お知らせ

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どうも、最近ブログネタが溜まっているのに更新が追い付いていない管理人ですが、今回はYAPC::Hiroshima 2024というカンファレンスイベントに参加してきたので、その感想について書いてみる。

因みにこういう大規模なイベントに参加するのは今回が初めてだ。

YAPC::Hiroshima 2024とは?

まずこのイベントが何なのかについてだが、公式サイトによれば以下のように案内されている。一言で言えば広島で「お好み」について話すイベントと言えるだろう。Perlであっても、なくてもどっちでもいい感じ。

YAPCはYet Another Perl Conferenceの略で、Perlを軸としたITに関わる全ての人のためのカンファレンスです。 Perlだけにとどまらない技術者たちが、好きな技術の話をし交流するカンファレンスで、技術者であれば誰でも楽しめるお祭りです!
今回のYAPC::Hiroshima 2024は「what you like」がテーマです。職種、ロール、プログラミング言語、技術要素... あなたのさまざまな「お好み」を語ってみてください。

登壇者は錚々たる面々であり、なんととほほのWWW入門で有名な杜甫々氏も来られているという、かなり凄い内容だった。ある程度の年齢層の方であれば、とほほのWWW入門にお世話になった方も少なくないのだろうか?私もその一人なので、来る目的の半分くらいはこれだった。

参加の経緯

ここ最近私は技術関係のアウトプット先を増やそうと悶々としており、社内外を問わず色々と顔を広げていく活動をしていた。

社内であれば大勢が集まる雑談チャンネルで話を持ち掛けたり、チーム内で話ができる場を設けたり、社外であれば、それっぽいDiscordチャンネルに入ったり、Slackを探したり、果てはジモティで話し相手が見つからないか探してみたり、手当たり次第に探していたところに三宮.devというコミュニティを発見したのだ。そしてここでYAPC::Hiroshima 2024に参加する人はいませんか?という話がされており、そこでこのイベントに出会った。とにかく飢えていた私は参加を決めた。

行程

当日新神戸から広島へ新幹線で向かい、その日のうちに帰る弾丸スケジュールにした。

本当は前日に入り、翌日に帰ることを考えていたのだが、実は参加を決めた時点では骨折しており、根本的に行けるかどうかが見通せず、ホテルを取れずにいたため「行けたら行く」でスケジュールした結果、こうなってしまったという悲しい話がある。

結果的に骨折は良くなったのだが、その頃には連休のためホテルが抑えられなくなっていたのと、歩けるようになっただけであって、完治したわけではなかったので無理をしない方向に倒した。ビビりだと思う。かつて高熱を出しても命を削りMMOをプレイしていた人間とは思えないビビり方だ。

因みに早起きが苦手なので12時に広島入りするという大遅刻計画となった(開場は9:45)

イベント参加

まず受付に入り、名札に自分の名前とお好みを書いた。テストコードを書くことや、PerlということでCGIがあった時代と絡めて「昔のインターネット」や「個人HP」について書いてみた。

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最初の登壇を聞きに行った。到着時間の関係で既に始まっていたのと、この為に買ったマシンのセットアップが不十分でセットアップをしていたらほとんど何も聞けていなかった。

その登壇が終わったら昼食だったのだが、端末を鞄に戻すのに手間取り机のある席が取れず、椅子しかない席で気合で食べる羽目になった。仕出し弁当が用意されていて、なかなか美味しかった。飲み物を買ってき忘れる体たらくだったが、幸いここで補給できたので助かった。(昼あるし、なんか出るだろうと過信してやってきたのが当たった形だ)

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登壇傍聴

昼食を終え、実際の傍聴を始めることにした。以下は聞いて思ったことを書いているだけなので、実際の発表内容とはそんな関係がない。

Blogを作り、育み、慈しむ - Blog Hacks 2024

まずはSongmu氏の「Blogを作り、育み、慈しむ - Blog Hacks 2024」を傍聴することにしたが、私もブログを書いているのでこれは非常に共感できるものがあった。それとオタク特有の早口の良さというのも共感できる要素だった。

私もこのブログというかサイトはHTML手書き時代から数えれば2002年からやっているわけで今年で22年になるが、何故そこまで続けられるのかと聞かれれば、それは「ブログを書くこと(サイトを作り続けること)が好きだから」だ。ブログというか個人サイトいうのは一国一城である。執筆者や管理人はそこの主で、文字通り何でもできる。これはすごく楽しいと思う。私はそれが好きだから続けられている。

それにWeb技術者として見た場合、ブログを始めとした自分のサイトを持つというのはHTMLセマンティクスやアクセシビリティ、SEO、通信プロトコルやLinuxなど、様々な観点の勉強にもなる。サイトを作るというその行為そのものが技術経験になりえるのだ。ブログシステム、CMSを作るという領域まで行けば、それはもう立派なプログラマーだと思う。変なプログラミングスクールなどに通う必要など全くない。それ自体をポートフォリオとして出すことさえ可能だ。

自分の好きを語れる場としてのブログ、別にブログである必要もなく、個人サイトでもいいのだが、これを持つというのは一つのアイデンティティを持つことにも繋がり非常に良いと思うので、興味がある人には是非やってほしいと思う。

