢体や筋肉を強調したアグレッシブな描写が多く、これは日本の美少女アニメには余りない要素で、ここは本作で特徴的な要素といえるだろう。
お色気皆無
日本のアニメと比べると圧倒的にお色気がない。本作の舞台は高校だが、押し並べて胸が薄い。モブキャラに一人巨乳が居た程度で、驚くほど薄い。ここまで健全方向に倒した作品も珍しい。
公式のキャラ紹介に至っては、ほぼ絶壁で、ガタイがいいのもあり、男…?と首をかしげてしまった。恐らくこれは中国の表現規制も関係していると思う。
ただこの色気のなさは本作のスポ根精神を遺憾なく引き立てるのに随分役立ったと思う。煩悩がない。シュッとしている。
シャワーシーンすらシャワーヘッドが出てくるだけという潔さである。
タイトルやロゴ、OP/EDのローカライズ
本作はタイトルや、そのロゴ、OP/EDがローカライズされている。邦題は「卓球少女 -閃光のかなたへ-」だが、原題は「白色闪电 Pingpong!」だ。
タイトルロゴに小さくTAKKYUUUUUUUUUUとあるが、これもローカライズだろう。こういった些細なところまで力を入れているのはいいと思った。
因みに卓球は日本語であり、Table tennisとも関係ないらしい。中国語では卓球は乒乓球と書き、この文字列は作中で何度も出てくる。
登場人物の多様性
OPに出てきたキャラだけの話だが、異様なまでに多様なタイプをカバーしているように感じた。
真面目メガネっ子、クールビューティー、そばかす娘、じゃじゃ馬、目の下ホクロ、天真爛漫などなど、やたら手幅くカバーされている。性癖ブレイカーか何かか?いや、そんな意図はないと思うが。
顔のバリエーションがすごいので日本アニメにありがちな髪の色でキャラを区別するといった要素は薄めに見えた。書き分けが凄まじい。
またビジュアルだけでなく、キャラクターの性格も各キャラかなり尖っていて、ここまでキャラが立っていて確立した魅力を持つ作品もなかなかないと思った。
意外と日本と変わらない学生生活
本作はいわゆる学園ものになるので、中国の高校の風景も出てくるわけだが、そこまで日本と変わらない。精々教室の入り口にICT的なモニタがある程度で、校舎の作りや机など大まかな雰囲気は日本そのものだ。
初年度は教科書を配ったり、授業も黒板に板書したり、プリントを配ったり、教師に当てられて発表したり、まんま日本だ。大きな違いといえば精々制服がジャージなことくらいだろうか?
校舎の様子などは実際に高校に行って取材をしたそうだが、制作陣は教室の入り口に電子掲示板があることに驚いたという。
リアリティの凄い卓球
卓球の練習シーンではおよそ卓球と関係ない特訓が出てくる。例えばシャトルラン的なことをしていたり、縄跳びをするなど。基礎的な体力づくりや体幹作りが描かれる作品は珍しいと思う。
また卓球のシーンは躍動的で、目にも止まらない高速なやり取りや、コートから打ち出された球をスライディングで打ち返すなど、かなりダイナミックな表現が多く、見ていて興奮した。筋肉の描写もよく、スポーツマンを見ている感じがすごかった。ここまで汗臭さを感じる作品はめったにないと思う。
実際に試合のシーンは現実の試合を参考に、辻褄が合うように作りこんでいるらしく、リアリティの追及が半端ない。サーブ権にまで配慮して作りこんでいるのは流石だ。日本の作品だとスポーツに限らず、ルールの不備を指摘されるものも少なくないだろう。例えば響け!ユーフォニアムでは楽器の持ち方が違うという指摘がよくあった気がする。
制作にあたってはスタッフにいた卓球の経験者や、プロのコーチを召還するなど、かなり再現性には力を入れたようだ。
リアリティの追及
本作は中国の視聴者が見たときに違和感を持たないように、現在の中国の風景を再現することに注力したとのことで、全体的にリアリティが強い。タピオカを飲むシーンも出てくる。つまりタピオカ屋は中国にも進出しているわけだ。
エンディングでは舞台となったであろう浙江省杭州市上城区の名所的なものが紹介されており、聖地巡礼したくなるような仕組みが非常によかった。トラペジウムでテカポ湖に行った人がいることを考えると、より身近な杭州に行こうと思う人もいるかもしれない。本作はそこまで刺さる作品ではないと思うので、行く日本人がどれほどいるかは未知数だが…。
またリアリティを追求する傍らで、序盤でジャン・ルオイが走っているシーンなどでは伝統的中国の風景をミックスしているという点も見逃せないところだ。
最後に
全体的に作りが精緻で、切れ味のいいスポ根作品だと感じた。そして本作は未完のままEDを迎えている。原作は6話まであり、今回はそのうち3話までを総集編として合体させたものらしいので、是非続編にも期待したい。
上映館は多くなく、特に西日本での上映館が極端に少ないが、個人的には今年の推し作品の一つだ。王道だがキャラ的にはジャン・ルオイ、ワン・ルーの組み合わせが好きだ。どこか抜けてるクールキャラとお調子ツンデレ委員長キャラはかなりいい。どっちもイケメンだし!