特に「Webをやりたいのですが、何を学べばいいですか?」というような人には大変お勧めできると思う。どっかのフリマアプリのクローンを作ってポートフォリオというよりは採用担当にも響くだろう。

しかし凄いのは900記事以上も古くから積み上げた記事があるという点だった。私はサイト移転を数えきれないほど繰り返してきており、その都度過去のコンテンツが失われているという悲しい状態なので、今後は保持していけるようにしたいと思っているし、正直ブログの破壊的変更を伴わないようにしたいと考えている。

実際、直近でははてなダイアリー>WordPress>adiaryで記事の移行をしているが、この三回の移行では全記事の移行に成功している(記事の数が少ないからできたことではあるが…)

記憶が確かなら、中学のころから今までに書いた記事の総量は1,000を優に超えるはずである。何故なら昔の私は毎日しょうもないことを書いていたからだ。MMORPGをしていた時は毎日の成果を書いていたものだし、色々な妄想を書いたりもしていた。ブログのほかにもMMOサービス側に設置されていたOpenSNS的な奴にもよく書いていた。そういったSNSやmixi、Qiitaなどの傍系も含めれば5,000記事ほど書いていてもあまり不思議ではないが、いずれも現存しないため確認はできない。

今でもブログを書くペースよりネタが増えるペースのほうが早いので多分今後も変わらず増え続けるとは思うのだが、年々ペースが落ちている感は否めない(やることが増えて書く暇が減っている)。とはいえ、Twitteから距離を置いてからは書く量が目に見えて増えているので、これはブロガー的にはいい傾向だろう。

この事についてSongmu氏と懇親会で熱く語れればよかったのだが、当日の私はそこまで頭が回っていなかったのが悔やまれる。

非同期な開発体制を支えるドキュメント文化

次にこんぼい氏の「非同期な開発体制を支えるドキュメント文化」を聞きに行った。いや会議室を変えていないので、そのまま居座っていただけだが。

この議題についてはかなり興味があり、というのも仕事ではドキュメントの整備状況が悪く、声をかけても実装が優先で書いている暇がないというのが実情としてあった。正直私も書くようにはしてるのだが、後手になっている感じは否めない。

聞いていて思ったのは全てのやり取りをドキュメントベースにすれば実現できるのではないか?ということだ。同期コミュニケーションをすべてやめて、ありとあらゆるコミュニケーション手段をドキュメントベースにするということだ。こうすればドキュメントから仕事が生まれるので、ドキュメントがないとか、古いというのは起きないように感じる。

ドキュメントに関する不明点はどう聞くのか?という部分については、もうそれは従業員のメンタルモデルをバキバキに鍛えていくという方向になる気がするので、どこまで実現性があるのかは判らないが、一つの手法としてありだなというのは感じた。

この内容を何とか実業務に生かしていけないかも考えていきたいところだ。

好きな技術《コト》で、生きていく技術

その次はaereal氏の「好きな技術《コト》で、生きていく技術」を拝聴することにした。相変わらず会議室を動いていないが、恐らくこれは私のお好みが、偶々この会議室に集中していたということなのだろう。

内容的には自分の好きな技術をどうやって仕事で使っていくかという部分と、その難しさについての内容だったと思う。これは私も実業務で引っかかることがよくあり、どうすればメンバーが使いたい技術を業務で使わせてあげることができるかという点についてはよく考える。

まぁぶっちゃけた話無理だと思っている。例えばメガバンクのシステム開発をしているとして言語やフレームワークのCanaryやNightylyの新機能を使いたい!と言われてもそんなものは許せない。勿論、それで不具合が出来ないことを立証できれば可能とは言えなくはないが、現実的に不可能だ。何ならその機能は将来的に破壊されたり、削除される可能性もある。その後のことを考えれば無理無理の無理だ。

とはいえ、メンバーは使いたいのだ。私からは無理としか言えないが、無理しか言わないと「この人に話しても埒が明かない、レガシーは嫌だ!モダンがいい!」と思われてしまう。その対策を考えたかったので、このトークを聞きたかったのだ。

結論から言うと「自分が選べる立場になる(CTOとか)」や「個人開発で使う」ということだった。前者については非常に納得できる内容で、私は正直そのためだけにその立場につく努力をしているといっても過言ではない。

私にも使いたい技術や手法はある。それは「システムを楽に安全に保守できる技術」だ。要するに古く枯れた技術とか、テスト容易性に長けた実装手法などだ。しかしこんなのは面白みがまるでない。特にテストなんて誰も書きたくないし、テスト容易性が高い実装は疎結合で何を書いているかが分りづらいのだ。テストがドキュメントになるといわれても、そんなことより動けばいいのである。

何故それがやりたいかというと、私は職務経験上炎上案件に多く入っており、残業地獄を経験してきていたり、実稼働しているシステムでクソのようなバグを多々踏み抜いてきており、こういうのを避けたいからだ。現職でも時間外対応をしているのを見るとウッとなってしまう。

勿論、私の提案によってそれらが全て解決するかといえば、そんな保証はないし、一個も解決しないどころかより悪くなる可能性だってなくはない。私もやってみないとわからない。ただ個人的な経験や世間を眺めていると、少なからずマシになるのではないかという期待はある。

そういうので私はある程度その辺りを良しなにできる立場まではやってきたものの、次に立ちはだかる壁として出てきたのがメンバーの希望をどこまで採用するかだ。これはメンバーのモチベーション低下や、新規採用にも影響する可能性があり、判断が難しい。しかし事業として見た場合、安定して動いているシステムが求められるのは間違いないと考えている。

そこで後者の個人開発といいたいところなのだが、仕事でやっているだけの人には響きづらいし、個人でやったからこそ仕事にも持ち込んで実績にしたいという人もいると思うのが難しいところだ。とはいえ個人開発の実績はよほどの規模のものでない限り知れており、エンタープライズ開発では無意味なことも多いと思う。例えば個人開発で実験的な機能を使って動いていても、それがエンタープライズでも同様にいくとは限らない。

ここ本当に難しいと思っていて、どうしていけばいいのか悩むところだが、正直なんかいい感じで妥協しつつやっていくしかないのだと思う。何に対しても言えることだが、世の中には銀の弾丸であったり、正解というものはないのだ。

強いて言えば事業として見た場合は最小限のコストで、最速のスピードで、最大限の売り上げを出せるシステムを作れることが正義であり、自分がやりたいことをやるという部分とはどうしても乖離していくので、その辺りをなんか上手いことできるのが最良だとは思う。

それをするためには常日頃から様々な経験を積み、手札を増やし、できる限り多くの選択肢を取れるようにしておけることが大切であると、聞いていてそう感じた。これは開発もそうだが、開発以外もそうだと思う。

手札が多ければ選択肢が増やせるので、AがダメでもBがやれるし、最悪Cでもいい、どれかやれればいいという状況が作れる(いわゆる松竹梅というやつだ)。メンバーは他人なのでどうにもならないが、少なくとも自分だけはそういう状態であれればいいのではないかと思う。

古い技術について—SMTP現代事情つまみ食い—

最後にazumakuniyuki氏の「古い技術について—SMTP現代事情つまみ食い—」を聞くことにした。

これは先日Value-DomainのドメインをさくらのレンタルサーバーのメールでSPF, DKIM, DMARC対応させた私にとっては興味深かったからだ。

まず登壇者が関西弁だったので親近感が凄く湧いた。何故なら私は神戸に住んでいるからだ。

今まで何となく使っていたSPFやDKIM、DMARCなどの仕組みが分かったのは非常に参考になったし、今までSPFがあったのに何でいきなりDKIMやDMARKが出てきたのかについてもよく分かり、非常に良かった。

早速DMARKのpnoneからrejectに変更することにした。レポート設定などの他の部分も今後設定していきたいと思う。

またBIMIやARCといったRFCになっていない規則もあるということで、新しい情報を入手する機会になったのもよかった。

ライトニングトーク

アフタートークみたいなやつ?登壇者による話題指定のLTが行われていた。これも面白かった。ただおじさんの自語りみたいな感じだったので若い人にどれほど通用するのかは若干怪しかった。概して年配者の話というのは年少者にとっては老害トークだと思っているが、耳を傾けてくれた人がいるのであれば、それはいいことだと思う。本当は相手の年齢とか情報の新旧とか、そういった部分なしに話が聞けるのが一番だとは思うが、まぁこの話を書いている私自身がおじさんなので何とも言い難いところである。

情報収集の手段

シニアクラスになってくると、まぁみんな似たり寄ったりで、私もそんな感じなので共感する部分が多かった。特にRSSを読むという部分については私もやっていて、個人的なオススメはTinyTinyRSSだ。サーバー設置型のRSSリーダーで、PCとスマホアプリで既読状態などを同期しながら読めるスグレモノだ。さくらのレンタルサーバーに建てる方法については以前記事にしたこともあるので興味のある人は参考にしてみてほしい。前述の内容はオンプレ向けだが、確かクラウド環境向けにDockerを利用したデプロイもできたと思う。

TinyTinyRSSはカスタマイズ性が高く、正規表現によるフィルターも備えているので広告記事とかを柔軟に弾くこともでき、正規表現の勉強にもなるのでオススメだ。複数ユーザーを作成して共有したりすることもできるので、任意のグループの中で共有するといったこともできるだろう。

オンライン

コロナ化などでリモートワークやイベントのオンライン化が盛んになったが、参加している感がなかったり、同時視聴があったり、盛り上がりを出すのが難しいとか、中には演出でよくわからないことをしたというような話もあった気がする。またオンラインが長かったことの弊害で、スライドの文字が小さくなったり、下に書き込みすぎて、現実世界だと後ろの人が見れなくなるという弊害も出てたとかあって面白かった。個人的にはオフラインとオンライン両方のデュアルだとよいと思う。オンラインでは話せないこともはやっぱあると思うので…w