またパンフレットの表紙はいい紙を使っており、巻末には中国側スタッフが日本語を交えて書いたものもあり、是非触って読みたいアイテムだ。
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映画館に行くたびに帳簿に記帳しているので、その内容を書き出して整理してみる。
主には年次単位の積み上げグラフと雑感がメインだ。
2019年
利用映画館統計
これは私が自分のお金で初めて映画館に行き始めた年だ。この年は神戸国際松竹とMOVIXあまがさきだけにしか行っていなかったようだ。この年はOSシネマズではあまり上映していなかった印象がある。
鑑賞リスト
鑑賞作品としては「あした世界が終わるとしても」が処女作だ。同一作品を最初から二度見ているのは素養があるのかもしれない。
この頃は石屋川に居を構えており、神戸国際松竹には自転車で行っていた。今はもうない旧中央区役所の駐輪場に止めて、そこから歩いて行っていたのでそこそこ運動になっていた。
MOVIXあまがさきには石屋川→魚崎→住吉→尼崎という経路で行っており、六甲ライナーの利便性にあやかっていた。
2000年
利用映画館積み上げ統計
このグラフは2019年からの積み上げなので2019年のデータも含まれている。
109シネマズHAT神戸が利用館に加わり、バリエーションが増えた。この年は極端に映画館に行かなかったため、微増という感じだ。
鑑賞リスト
この年は2019年と比べると極端に見た作品が少なかった。ひょっとしたら新型コロナウィルスの影響があったのかもしれない。
複数回見た作品として「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」がある。
「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は異なる映画館で鑑賞した初めての作品になっており、この頃から映画館による差を意識し始めたかもしれない。
備考
この年の7月末に石屋川から三宮に引っ越しており、映画館へのアクセスが爆発的によくなった。神戸国際松竹は徒歩でアクセス可能になり、駐輪場代が消えるなど、お財布に優しくなった。
三宮に住むことによってOSシネマズミント神戸や、ハーバーランド、109シネマズHAT神戸、シネリーブル神戸へのアクセスは圧倒的に容易になり、TOHOシネマズ西宮OSやMOVIXあまがさき、アースシネマズ姫路、塚口サンサン劇場、洲本オリオンなどへも電車やバス一本でアクセスでき、新快速などの恩恵にあずかれるようになったのも大きい。
2021年
利用映画館積み上げ統計
このグラフは2019~2021年の積み上げなので、前年以前のデータもすべて含まれている。
この年は利用した映画館が爆発的に増えた。
また神戸国際松竹の利用が7→14回で倍になった反面、MOVIXあまがさきと、109シネマズHAT神戸は増えていないが、OSシネマズ神戸ハーバーランドが初登場でいきなり9回まで増えるなど、目まぐるしい変化がある。間違いなく映画鑑賞元年はここにあるという調子だ。
鑑賞リスト
先ほどのグラフを見てもわかることだが、劇場を見ると神戸国際松竹とOSシネマズハーバーランドがあからさまに多い年だ。
全体的にみると二度以上鑑賞した作品の多い年だった。またIMAX邂逅の年でもある。SAOPが6行もあるのが異質。
またこの年は初めて特定作品を鑑賞中に別作品を見るという割込みが起きている。「EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション」はSAOPを見ている中で割り込む形で見た作品だ。
プリンセス・プリンシパルはSNSで勧められて見に行った作品だが大当たりで、この後も封切のたびに見に行くことになる。原作も見たが、とても好きな作品の一つで、私の中ではSAOシリーズに次ぐ大作だ。
2022年
利用映画館積み上げ統計
このグラフは2019~2022年の積み上げなので、前年以前のデータもすべて含まれている。
この年は更に利用した映画館が増えている。2021年時点では7館しか利用した映画館がなかったのが、倍近い13館にまで増えている。また、神戸国際松竹閉館の影響で神戸国際松竹の飛び抜けた利用回数が終焉になった。
記憶が確かならOSシネマズミント神戸が私が見るアニメ映画をやり始めたのはこの年からだったと思う。元々神戸のアニメ映画は神戸国際松竹とOSシネマズ神戸ハーバーランドが多かったと思うが、神戸国際松竹が2022年3月17日に閉館して以来、ミント神戸がそれを担うようになった印象がある。
神戸国際松竹はキノシネマに引き継がれ、キノシネマ神戸国際に姿を変えているが、女性向け作品やテレビアニメの先行上映といった個人的に興味がないものが多くなったので、行く回数が極端に減った。賛否の大きい館だが、個人的には好きなだけに残念だ。
今では一部界隈では伝説級の映画館として知られる塚口サンサン劇場へのデビューを果たしたのもこの年だ。
鑑賞リスト
この年になるとアニメ映画を見るのが趣味ですと言えるくらいには見るようになっていた。多分普通の人はこんなに映画館に来ない。
MOVIX川口という変なのが入っているが、これは仕事の都合で一時的に赤羽に住んでいたことがあり、それが影響している。
2022-08-02(火) 19:00上映のソードアート・オンライン -プログレッシブ- 星なき夜のアリアは、前述の通り三宮に引っ越してきており、かつリモートワークだったので定時ダッシュで見に行けたという奇跡的なコンボで、三宮に住む恩恵を最大限に受益できた鑑賞だった。
「夏へのトンネル、さよならの出口」は前年のSAOPに続く複数回の鑑賞作品で、もう何回も見るのが板についてきた感じがある。設定が複雑な作品は毎回新しい発見があり、スルメのような味わいがあるので、何度見てもいい。
そしてSAOP2についても、かなりの回数を見た。今回は6館で見るという、なかなか他ではない体験をした。これはSAOPが好きすぎたのと、気になるシーンがあり、どうしても見返したかったのと、様々な映写設備を体験したかったことによる。
特にアースシネマズ姫路でのAtmosフルダイブ姫路サウンドは衝撃で、アースシネマズ姫路のファンになった。この時の上映は新快速が甚だしい遅延をしていたので、西明石で新幹線に乗り換えて1分遅れで滑り込んだという伝説がある。新幹線で映画見に行くのはちょっとおかしいと思う。
この時PiTaPaで入っていたため、新幹線改札を抜けられず軽くトラブったものの発車寸前のひかりに何とか滑り込めて事なきを得た。この時、駅員さんが爆速で手続してくれたのには今でも感謝している。
備考
この年の上映作で永遠の831という作品があったことに去年気が付いたが、これはどこかで再上映されるなら是非見ていたい作品だ。私は初回は映画館で見ると決めているため、映画館でみたいのだ。
2023年
利用映画館積み上げ統計
このグラフは2019~2023年の積み上げなので、前年以前のデータもすべて含まれている。
この年になると神戸国際松竹の閉館も手伝って、かなり勢力図が変わっている。また利用した映画館も+2館と微増している。パルシネマしんこうえんと洲本オリオンはともに単館系のミニシアターだ。
洲本オリオンは淡路島唯一の映画館で、洲本バスターミナルから歩いて少しのところにあるところだ。一時期は閉館していたのがファンの熱心な応援で復活したと聞く。三宮からはバス一本で行けるためアクセスは意外と悪くない。
またOSシネマズは家から近い関係でミント神戸が神戸ハーバーランドを追い上げてきている。ミント神戸で上映しているアニメ映画は大抵ハーバーランドでも上映しているため、利便性を取った形だ。
鑑賞リスト
鑑賞リストの行数は年々増えており、この年はかなり見た。前年と比べると作品本数が増え、一作当たりの鑑賞回数は減っている感じだ。
とにかく食わず嫌いを減らして色々見た年だったと思う。実写作品も混ざっているのが特徴的だ。
アムリタとアラーニェは完全個人製作、声以外全部俺みたいな作品で、かなり前衛芸術的な作品でよかった記憶がある。
年の後半からOSシネマズミント神戸の文字がOSシネマズ神戸ハーバーランドに変わっているが、これは運動不足解消のためと、映写品質の関係だ。ミント神戸はスクリーンが掃除されていなかったり、箱が小さく音のダイナミクスに欠けているなどあり、ややイマイチだった。また家から近すぎて全く運動にならない。そこでリモートワークで鈍っている体を動かす為にハーバーランドまで行くことにした。
年末でミント神戸に戻ってきているが上映していなかったか寒くてサボったかのどちらかだと思う。
2024年
利用映画館積み上げ統計
このグラフは2019~2024年の積み上げなので、前年以前のデータもすべて含まれている。
この年はOSシネマズ神戸ハーバーランドとミント神戸の勢力が逆転し、新しく3館の利用が増えた。シネリーブル神戸、TOHOシネマズくずはモール、シネマサンシャイン衣山だ。
シネリーブル神戸は存在は知っていたものの、アニメ映画をしていなかったので一切気にかけたことがなかった。テアトル東京系の配給を軸にやっている場所のようで、中々いくことがなさそうだと感じた。