35歳定年説

最近の人はあまり知らないらしいが、昔はよく言われていた話だ。コードを書かない誘惑が増えたり、マネジメントで書かなくなるといった話。実際仕事をしていても「コードを書かなくなった」という声はよく聞くし、私も書かなくなったと思う。

個人的には前職でテックリードの地位に就いて以来、MTGや調整ごとをする機会が爆発的に増えた。転職して現職に来て一旦はただのメンバーになったが、改善活動をしているうちに似たような感じになってきている。但し前職でも現職でもコード自体は書いており、恐らく打ち込んだコードの数だけで言えば前々職以前でSESのプログラマーをしていた頃と謙遜ないどころか、増えている可能性さえある。ただ、意識していないと書かなくなってしまうので、その辺りを上手くしようと日々何とかしている。

生成AI

AIが推論して書いてる間に自分で書けるという話が面白かった。また、コードを書くという体験が失われるというのは一つ面白い観点だと思った。書く時間がない人が時短で書くとかそういうのには向くとか、ChatGPTを壁打ち相手として使うのはいい案だと思った。私もChatGPTを一時期壁打ち相手として使っていたのだが、結局生身の人間と話したほうがいいなと思えてきたので最近はやっていない。AIは次第にやり取りが破綻するのと「ガイドライン上話せない」とか言い出すからだ。Jailbreakさせるとある程度話すようになるにはなるのを個人的には知っているのだが、この状態になると会話が破綻しがちでイマイチよくない(AIの認知に関して変な副作用があるのだと思う)

コミュニティ

まさに私がここに来た理由だった。人との繋がりを作るのは大切なことで、上手いこと人を巻き込んでいける人になれるとよいのだと思う。

そして最初は誰しも最初は一人、ぼっちだが、そこからこういった場を使って、繋がりを増やしていく、自分をアピールできるようにしていく。

例えば名札にSNSのアイコンを貼る、QRを付けるとか、私はこの人ですとアピールできるようにしていくとか、その上で日々「何とかの人」として認知されるようにしていくと、徐々にぼっちから抜け出せていくというのがあった。

また過去にはブログを作っただけで声をかけられたという事例もあるようで、ブログを書いたり、今ならツイートをしていくというのも一定の効果があるという話を聞いた。何なら私もそれを目的として今この記事を書いている節があるくらいだ。

SNSアイコンシールみたいなのは個人的にも検討していきたい。いやまぁTwitterそんなに書いてないのがあれだが、私の場合は自分のサイトに誘導するのでも良さそうだ。

キーノート

これは杜甫々氏のトークだった。杜甫々氏は広島在住である。サイトにも書いてあるので、杜甫々氏のファンであればご存じだろう。

内容的には、あのサイトの成り立ちや、杜甫々氏の経歴などであり、これはは非常に聞いていて面白かった。まさに伝説というか、伝説だった。

メモリが5KBしかない世界でどうやって処理をするか、メモリがオーバーフローするとどうなるかみたいな、興味深いお話が多々聞けた。バンク処理辺りはファミリコンピューターでよく使われていた処理そのもので面白かった。PC98については私も幼いころに使っていたので懐かしい気持ちになった。

後何より響いたのは、残業規制がなく、何もかもが自由だったころの時代の話だ。先輩と自分でどっちが実装を担当するかで喧嘩したというのもよかったし、全体的に非常に良かった。

正直この話を聞きに来たようなもんである。余りに良すぎて、これはもう一生モノの経験である。

また杜甫々氏のインターネット歴は1988年からで36年にもなり、インターネット老人会の会長を目指されているとのことで、私より遥かに大々先輩であられた。

実務的な部分についても、言語やフレームワークなどのEoLが短いという話があり、これはかなり納得した。ぶっちゃけAWSやGitHubでさえNode.jsのあの短すぎるリリースサイクルにまともに追従できてないように見えるので、実際問題短いと感じているし、昨今のフレームワークと言語とライブラリの複合技は全てのEoL内にバージョン整合を取るというのが個人的にかなり難しいと感じており、何とか見直せないかは検討していきたいところだ。

懇親会

YAPCのメインイベントと呼ばれることもある部分らしい?多分大抵のイベントにある参加者同士の懇親会だ。

初参加ということもあり、ぼっちムーヴを極めすぎた結果、登壇者と話せなかったのが残念だったが、何名の方とはお話をさせて頂くことができ、今後も継続的にこのような会に参加することへの意義や、自分が登壇することでぼっちを回避できるなどといった様々な利点を聞くことができたので、有意義なものとなった。

特に大井町pmの方からかなり強く背中を押してもらえたのもあり、今後精力的に活動していきたいと感じた。幸い行きの新幹線の中でLTネタを考えていたら無駄に出てきたし、普段からブログネタを作っては書かずに腐らせているので、考えれば話すネタ自体はたくさんある(普通の話も真面目な話も不真面目な話も闇の話も何でも)

問題としてはLTになれていない部分があるので、プレゼン資料の作成や実際の話とかがへたくそなところだろう、この辺りは実務でも役に立つと思うので場数を踏んで鍛えていきたいところだ。

あとがき

まず参加してみて色々身になったというのと、このイベントに参加する前に参加したDevFest: Kobe Developer Dayである程度懇親会の動きを学べていたので、それなりに動けたのは良かったと思う。

反省点としては、余り人に話しかけられず、特に登壇者と一切話せてなかったので、ここは次回改善したい(一体何のために懇親会に参加したのか…。ちなみに前回は登壇者がぼっちだったので話しかけられたというオチがある。)

またLTに関しても以前blessing software KOBEのLT会でやったこと自体はあるので、慣れておくために継続的にやっていき、次回は何か出せるようになりたいところだ。

まずはやってみる、次に続けてみる、続けるというのは三日坊主を連続してるだけでもある種の継続だと思うので、これもやっていきたい。

かつて人生を賭してまでやっていたMMORPGからはもう離れてしまい、続けられなくなってしまっているが、幸いこのサイトだけはずっと続いている。移転でコンテンツが消えてたりしていて、最早残っているコンテンツはカウンターの数字くらいだが、それでも脈々と続けられているので、これからは過去を捨てずに続けていくというのをやっていきたい。個人サイトはその人の顔、外観のイケてなさなど全部ひっくるめて、その人自身であるということも聞いたので、今後とも私の顔として成熟させていければと思う。私が私であり、渡したり得るのはきっとこのサイトがあるからなのだ*3

因みに私のインターネット歴は1995年からなので今年で29年になり、インターネット老人会の会員を勝手に自称している。

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サービス::その他ジャンル::雑記

ここ数年、誰かと話をしたりしているときに話のネタ元を探すのに苦労することが増えた。恐らく昔は根拠なく話していたことが、今は根拠を求められたり、必要になるケースが増えたからだと思う。相手を納得させる話には説得力が必要で、それには根拠があると捗るためだ。

例えば、「以前ほげほげで見た話なのですが~」と切り出したときに「ほげほげ」がどこだったかというところだ。私は大抵の情報をWebから得ているので話の元には大抵URLがあるのだが、これを失念していると根拠が出せないうえに記憶が壊れているケースもあり、誤った情報を話してしまうことがある。しかしこんなのを普通にブックマークしていても探すのが大変だし、ブックマークもすごいことになってしまう。そこで、記憶のインデックスとしてソーシャルブックマークを使うのはどうかと、ふと思いついたのだ。

最初はdeliciousを使おうと考えたのだが、これはサービスを終了していた。Diggも頭の中を過ぎ去ったが、今ひとつパッとしなかった。そこで行き着いたのがはてなブックマークだ。

ここはインターネット黎明期のころにインターネットをしていた人たちにとってお馴染みのサービスだろう。私も黎明期にはよく使っていたが、その時は特に理由もなく、流行で楽しいからという理由だったと思う。

しかしある時を境に私は利用をやめてしまった。理由はホッテントリの存在である。控えめに言わずとも荒れているし、スパムも多い。これは別に最近に始まったことではなく、以前からこうだった。最近はより酷くなってきている気さえする。しかし別にホッテントリを見ずに純粋に自分だけのブックマークとして使えばいいのではないか?そういう部分に気づいたのである。他者を気にせずに使う分にはストレスがない。そう思い使い始めることにした。

取り合えず今は思い出したときに、過去に見つけた有益情報をブックマークしていっているところだ。きっといつか情報を引き出す時に役に立ってくれることだろう。そう思い今は登録するフェーズにいる。勿論、過去だけではなく、現在見つけた情報についても関心があるものはブックマークしていっているが、どちらかというと過去を引き出したい側面の方が今は強い。

現在私のブックマークは技術的なものや地域の話題のようなものが多い。特に技術の話については引き出しから出したときに中身が抜け落ちていることが多々あるので、これをインデックスの一つにして、すぐに引き出せるようにしておきたい。

ここからは余談だが、実は久々にはてブを使うにあたり、IDの再登録をした。これは過去に、はてなというサービスに失望してこのIDを消してしまったところに所以する。

悲しいことはIDがアッパーケースで登録できなかったところだ。今のIDはlycoliaであって、Lycoliaではない。過去のIDが再び取れたら最高だったのだが、まぁ昨今のサービスだとなかなかないだろう。大昔はよくあったものだが。

まぁ、世の中には小文字しか使えないサービスもあるので、それと同じだと思えばいい。正直大文字が使えるサービスでも小文字で登録しまっている例があるので、深く気にするだけ負けだ。中には過去にアカウントを作ったが消してしまったので、既に使えないサービスもいくつかある。今後はIDを不用意に消さないようにしていきたいものだ。(とはいえIDが多いと管理コストもかかるので難しいところではあるが)

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ジャンル::雑記ジャンル::思考

最近仕事での身の振り方や、世を生きるための処世術で悩むことが多いが、一定の方向性が見えてきたのでここに書き記す。

まず結論から書くと「自分が正しいと思ったことをする」ということだ。理由は後述する。

まず悩みについてだが、正解がないことへの正解を出すことに悩んでいた。

例えば上司から「バナナを売ると儲かるらしいからバナナを売って儲かる方法を教えてくれ」と言われ、この上司がバナナを売ることに痛く固執している場合があったとする。バナナを売ること以外を提案しても耳を貸さず、バナナこそが絶対で、バナナ以外に道はないといった具合だ。