TOHOシネマズくずはモールはトラペジウムのグッズを求めに関西一円を飛び回っていた時に丁度上映があったので入ったが、音響も映写もかなり良かった。遠すぎるので中々行けないのが悔やまれる。
シネマサンシャイン衣山には「がんばっていきまっしょい」を観に行ったのだが、なんと利用回数のうち一回はスケジュールの都合がつかず飛行機で行くという前代未聞の映画鑑賞となった。残りも聖地巡礼旅行の過程で、フェリーで松山に向かい3泊4日の旅程で鑑賞するという、だいぶ頭のおかしいことをしていた。
他にも塚口サンサン劇場や洲本オリオンの回数が増えているなど、勢力的変化も見て取れる。
鑑賞リスト
もはやこの年になると、ある作品の鑑賞の間に他の作品が割り込むなど当たり前というか、セカンド上映や同時期に出た作品を並行して観ることが増えたので、当たり前になっている。
特筆すべき作品はトラペジウムで、過去のトラペジウム記事を見ればわかるが狂気に染まりまくっている。
僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユアネクストも多く見た作品で、個人的にメジャー作品はそこまで見ない中、異例の出来事だった。この作品はどうしても姫路でも見たかったため、アースシネマズ姫路にまで足を運んでいるが、特別音響上映でないのもあり、これは特に何ともなかった。
2025年
利用映画館積み上げ統計
このグラフは2019~2025年の積み上げなので、前年以前のデータもすべて含まれている。なお2025年はまだ終わっていないので本日時点のデータだ。
体を動かすぞという強い意志によりOSシネマズ神戸ハーバーランドでの鑑賞回数をOSシネマズミント神戸に逆転させることができた。
既に本日5月時点で新しく3館の利用が増えている。シネマスクエア7、チネチッタ、ufotable CINAMAがそれにあたり、これらは全てメイクアガールの鑑賞のために県外遠征した結果増えている。シネマスクエア7とチネチッタについては新幹線を利用して向かっており、年々映画館に行く方法が壊れているのを感じざるを得ない。いや、飛行機で見に行った松山が一番おかしいのは明らかだが…。
鑑賞リスト
今年は例年になく1~5月まで毎月何かしら見ている。その割にバリエーションがやたら薄い気がするが気のせいだ。
特にメイクアガールは過去最長の連続鑑賞期間を誇り、1月から5月に渡り毎月見ているという異常っぷりが出ている。更に8館で見ているのはSAOP2と並ぶ過去最多だ。T・ジョイ梅田でも見ていれば過去最多になったので観ておけばよかったか…。
しかし鑑賞した県の多さではメイクアガールが圧倒する。兵庫、神奈川、山口、徳島の4県で見ており、ここまで様々な都道府県で見た作品は他に例がない。
そして2021年からずっと鑑賞を続けているプリンセス・プリンシパルもまた特別な作品だ。今回は姫路で朝から特別音響上映があるということで、新幹線で向かった。正直今見たら1day切符で直通特急でもいい気がしたので、次回から検討したい。新幹線は高い。
その他の統計
年月別鑑賞統計
年単位での月別鑑賞回数の積み上げグラフ。2021年以降は鑑賞回数が増え続けていることがわかる。
大まかな傾向としては年の後半に行くにしたがって鑑賞回数が増え、年の序盤は少ない。特に1月は皆無か、あってもわずかだ。2023年が最も万遍ないが、2025年の今年は1月から5月まで埋まっているため、珍しい状態だ。
時間別鑑賞統計
基本的に仕事終わりか割安のレイトショーを見るため18時以降の鑑賞が多い。日中は11時台が多いが何故多いのかは特に振り返っていない。
曜日別鑑賞統計
封切である金曜日と、休日である土日が多い。平日は映画館の時間が合わないことも多いので、かなり少ない。木曜が若干多いのは終映や特典配布の関係かと思ったが、特に関係なさそうだった。
県別映画館利用統計
圧倒的に兵庫県の映画館を利用していることがよくわかる。そりゃそうだ、兵庫県民だもの。とはいえ一割程度は県外で観ていることが分かったので、やはり可視化してみると面白い。
鑑賞記録は一番目の表に記録していて、県別の統計は二番目の表にまとめており、これをExcelのデータモデルのリレーションシップで繋ぎ、三番目の画像のピボットテーブルを作ることで実現している。
このテーブルの都道府県名の横にある+を押すと展開できたりする。
3回以上鑑賞した映画作品の一覧
ヘビロテ鑑賞作品一覧ともいえるグラフ。やはりトラペジウムは狂気に染まりきっている。これを超える作品は出ないと思う。
アニメ映画は、これまでに74作観ているが、その中で17作が3回以上見た作品なので、鑑賞したアニメ映画の23%程度が3回以上観た作品ということになる。
関係するデータの存在
今回の記事とは関係ない話になるが、見たアニメ映画の公開情報をまとめたデータも作っている。
こんな感じで何月に公開された映画をよく見ているかの集計に使っている。公開年に関しては公開年であり、観た時期とは関係がない。
元々は映画館で見た記録と合体させていたのだが、複数回見るとデータとして歪になることや、公開年月を鑑賞日から分離させたいことや、実写作品を始めとした適合しない作品を入れると破綻することなどがあり、データを疎にする意図で別データとして管理している。
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メイクアガールを観てきた 五回目の続き。
去る3/23、今回は山口は宇部に飛び、シネマスクエア7でのセカンドランを鑑賞してきた。メインは感想なので手前に持ってきているが、後半に簡単な旅行記も書いている。
感想
いったい何遍書いてんねんという感じだが、流石に鑑賞ごとの感想はこれでラストにしたいと思っている。
今回も特に前回までの内容を深ぼったりはせず、見たままの感想を書いていく。これまでより0号と明以外にも焦点を当て、0号と明にはより焦点を当てて書いてゆく。
前回同様に感想はノベライズの影響を少なからず受けているため、そちらに引っ張られたようなことも書いている。
「いきなさい、いきなさい。いきるの。私と。」
ここは行きなさいなのか、生きなさいなのか、逝きなさいなのか、見方で解釈が変わるなと常々感じている。これはここに限らず、「いきなさい」が出てくる全ての場面でそう思う。
「生きなさい」と解釈する場合「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」というのは明が稲葉と共に生きて欲しいという、稲葉からの想いなのかもしれない。
つまり第三人類として稲葉を作り、一緒に生きて欲しいということだ。口調が命令形に見えるのは、恐らく明が稲葉に作られた第三人類で、稲葉の意思を無視できない設計になっているところがあるのだろう。
ただ恐らく明は0号同様に生体制御を振り切れる状態になっているか、造られて以来、長い時間が経ちすぎて、稲葉の意思が薄れていて、あまり効力がなかったりしそうだ。
そういうのは経験しないと知恵として昇華されない
「そういうのは経験しないと知恵として昇華されない」は邦人のセリフだが、これは昨今LLM界隈で少し話題になっている記号接地問題に通ずるものがあるなと思った。
記号接地問題というのは、その言葉(記号)を現実の意味として紐づけられるかという問題のことらしい。
モップ掛け
明にモップ掛けはもうしなくていいと言われた後にも、言いつけを守らず果敢に挑戦する0号の姿には、邦人に言いつけられた「自主性」が見事に表れていたと思う。
何よりここでソルトに対して、「あっち行け。しっし。」みたいに振舞うところは何ともかわいらしい。ここは、前後の神社の階段を上るとこと合わせて、この作品で最も好きなシーンの一つだ。
初のホールで明に頭をポンポンされる0号
ノベライズでは心臓が跳ねて、ぺしゃんこになるほど緊張しているみたいな描写があったが、映画では明確に嫉妬したような表情になっており、ちょっと表現が異なると思った。
ここ以外にも幾つか異なる場面が見られるため、恐らくノベライズは完全に同一シナリオとしてみるよりは平行世界のシナリオとして解釈したほうがいいかもしれないと思った。ただお互いに何かしら重力のようなもので引きあう関係にはあると思うので、解釈が難しいところだとは思う。
個人的には映画は映画として、ノベライズはノベライズとして解釈するのを推したい。といっても一度ノベライズを読むと脳裏にノベライズの内容が刻み込まれるので難しいが…w
買い物に誘う場面
0号が明が買い物に誘いデートする場面で明が行くのを断ると0号はムスッとした顔になるのだが、ここはやはりかわいいなと思った。いや、0号は常にかわいいのだが。
離別のために離れたマンションに連れていかれた場面
「どうしてあなたは私から離れようとするんです?」
「あなたは私を恋人として作ったんじゃなかったんですか?」
「これはあなたにとっても計算外のことなのではないですか?」
といった0号から明への感情の発露はとても切なく、それだけに心に刺さる場面だ。
また明が「いつからだ。いつから君は。僕の前を歩くようになったんだ。」と回想する場面もノベライズにない部分だ。これは恐らくノベライズでは明視点のシーンを除き、基本的に0号視点になっているのためだと思われるが、こういった箇所からも原作完全再現ではなく執筆を行った池田明季哉氏の解釈が入っていることが垣間見える。
そんなこと。僕にかまうのはやめろ!