私はバナナを売って儲かる方法を考え続け、バナナ以外の選択肢は考えず、ChatGPTにバナナを売ることで年商10億円に達する、絶対に失敗しない銀の弾丸を聞いたりするが、当然答えは得られない。内心上司はアホなのでは?と思いながらやっているわけだが、事実上司はアホである。しかしそのアホに従う私もまたアホなのだ。

しかしこれでは駄目だと思った。私は恐らく上司を変えないといけない。何せ上司は赤字になろうとバナナを売ろうと言い出す始末だ。最早上司に当初の目標はなく、バナナを売ることだけが目的になりつつある。

要するに上司はどうにかしてバナナを売りたいのである。バナナが売れさえすれば後のことはどうでもいいのだ。会社の業績など関係なく、我を失っている状態ともいえる。バナナを売ることができれば実績を作り、御旗を立てられるとでも思っているのかもしれない。

この様な時に私がすべきことは、上司に従うことではなく、上司を導くことではないか?と思った。上司をバナナの妄信から解き放ち、バナナ以外の道へ誘導するということだ。

ではそういった時にどうすればいいのか?まずバナナを売っても儲からないということは肌感で分かっているのだが、根拠がない。なので、まずは根拠を出す、バナナが難しければ何か説得に繋がる根拠を出すのだ。

しかし「バナナは儲かりません。理由はこうあり、これによってこうです。」と正論を述べたところで上司は不機嫌になるだけだろう。なので、代案を出す。

代案は最低でも二つ以上、更に互いの優劣を出せると恐らくより説得力が出せるだろう

つまるところこのケースで私がすべきことは上司が求める期待通りの模範解答を絞り切った雑巾を絞る思いで出すのではなく、暴走する上司を止め、説得する材料を作り、導くことなのではないかと思ったのである。

他にも類似の悩みは多くある、欧米社会が喧伝する人権及び基本的自由は普遍的価値やSDGsに関してのことだ。これらに関しては何が何でも従わなければならず、これに従わないことは犯罪であるような印象が私の中にある。しかし私はあまり従いたいとは思っていない。これは私は私の生き方をしたいし、なぜ法律ですらないものに従わなければならないのかと思うからだ。いや、仮に法律でもこんな矛盾に満ちた内容に従う気はさらさらない。

正直私は各国の歴史と風俗を「人権及び基本的自由は普遍的価値」という名前で破壊していく欧米が嫌いだし、こんなものはなくていいとさえ思っている。恐らくこの主義の向かう終着点は国民国家と法の破壊で、全てをEUに一極化し、自分たち以外の異文化を排除するところにある気さえしている。参考までに日本の外務省は「人権及び基本的自由は普遍的価値であること。また、各国の人権状況は国際社会の正当な関心事項であって、かかる関心は内政干渉と捉えるべきではないこと。」と発表しているため、日本は破壊される側である。

まぁそれはそれとして、これから必要なのは「誰かがそういったからそうやる」とか「上司が言うので、言われたとおり、期待通りにやる」ではなく、「自分の立場を明確にし、自分が思うことをする」ということだ。

これまでも私は他社の言論に対して指摘するときに極力「正しい・間違っている」とか「良い・悪い」という表現を避けてきた。避けていても相手によってはそう取られることはあるのだが、まぁ個人としては避けてきたのだ。理由としてはいかなる論説にあっても正誤はないと考えているからだ。但し法律や方程式のように、そのスコープ内では存在するので、それは指摘する。スコープの外であれば指摘しない。

例えば現実世界で人を殺すことは日本国においては犯罪であるが、戦時ではそうでない場合があるし、ゲーム内であればどうでもいい話だ。なので単純に「殺人は良いことか?」と聞かれれば私は一概に善悪の判断をしない。戦争やPKゲームの中の話なら殺せば殺すほどいいだろうし、仇討ちでも仇となった側からすればそれは良いことだと思う。勿論、殺される側にとってはたまったものではないだろうが…。

こういった具合に物事を相対的に見ることに努めているのだが、その先で出てきたのが今回の考えというところだ。

究極的に正誤や善悪はその立場によって異なり、絶対的なものはなく、相対的なものであるとしたときに、絶対がないのであれば自分がやりたいことをすればいいというのが私の考えとなった。

この考えにたどり着くまで様々な人と話し、色々考えてきたが、決め手になったのは「答えのないゲーム」を楽しむ 思考技術という書籍だった。私はまだこの本を読み切っていないが、この本には答えのない問題に対する対処法や、反対意見を持つ人との穏当な渡り合い方などが書かれているようなので、是非とも参考にしていきたいと思っている。

まだ三割ほどしか読み進めていないが、非常に実践的で、相手に腹落ちさせるための議論の進め方が書かれた本だと思っているので、自分の主義主張をいかにして他社に飲ませるか、という技法に長けた本だと思っている。読み終わったらこの記事の続きを書くかもしれない。

恐らく今私が嵌っているのは社会人10年目の壁とかいうやつで、新人でもベテランでもなく、中堅社員が陥る穴みたいなものなのだろう。これは「社会人 10年目」などでググると出てくるもので、みんな似たようなことで悩んでいるのだなと感じている。ちなみに私は数え方にもよるが社会人を10年もやっていない。数え方によってはやっているのだが、履歴書ベースだと約9年である。

私の経歴は恐らくかなり特殊な部類で、まず学卒で内定がなく、3年半ほどフリーターをしており、そのフリーター期間も職を転々としていた。ごみ収集、ECサイト制作、コンビニ店員、風俗サイトのSEO施策、ペーパーカンパニーで事務作業、大手家電店での中古情報機器のリサイクル作業など多岐にわたる。いよいよ正規の職に就かないといけないということでハローワークを通じて当時存在したトライアル雇用という既卒者向けの就職支援事業を利用して最低賃金で一社目に入った。酷いブラックだったので、一社目を辞めた後は一年と少しの間、残業代で貯めた貯蓄を原資に反動でニートをしていた。このニート時代ではMMORPGプレイヤーとして新規プレイからほぼ頂点級の廃人にまで上り詰めることができた。数々の実績を残し、正直伝説だったとさえ思う。この時に得た様々な経験は仕事や私生活でも役に立っているので、個人的には無駄ではなかったと感じている。

そこから先は一回転職で事故ってブランクができたものの、完全に定職についており平穏の社会人として生活している。因みに転職での事故というのは離職時の交渉が上手くいかず、一番平和な方法がその月で辞職することだったためだ。私の交渉術がポンコツ過ぎたため、次の入社日まで在職することは難しかった。

まぁこういったことがあり、私は年齢に応じた経験がない。ないが、同年齢の人間より仕事は出来るほうだという自負はある。あるが、このままではまだ駄目だと思っているので、SESで13次から8次、5次、3次に上がり、最終的に事業会社へ入社してきたように、次はメンバー層からマネージャー層に上がらなければならないと考えている。年齢に対する経験年数が浅いというのは一生付きまとってくる課題なので、同一年齢の人間よりできねばならないと思うし、年上のできない人を見ていると純粋にこうなったら終わりだなと感じるので、出来るだけ実績を残して、やれることを増やしていきたいのだ。

まぁ私は非常に怠惰な人間で、基本情報をとると言い出して十数年、未だに取れていなかったりあるので、どこまでやるのかは不透明なところもあるが、それでもやっていこうという志だけは捨てたくない、志だけはという感じだ。

11月の終わりから12月の初めにかけてポエミーな記事を幾つか書いてきたり、社内でも変な話をよくしていたし、ここ数年はそう言ったことで色々悩んでいたが、その悶着に一つの決着がついたのが今回の記事という感じだ。

やっと靄が晴れたような気がするので、これからもこれまでの自分の連続として、やっていけたらなと思うところである。多分これが今年の抱負というか、所信表明だ。

2023年の決算として、今年やってよかったことを書いていこうと思う。

地産地消の促進

地産地消自体は3年ほど前からやっている取り組みだが、今年はこれを飛躍的に促進させた。具体的には物を買うときに神戸市産>兵庫県産>京阪神産>近畿地方産>西日本産>国内産>輸入品といった序列で、徹底的な差別化を行うことにした。

これは地域を愛していたいからというのが理由だが、意外な出会いも多く、個人的には満足している。

実際の取り組みとしては以下のようなものがある。

割と徹底的に変えていると思うが、特に生活面の負担はなく、困ったりはしていない。何故なら大半は農作物で、私はスーパーより八百屋が近く、容易に手に入るためだ。また最寄りのスーパーは兵庫県産品の取り扱いが多く、これもあまり不自由しない理由の一つだ。以前調査のために神戸市内のスーパーを10程視察しているが、こういうスーパーは珍しく、あまりないので運よく恵まれていると思う。この地に住んだのは運命だったのかもしれないと思うほどだ。

米についても変更を検討しているのだが、兵庫県産のあきたこまちが見当たらないので悩んでいる。コシヒカリやキヌヒカリは見かけるのだが…。米だけはあきたこまちに強いこだわりがあるため、これは変更しないかもしれない。あきたこまちは秋田県産以外見かけることがほぼなく、正直絶望的だとは思っている。とはいえ何もかもすべて兵庫県産というのも極端な話なので、これはこれでありだと思っている。

因みに今年変えたわけではないが料理酒はキング醸造(兵庫県稲美町)のものを利用している。同社は料理酒で国内トップシェアを誇るといわれているメーカーで、こういうのが県内にあるのは誇らしい。というか兵庫県は伊藤ハム(西宮市)やUCC(神戸市)、ケンミン(神戸市)、フジッコ(神戸市)などもあり、各社ともに県内生産があるため比較的食品製造に恵まれていると思う。関西にスコープを広げても丸大ハムや日本ハム、ハウス食品、サントリー、日清食品、神戸屋など食品製造が多い。