このセリフは0号がまとわりついてくるのを邪険にした明のセリフだが、この発言で0号の生体制御を発動させることができるのであれば、終盤0号に滅多刺しにされている場面ではこの動きがなかった。要するにあの時は能動的に発動していなかったのではないだろうか?
この後に出てくる「母さんの開発は主の意思に逆らえないようにできている。」というセリフと共に回想シーンに入り、ラボでおじさんが落ちた片腕を呆然と眺めている場面があったと思うが、これはおそらく明が稲葉に何かしら抵抗し、その時に明の片腕が生体制御によって破壊された記憶なのかもしれないと思った。
これまでの鑑賞から明が稲葉によって作られた人造人間であることは明らかであり、このことはノベライズでは明示されている。
つまるところ、恐らく明は知っているのだ。生体制御の苦しさを。知っているからこそ、それがどれほど辛く苦しいか、死ぬほどなのかを理解しているのではないかと感じた。
稲葉との二回目の回想
回想の中で明と稲葉がやり取りする場面だ。個人的にここは水溜稲葉の意思が明と邂逅するシーンだと考えている。
「記録じゃこんな話はできないでしょ。」
「研究はこの子に託した。この子が私になってくれる。明くんが大きくなった姿も見てみたかった。」
「困難に当たるとき、そういう時、家族がいたら楽しいかなって。」
と稲葉が言っているのを察するに、恐らく稲葉の意識は生前で止まっており、ラボのサーバー群の中に封じ込められているのだと考えている。
なので、生前の状態では対話できる。しかし、明の現在の姿を見たりすることはできない、或いはそれを記憶することができないのかもしれない。これはソルトを遠隔操作して接触できたとしてもかなわないことなのだろう。
この後、明が稲葉に対し「またこうしてお話しできますか?」と聞くと稲葉は「生きなさい。あの子と一緒に。」と返す。冒頭の「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」の流れから考えると「あの子」は0号なのか、稲葉なのか気になるところで、稲葉はどちらの意味で言っていたのだろうか?
ノベライズ基準だと恐らく稲葉だと思う。映画基準では稲葉が「仲直りしたら?」と発することから、それは0号なのかもしれない。かもしれないというか、そうあってほしいという私の願望だ。だって0号が稲葉にとって代われるなんて、そんなの嫌じゃないか…。
ラボで茜と邦人が明を起こしていた時
邦人が「大丈夫だって、あの二人はそういうんじゃないんだよ」と茜に告げているときがあるが、もしかして邦人は茜の明への想いを分かったうえで、茶化していたのだろうか?と思った。だとしたらいつからなのだろうか?物語が始まるより前からなのか、その途中なのか。或いは、この茶化していた時に感づいたのか、それはわからないが、以外と邦人もわかってるやつなんだなと思ったし、ここからの流れは微笑ましいなとも。
邦人は恐らく純粋な悪友キャラとして設計されていて、それが最もいかんなく発揮されているのが、この場面だなと感じた。
茶ソルトからの支援
明が0号を探しに行き、そこから茶ソルトが支援に回る時の場面で、茶ソルトの目はずっと黄色に光っていた。黄色に目が光るときは主人への犯行が表れている時だと私は解釈しているが、だとするとこの時は何かしらの命令に反していた状態だったのだろうか?
少なくとも最後に壊れたのが、もしそれが理由だとしたら、これは何故なのだろうかと思った。
個人的にあのソルトには稲葉の意思が宿っていると考えているが、もし稲葉の意思のクローンみたいなもので、稲葉の意思に反抗して動作しているとすれば納得できるかもしれない。或いは市中のシステムをオーバーライドするのが主従を無視した状態ともとらえられるかもしれない。
なんにせよ考察し甲斐のあるポイントだと感じた。
明と絵里の対峙
「親譲りの才能、恵まれた環境、きらびやかな成果物、私も頑張ってきた」と明に当てつける場面があるが、ぶっちゃけ絵里は明の作ったものを改造する程度のことしかできていなかったので、研究者としてみるとどうなのか?と思ってしまうところはあった。
最後の最後までソルトの改造しかできていなかったのだ。ある程度自律的に動く人型ロボットは今の世でもBellaBotの様なものはあるわけで、ソルトの機体を真似して殺戮マシーンくらい作れただろうし、あそこまで作れたのに自身は特に凶器を持っていなかったのも不思議だ。
まぁ、ここはストーリー上の整合を合わせるためなのだろうから、深く気にしないほうがよさそうだ。
0号の反撃と、たじたじになる明
前述したとおり、ここでは明は以前のように明確な停止命令を出さなかったと思っている。
また過去何回も書いた部分でもあるが、やはりここは0号から明への気持ちと、明から0号への気持ちの交錯が、なんとも切ない。平行線を辿り、交わらない想い。分かり合えない二人、ボーイミーツガールの神髄の様なものが、ここには詰まっていると思う。
「私は謝ってほしいんじゃない、認めてほしいんです。」
「やめてほしいですか?」
「当たり前だろ。」
「いやです。」
「やめてくれ、生体制御が痛めつけるのをよく知っているだろう。」
「はい、明さん。とっても痛いです。」
「なんで明さんは信じてくれないの。こんなに頭が明さんだらけなのに。」
「それならできるのは抗い続けることだけです。」
0号だって、明が認めてくれないこと、彼女として、恋人として見てくれないことをやめてほしかったに違いない。しかし明はこの時点で0号のことを家族だと思っていた。まだ妻なら救いもあったものが、家族とはいったい何だろう?流れ的に母親だろうか?
どの道、この時点での明に救いはなかった。殺されていてさえよかったとも思えるほどに0号に対しての興味や関心がなく、何の悪意もない。それこそが0号が厭がる明の姿だった。0号は明に代わってほしかった。でも0号は人は簡単には変われないことを、明を嫌いになれず、好きなままで、またあの時に戻りたいと願う、自らの経験からも熟知していた。
明の目が黄色くなる瞬間
「私は、私の想いが本当だって信じてほしいんです。」「だから明さん、私はあなたに逆らえます。」
ここで明の目が黄色になる。もしかしたらこの時、明は0号に対して何かしら攻撃の意図を持っていたのかもしれない。そう、明が0号を認めない、否定し続けることへの何かしらの生態制御。或いは稲葉からの何かだったのかもしれないが、この場面についても考える余地はありそうだなと思った。
ちゃんと証明しますから。人の想いは制御できないって。
一体これほど悲しい場面がほかのどこにあるだろうか?明は0号が死ぬことさえ予期できていたはずなのに、それでもなお、0号を認めなかった。どうして、何が彼をここまでさせるのか、とにかくひたすらに悲しく、私は0号にだけは幸せになってほしかった。
そして稲葉からの「明くん、生きなさい。生きなさい。一緒に。」というメッセージもよくわからない。メタ的だとは思う。これは0号により強い生態制御をかけるためのおまじないみたいなものだったのかもしれない。明の中にも眠る稲葉の意思の様なものがそうさせたのか、或いは横にいたはずのソルトからの干渉なのかまではわからない。
倒れる0号と、介抱する明
ここは本作で最も美しい場面といっても過言ではないだろう。
「明さんの勝ちです。私の想いはニセモノ…。」
「そんなことない、君は僕なんかよりずっと―――」
果たして明はここでなんと続けたのか。もしかしたら「人間」と言いたかったのかもしれない。つまり、ここで明は自分自身も第三人類であることに気づいたのかもしれない。それまで明は自分自身を人間だと錯覚しているように見えたので、このタイミングで、そういう風に自分を見返していても不思議はないなと。
明は明らかに人間として欠落した要素がある。半面、0号は人としては普通で、何ら問題ない境地に達していた。それゆえに、自分が第三人類であると自覚したうえで、「人間」とはなったのであれば不思議もないだろう。
ここから先は感想というより、観た人がそれぞれ解釈し、次に繋げていく、要するに二次創作の領域なのかもしれないと思ったりした。
おかえりなさい「明くん」
0号は意識を取り戻さないが、身体的には生存している状態、いわゆる植物状態になっていた。
そんなある日、0号が部屋から消え、明は0号を叱ってやろうとなど考えながらも急いでラボへと向かう。すると、そこにいたのは0号の姿をしているが、どこか違和感のある0号だった。
明に気づいた0号が『おかえりなさい「明くん」』という謎めいたセリフを残し、ここで物語は終わる。
どう考えてもこれは稲葉だ。これは恐らく明にとっては望んだ結末だった。しかし0号はどうだろうか?
もうここに0号はいないのだろう。稲葉の意志だけがある。
「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」の通りになってしまった。明は0号にめった刺しにされながらも「生き続けた」、つまりここが「生きなさい、生きなさい。」なのだと思う。
そして稲葉はここに蘇り、「生きるの。私と。」に続くのではないだろうか?
いったい0号はどこへ消えたのだろうか?稲葉に屠られたとでもいうのだろうか?
非常に悲しい結末で、胸が苦しくなる。胸が痛い。とっても痛い。
ボーイミーツガールといえば男女が出会い、色々あってデートをしたり、また別れたりして、最後はくっついたり、或いは何か明るい未来に向かっていくのが王道だが、メイクアガールはその道をかき消した作品だと思う。もうそこに0号はいないのだ。
変わってしまった0号
エンディングを見ると0号だった人物は、その後もファミレスでバイトをし、0号ではなくなったため、様々な失態を犯しているように見える。しかしこの時はまだ、誰も0号が0号でなくなったことには気づいていなさそうだ。
明でさえも普段通り暮らしているように見える。まぁ明は興味関心に乏しく鈍感そうなので仕方がないかもしれない。
こういった場面を見ていると0号の意識が少しは残っているのだろうか?とかも思うのだが、稲葉が0号の記憶を読み解き行動しているだけかもしれない。
少なくともこの0号らしき人物は、その素性を周りに対して明らかにしていないことは明白なので、稲葉なのか、0号なのかははっきりしない。
しかし最後に稲葉の姿が被る場面があり、稲葉と同様の行動をとっているあたり、きっと、もう完全に稲葉なのだろう。0号の記憶が混濁していたり、意思が少しでも残っているといいのだが、なんにせよ、もうきっと0号はいないのだ。
余りにも悲しい。非情な物語だ。しかし、この不条理こそがメイクアガールをメイクアガールたらしめる要素なのだと思う。終わり方としてはさっぱりしている。
全体を通しての感想
明は元々恋人を求めておらず、しかし恋人を作ってしまった。これはいわゆる「ドリルを買いに来た人が求めているのは、ドリルではなく穴である」や「顧客が本当に必要だったもの」案件だろう。自分が本当に欲しいものは中々見えず、手段と目的が逆行するのは世の常だ。
このストーリーは明の壮大な勘違いから生まれた0号が、その成長の過程で明の本心を気付かせるものなのかもしれない。
そうして明は家族が欲しいことに気が付き、0号は水溜稲葉となる。そう考えればハッピーエンドだ。そう考えることができるのならば。
私には無理だ。あれだけ明を慕っていた0号がいなくなってしまう。明を殺したいほど愛していて、明がいないと生きていけないほどだった0号が、そこまでの愛を抱いた0号が消えてしまう。それは切なく、儚く、最悪で、そして0号となった稲葉に対しては最悪という感情しか湧いてこない。
なんてことだ…。こんなことはあってはならない。0号を返してくれ!とさえ思う。ただ0号が帰ってきたところで明は0号を恋人として認めないので報われることはないのだろう。そう考えるとこの形での決着は望ましいものとなる。
しかし、それでも私は0号に帰ってきてほしい。帰ってきてもらってもどうにもならないのもわかる。しかし明に改心してもらって0号と余生を過ごしてほしい。そう思うのだ。
そして、そうならないこと、このジレンマこそがメイクアガールの本質だと思う。だからこそいい。素晴らしい。こういった酷さがあるがゆえにメイクアガールは美しい。
メイクアガールを観てきた 五回目にも書いたことだが、だからこそ「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。」作品だと思うのだ。
きっと脳を灼かれたり、感情がぐちゃぐちゃになる作品というのは、こういう要素が一定あるのだと思う。
わざわざ宇部まで見に来てよかった。間違いなく、そう思わせてくれる作品だった。4月11日から塚口サンサン劇場でも上映が始まるが、そちらも是非見に行きたい。ブルーレイが出たらそれも買いたい。
余りにも感想を書きすぎているので、恐らく次回はもう書かないと思う。純粋な気持ちで作品を鑑賞し、最後の映画館での鑑賞としたい。それとは別にノベライズの感想は書いていきたいので、また書くかもしれない。
シネマスクエア7までの行程
新神戸から新山口まで新幹線で行き、そこから宇部線で宇部岬へ向かい、そこから徒歩でシネマスクエア7に向かうといった内容だ。
旅の始まり
旅は新神戸から始まる。三宮に住んでいると新神戸が近くて非常に助かる。
この日は九州新幹線さくらに初の乗車をした。
軽めの防寒具として以前買った、U.L.トラベルダウン ハーフコートを持ってきたが、小さくたため適当な場所に引っ掛けておくのに便利だった。
さて、鉄道の旅といえば駅弁は外せない。淡路屋で春限定の弁当を買った。これは行動量が多いからボリューミーなのがいいだろうと選んだ。
内容は大変豪華で、いかなごのくぎ煮や桜餅、鱚の南蛮漬けっぽいもの、煮豆、桜人参入りのすき焼きに、季節感あふれる煮物に塩鮭、そして季節感あふれるばら寿司。どれも美味しく目でも舌でも楽しめる一品だった。
飲み物を買い忘れていたが九州新幹線にはまだ自販機があるらしく、事なきを得た。
新山口につく前になると転車台が見えた。今時珍しいなと思ったが、単行が目立つので車庫の代わりにしているのかもしれない。転轍機複数持つよりはローコストだろうし。
新山口に到着
そんなこんなで新山口に到着。
駅の南側にはホテルと塾くらいしか見えず、北側もぱっと見そんな感じだった。新山口は姫路よりも停車が少ないらしくさびれていた。
新山口駅では手ぶら観光なるものができる立て看板があった。
これから行く宇部線ではICが使えないことも知った。松山駅にはなかった気がするので、完全にICがないエリアと、混在しているエリアの差を感じる。とはいえ、同様の加古川線や播但線もここまでのものはなかった気がするが、まぁ駅の規模の差とかなのだろう、きっと。
さて、こういう時帰りに土産屋が閉まるのを散々経験したため、あらかじめ土産屋を物色する。フグの刺身は売り切れだった。
帰りの駅弁を買っておこうと思うものの。こちらも売り切れ。
宇部線へ
新幹線のホームから宇部線は離れているらしく、連絡通路を歩いていたら透明な消火栓を見つけた。オシャレだし故障が一目でわかって便利かもしれない。
連絡通路から在来線ホームを一望してみるとかなり広いことがうかがえる。新幹線が通過する割にでかい駅だ。
しかし改札は少なく、券売機もたった三台。
行先表示も二行しかないことに閑散具合を見ることができる。
さて、往復の切符を買い、改札を抜ける。
この時になるとジャケットを入れたスリーブはカラビナに引っ掛けていた。松山でも思ったことだが、やはりこのカラビナは便利だ。
宇部線乗車
しばらくすると宇部行きの電車がやってきた。宇部線はラッシュ時以外は一時間に一本、運行していない時間もある路線だ。
車社会だし、この本数ではあまり使ってる人はいないのだろうなぁと思っていたが、意外と乗車客は多かった。
さていよいよ乗車する。宇部線経由と書かれているが、宇部線しか走らないのでは…?などと考えていた。
宇部線車内
まず目に入ったのは福知山線ではおなじみの整理券発券機だ。
整理券があるということは当然運賃箱もある。
扇風機があって琴電のようなレトロさを覚えた。
宇部岬駅
一時間ほどの乗車で列車は宇部岬駅に到着した。駅には意外と人がいた。
改札はしょぼかった壬生川駅を、さらにしょぼくしたような感じだ。
駅は全体にレトロ感が漂う。
駅舎も雰囲気があっていい。
駅前は居酒屋が一個ある程度で特に何もない。
ここが鉄道駅であることを示す居酒屋があるのはいいなと思った。
特に写真は載せないが、この駅のトイレには紙がないので、駅のトイレを使う場合は要注意だ。この駅は無人駅だが、トイレ自体は綺麗で、段差のある和式が一個ある感じのやつだった。
シネマスクエア7
駅の脇道を抜け歩くこと5分程度、シネマスクエア7が見えてきた。
やっと来れた。少し感慨深い気持ちになった。
シネマスクエア7の入るフジグラン宇部の中に入り、シネマスクエア7の前に来たところ。
NOW SHOWINGに光るメイクアガールの掲示が美しい。
グッズもセカンドランとは思えないほど充実していて、なんとクリスタルアートまで揃っていた。
メイクアガール入場開始
開場の瞬間は誰もいなかったが、あれこれ撮影したりしてる間に一名に先を越された。手落ちである。
しかし事前予約では9席あったので、まぁ後からくるのだろうと思った。実際上映開始前には10席埋まっていた。
シネマスクエア7はレトロでいい感じだ。
今回もぬいを持ってきていたので一緒に撮ってみた。
シネマスクエア7の座席は段差が少なく足元が広いタイプで、塚口サンサン劇場が近いと感じた。キノシネマ神戸国際ほど平坦ではないと思う。
シネマスクエア7では一週目の特典も配布されていた。一週目にもらったものと合わせて三枚になったのだが全部「0号?」なので、もし4/11~上映の塚口サンサン劇場で配布があるとしたら「0号」のほうをゲットしたいところだ。
またグッズ販売もセカンドにしては充実しており、クリスタルアートをはじめ、多くのグッズが揃えられていた。
帰路
上映が終わると19時手前になっていた。辺りは暗くなっていた。
宇部岬駅に戻ってきて待つこと一時間弱、新山口行きの列車が入ってきた。
新山口駅に着き新幹線乗り換え口に向かう。発車案内には新大阪行き最終電車が表示されている。そう、最終電車で帰るのだ。
このあと新幹線改札をくぐる時に簡単なトラブルがあった。それは新幹線はEX予約でとっているので本来改札なしには入れないのだが、切符で入ってきているため改札ではじかれてしまったのだ。
駅員に聞いてみるも半ば困惑気味に、切符を通した後にICを通せばもしかして通れるかもしれないと言われ、試したらなんとこれで通れた。これはちょっとした裏仕様っぽくて面白かった。
改札を抜け、またもや待つこと一時間弱。ついにそれはやってきた。新山口発、新大阪行き最終電車。おそらく東京から来た人ならもう帰れないやつだ。
今回の旅では列車の接続に概ね一時間弱かかり、合計で三時間ほどの余白があったが、一回一回が中途半端すぎて地元のお店に入ったりできなかったことが残念だった。機会があれば次はふぐとか山口らしいものを食べてきたいところだ。
そして無事新神戸まで帰ってこれた。
改札はこの時間の割には割とごった返しており、意外とこの時間でも使う人がいるのだなと感じた。
お土産
宇部かまのかわいらしい紙袋で持って帰ってきた。
かまぼこやふぐうどん、お茶漬けのもとに地元の銘菓っぽいものを軽くそろえてみた。
- 投稿日:
メイクアガールを観てきた 三回目の続き。四回目の記事を書いていないため、今回の記事は三回目から飛んで五回目となっている。
去る3月1日、チネチッタでメイクアガールのスペシャルスタッフトークショー付き上映が行われたので、それに参加してきた記録とか、映画への想いとか。ちょうどノベライズを読み終わったところなので、そこへの想いもちょこっとだけ。
チネチッタへ
この日は朝から予定が入っており、10:30には終わる手はずだったが、30分オーバーした時のことを考慮して11:16発の新幹線で新神戸から新横浜に向かう予定だった。Yahoo乗換案内によるとこの予定では上映開始10分前にチネチッタにつく計算だった。
この予定は的中し、見事予定通り…となったものの、新神戸まであと少しのところで忘れ物に気が付いてしまい、どうにかなることを信じ、引き返したものの、余裕で間に合わず、一本後の新幹線に乗る羽目になった。開幕から中々の有様だったが、時刻表の読み合わせを行った結果、当初の予定時刻に到着できることが分かり、事なきを得た。
ギリギリで乗車車両を変えたため窓際が取れず、富士山は通路側の席から窓際の人の頭を避けて眺めることになってしまった。
なんとか11分前にチネチッタ前に到着でき、無事事なきを得た。駅前にチネチッタへの行き方が一切なく、土地の形から推定していったため無駄に遠回りしてしまったが、一種のテーマパークにも見える雰囲気のいい場所だった。
そしていつもの上映前の写真撮影。今回は人生初のぬい同伴だ。このぬいを取りに帰るためだけに時間に間に合わなくなるリスクを冒したので、その甲斐はあったと思う。たぶん。急いでカバンに入れたので0号の髪がやや乱れているのが申し訳ない。
そして上映終了後のトークで映し出されていたスクリーン。みんな撮っていたのでたぶん撮っていいものだと思う(適当)
しかし、がんばっていきまっしょいで松山に行った時も大概だったが、今回も川崎ということでずいぶん遠くまで来てしまった。しかも神奈川は今まで通過したことしかなかったので、これが初上陸であった。
鑑賞五回目の感想
そんなに書くことないかなと思っていたが、書こうと思えばつらつら出てくるもので、これがメイクアガールの恐ろしさだと感じた。
終盤のシーンに関して
0号が明と別居し、海中と話すシーンで「そんなのわからないですよ。できるかもしれないじゃないですか」というシーンがあり、この時の0号はまだ明とやり直せる可能性を考えていたと思うが、恐らくこの感情は海中と明が対峙し、海中のソルトが破壊されたことで砕け散ったと思う。あのシーンはあまりにも残酷だったし、あの状況でも0号が言葉を紡げ、さらに明への想いを募らせ続けられていたことは本当にすごいことだと思う。
この終盤のシーンでは0号は明の恋人になりたい、明のことが好きという変わらぬ想いがあったのに対し、明は0号と家族になりたいと考えており、最後まですれ違う思いは解消しなかった。何より、0号が私の気持ちを信じてほしいと言ったのに「わからずや」だとか「だから君はそういう風にできてない」と返す明は本当に救いがない。そしてここから0号は「私逆らえます」と言い、明への攻撃姿勢に完全に転換する。
このすぐ後に明は「話し合いがまだ足りない」などと詭弁を言うが、話し合いならもう十分にしただろうと思った。明は「混乱している」とも言っていたと思うが、それは明だけの話だ。0号は一切何も混乱していない。ただただひたすらに明のことが好きで、頭から離れなくて、この想いが作り物でないことを信じてほしかったんだ。
明が混乱しているのは、おそらく明は0号のことを勝手に家族扱いしようとしているが、0号は恋人としてみていること、そして海中の戦闘や、それまでの非日常的な光景などで頭の中がぐちゃぐちゃになっていたからだろう。しかし0号にとっては明がすべてで、明のこと以外はどうでもいいのだ。これが決定的な二人の間にある意識の乖離だと思う。本当にこればかりが悲しくて、メイクアガールは罪な作品だなと思った。余りにも純粋で、酷で、堪らなく愛おしい、この作品はそんなラブストーリーなのだ。
決して実ることない0号と明のラブストーリー、どこまでも救いがなく、だからこそ美しい。
私が好きな小説の一つにキノの旅という作品があり、この作品には「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。」という祝辞がある。メイクアガールは、まさにそのような作品だと思う。
ところで一番最後、0号が倒れる前のシーンで0号が「私の想いは偽物」といい、明が「そんなことない、君は僕なんかよりずっと――」と返すシーンがあったが、明はあの後何と言ったのだろうか。「本物」だろうか?「人間らしい」だろうか?恐らくこれは明の気持ちが最も0号に近くなった瞬間だと思う。後日、教室で「彼女じゃないよ」と返しているシーンがあるので、結局明は0号の恋人になりたい気持ちを否定しているようにも見え、あの時の態度は何だったのか?とも思うので、あの時の明がどういう意図で言っていたのかは定かではないのだが…。
そして0号が布団からいなくなり、ラボに移動したときに発する「おかえりなさい。『明さん』」というのが、水溜稲葉であるとしたら、「彼女じゃないよ」というのは母親を意識していたのか、それとも単に家族という認知だったのかも気になるところだが、母親と影が重なるシーンがあるあたり、母親ではなく、家族という認識で、恋人ではなく、家族が手に入ったことで明的には求めていた家族が手に入り、願望かなったりなのかなと思った。例えそこに明のことを好いていた0号がいなくてもだ。
明は海中に連れ去られた0号を追跡する前の回想で、0号の温もりを水溜稲葉由来のものとして解釈していたように見えるため、恐らくその面影があるのはうれしいことなのだろう。
個人的にこの作品を見ていて思うことは、どれほど言葉を交わしても、心は簡単には通じないし、想いを伝えることは難しいこと。人は簡単に変わらず、変えることもできず、どうしようもない無力さ。そして一度起きた勘違いは軌道修正することすらできず、明は自ら作ったはずの0号という恋人を忘れて、母親である水溜稲葉に傾倒してしまう悲しさだ。
0号が消えたのは痛ましく、それが水溜稲葉に乗っ取られているように見えたのは、非常に心外で、ありえないし、絶対に0号に戻ってきてほしかったが、そんなことはなく…本当に、本当にメイクアガールは救いがなく、それ故に美しい。まさに割れたガラスや水晶のようだ。だからこそ、私はメイクアガールが好きだ。これほどまでに心を突き動かされ、奪われる作品は過去に見たことがない。そう、メイクアガールは私の脳を鋭利な何かで刺してきて、そのままおもむろにぐちゃぐちゃにかき回してきたんだ…。
瞳が黄色くなることについて
そういえば、劇中の表現として創造者に反逆をするときに瞳の色が黄色くなる表現があるように思った。これは0号に限らずソルトもそのように見えた。そして明も瞳が黄色くなる瞬間があるということは、明にも生体防御が発動していたのだろうか?
このことについては後日ノベライズを読んだ感想について書こうと思っているので、その時に併せて書こうと思うが、ざっくりいうと書き換え不能な部分は水溜稲葉の意識だと考えていて、この意識はプログラムされたすべてのシステムに埋め込まれているのではないかという気がしている。
それ故にソルトに導かれた明がソルトから電撃を受けたときに水溜稲葉からの干渉を受けられたのではないかという気がしている。ノベライズでは相手の自我が強いと入り込めないが、脳が酸欠なら入り込めるとあったので、つまり明が気絶した状態であれば明の脳内に眠る水溜稲葉の意識が本人に干渉できるのではないか?ということを考えている。
恐らくメモリの中に格納されたシナプスのようなものは水溜稲葉の脳を転写したもので、明がこれを読めるのも、そういった部分が関係しているのではないかと思っている。
但しノベライズと映画には微妙に辻褄が合わない部分がある気がしているので、どこまで合っているのかはよくわからない。
スターシステム?
明が0号を追跡する過程で交通障害が起きるが、この時に二人のモブキャラが出てくる。「こっちだっけ?」という男性と「ええ、どうなってんの?」という女性だ。
シーンの割にはちゃんとしたセリフが設定しているのが気になっているのだが、もしかしてこれは次回作に出てくるキャラクターで、スターシステムなのかな?と思ったりした。
- 投稿日:
2/2に二回目のメイクアガールを観てきた記事を書いたが、昨日、三回目を見てきたので今回も何か書いてゆく。
劇場
今回はMOVIXあまがさきにて鑑賞した。ここを利用するのは2023年5月27日の 『アムリタの饗宴』 『アラーニェの虫籠』<リファイン版>以来だ。
ここ以外での上映が乏しいでもない限り、わざわざ来ない場所なので、神戸でやっているのにMOVIXあまがさきに来るのは珍しいパターンだ。
これは手前で有馬温泉に行っていたのと、MOVIXあまがさきでの上映も体験したかったところによる。
そんなこんなで1番スクリーンで観てきた。
これまでの疑問点の解消
明の過去の記憶に登場する家
前回疑問に思った「アキラの過去の記憶に登場する家」についてだが、前の記事のコメントにもあった通り養護施設と思われる。
これは明が「おじさんに出会うまで施設にいた」と発言していることから、そう読み取れる。
また公式サイトのキャラクター紹介にもそう書かれている。
0号が神社の階段を上るシーンの意味
これも前回疑問に思った部分だが、これも前の記事のコメントにもあった通り0号の成長を表しているようだった。
これは最初、0号がラボの掃除でバケツをこぼしてしまい明からもうやらなくていいといわれた時は、夕方の階段をとぼとぼと歩いていたのだが、その次に上手く掃除をやり遂げてソルトに対して「あなたはもう用済みだよ」みたいな仕草をした後は、朝方でぴょんぴょんと登っていたので、そうだろうと思った。
ところで私はモップを決める0号のシーンがめちゃくちゃ好きだ。
0号を探しに行く前に入力していた内容
これは特にどの記事にも書いていなかった内容だが、ちょっと気になっていた部分だ。
明が0号を探しに行く前にキーボードの何か打ち込んでいるシーンでの入力内容について、これは「MIZ」までは見えたので、恐らくあれは「MIZUTAMARI」と入力しているのだろう。恐らくパスワードか何かだと思う。
感想
とにかく0号がかわいい。そして明が未熟すぎる。本当に最後の最後まで、純粋で、素直で、裏表がなく、馬鹿で愚かで、救いがない。
0号がひたすらかわいい。愛らしい
ハンバーグを作って見せる0号もかわいいし、普通といわれて喜ぶ0号もかわいい。
さっきも書いたが掃除がうまくできるようになってソルトにモップをキメて見せる0号がかわいいし、神社の階段をぴょんぴょん跳ねる0号もかわいいし、ファミレスで明に帽子をわしゃわしゃされて「わっ」という0号もかわいい。
明をデートに誘う0号も、「好きってこれでいいんだ」と思う0号も、明にぞっこんになる0号もかわいい。
別居するときに「明さんは時折、私のことがわからないって言いますが、私の想いは設計したことがすべてじゃないってことですよね?」みたいに明に言い寄る0号もかわいい。
そこから明が逃げようとするときに「好きなんです。私は明さんが。明さん…」という0号もかわいい。こんなかわいい0号を放逐した明はさっさと死ぬべき。
「こんなに頭が明さんだらけなのに信じてくれないのなら」という0号もかわいい。それに対して否定の言葉しか出せない明はホンマ…
0号による脱獄
0号が明を攻撃する終盤のほうで、母親が0号に干渉するシーンがあるが、それを0号が跳ね返すのはまさに脱獄のように見えて、あそこは結構好きだ。
脱獄というのはAndroid端末のOSをすり替えたり、LLMが本来発言できない内容を引き出すなど、システムの脆弱性を突いて特権を奪い取る行為のことだ。これをすることでシステムは本来の制限を超えた動作をさせることが可能になる。ちなみに補償対象外になったり、アカウントがBANされたりするので良い子はやめておこう。
ただまぁ結局はかなわなかったわけだが、それでも自死だけは回避できていたので、もしかすると多少は緩められたのかもしれない。
明がひたすらに未熟で愚か。
「何に対しても悪意はないけど、興味もないんですよね…」とか言わせる明はサイテーの人間。
母親との会話シーンで「困難にあたる、そんな時この子がいてくれたら楽しいかなって」と言われて改心するものの、最後のシーンで0号に幾度もなく好意や愛を伝えられ、それを認められらない。認めることができない、明というのは非常に愚鈍で、本当に救いがない。無自覚な分、鬼畜でしかない。
「こんなに頭が明さんだらけなのに信じてくれないのなら」という0号に言われてもなお、それに対して肯定の言葉を一切言うことができず、取り繕ったようなことしか言わない明は本当に終わっていると思う。
次回予告
0号の姿が変わり、ナイフを投げガラスを割ったようなエフェクトともに浮かび上がる2027は、ひょっとすると海中との戦いなのかもしれないし、明と戦うのかもしれない。なんにせよストーリーが大幅に変わるだろうと感じた。
しかし個人的には最後の着地点は「家族」ましてや、「友人」などではなく、「恋人」であってほしいと思う。べたな展開だと明は茜と結ばれ、0号は去るとか、家族になってしまいそうだが、私は0号と明こそが結ばれてほしいと思う。
さてどうなるかは未知数だが、楽しみだ。
あとがき
本作の内容をノベライズした文庫本も入手したので、また読んで理解を深めていきたいところ。
本作は3回見て、そのすべての鑑賞会が別の映画館という、鑑賞歴の中でも今のところ唯一の作品だ。恐らく回数を重ねるとダブりは出るだろうが、傾向としては面白いと思っている。
私はメイクアガールが好きだ。そう、過去に観たどの映画より好きだ。0号はかわいいし、明はダメダメで、だからこそそれがよくって、メイクアガールは最高なんだって…。
明の未熟さに起因する軋轢や、葛藤も好きだ。何より0号は私の好みの属性に完全に一致するくらいかわいい。ここまで綺麗にハマったキャラは過去にいない。そのくらいかわいい。
0号の可愛さを深掘りする記事を書いてもいいと思うくらいにかわいいのだ。
ところで、公式サイトのキャラクター紹介で0号を眺めていて気が付いたのだが、コンテンツを区切るノイズのような線が砂嵐のように動くのが、ちょっといいなと思った。こういう細かい部分にまで作りこみがあるのは嬉しい。