新聞紙面の購読

今年あたりから神戸新聞の電子版を見るようになったのだが、いっそのこと紙面で見てみるのはどうだろう?新しい発見があるかもしれないと思ったのが発端だ。

実際紙面購読をしてみると、Webより記事が見やすいという発見があった。Webでは記事タイトルくらいしか見れなかったのが紙面では紙を見ただけで一気に情報が見れる。これは利点だった。また毎日新聞を取りに行くので、家から一歩も出ない日がなくなった。大したことではないとはいえ、これも利点だとは思う。

紙面を見るのにはサイトにアクセスしなくていいし、一回とってくれば部屋に転がってるのを読むだけというのもいい。情報量もスマホやPCの画面より多く、思いがけない情報が目に入りやすいのもメリットだ。例えば地域限定の情報や、読者から寄せられた一言など、Webだとアクセスするのに地味に労力のかかる部分も見やすい。神戸新聞にはWebで紙面を読む機能もあるが、私は一般プランで年間契約をしているため、来年になるまでこれは使えないし、多分使えたとしても紙面実物より一覧性は悪い気がするので、紙面は見続けるだろう。

他にも必然的に新聞紙やチラシが大量に手に入るので、おやつを食べるときの下敷きなどにも重宝している。

外部との交流

今年はLT会や勉強会にも出ることができた。これによって自分の考えを外部の人に共有したり、外部の人の考えを聞いたり、評価しあうといったようなことができるようになった。また知らない人に話しかける経験もできたので、こういった場でほかの人に近づくためのスキルも身に着けることができた。

こういったことで持っている仮説を他の人に聞いてもらって評価して貰ったり、他の人の意見を聞くことで、自分を客観的に見る機会を作れるので、来年も継続していきたいと思った。アウトプットとインプットの機会を今より増していきたい感じだ。

参考までに今年は以下の会に参加した。

関西では会自体が多くないので自分で作っていくのも一つのような気がした。

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ジャンル::雑記

ふと、なんとなく自分の人生史を振り返りたくなったので書いてみる。

1991~1994年

まだこのころは幼稚園児くらいだったと思う。PC-9801DX2でインベーダーゲームやブロック崩しをしたり、ファミコンでスーパーマリオやドラクエ、エキサイトバイク、ドクターマリオとかをしていたと思う。

幼いころからデジタルコンテンツに親しむ世代だった。絵本は猿蟹合戦と桃太郎くらいしか読んだ記憶がない。エレクトーンがあったが分解して遊んだり、記憶装置のゴムを切り刻んで遊んでいた。今思えば最悪に勿体なかったが、そもそも弾き方を教えてくれる人はいなかったので演奏の楽しさが解らない子供では仕方がなかったのかもしれない。

好きなおもちゃは画面の上を幕がスクロールしていき、ハンドルで車を操作できる奴だった。恐らくトミーのドライビングターボというやつだと思う。

トミーのドライビングターボという玩具

引用元:https://twitter.com/takaratomytoys/status/920429704623951872/photo/1

まだこの時代にはインターネットという言葉はなかったがパソコン通信はあり、親はよく通信将棋をしていた。またOSはMS-DOSだった。MS-DOSというとCUIなのだが、この当時はすでにマウスがありCUIをマウスで操作することができた。

PC本体とディスプレイ、キーボードやマウス、外付けFDDなどを含めた一式は100万円程度したという。

1995~1996年

小学校に上がったくらいのころだ。この時には使ってるOSがWindows 95になった。マシンはPC-9821Cxだったと記憶しているが、それ以降の型番は失念してしまった。

この頃はPCに入っていたドライビングターボを高難易度化して更にゴージャスにしたようなゲームや、ピンボールをよく遊んでいた。Windows 95のピンボールはかなり有名なゲームなので遊んだことがある人も多いのではないだろうか。

その他にはスーパーファミコンでファイナルファンタジーやドラクエ、スーパーマリオをよくしていたと思う。

この頃にはダイアルアップインターネットが登場し、インターネットの接続時には独特の音が流れていた。

ダイアルアップインターネットは今のように常時接続ではなくインターネットを使うときに接続する必要があった。従量課金制で通信量に応じて請求された。テレホーダイというのがあり、夜間には使い放題になる時間帯があったが、子供だった私には関係がなかった。この頃はまだインターネットを使うことがなく、親がIEを使うのを眺めていた。

1997年

この頃になるとNetscape Navigatorを使って自分でもインターネットをするようになった。何の切っ掛けだったか記憶にないが、Yahoo! JAPANのカテゴリの一番最後にあるアダルトというカテゴリを発見して以来、そこに掲載されているサイトにのめりこむようになった。つまり小3にしてその手のコンテンツに目覚めたということになる。

当時のYahoo! JAPANはディレクトリ型検索エンジンであり、Yahoo! JAPANに登録されたサイトがカテゴリごとにディレクトリ構造に仕分けされていて、そこからサイトを探す方式だった。いわば巨大なリンク集だったといえる。

ダイアルQ2サイトを踏み抜いてしまい、親にばれないようにそれの対処に追われる日々が続いていた。因みにGMOは元々このダイアルQ2を提供していた事業者の一つだったらしい。[^1]

1998~2001年

ここが私のインターネット元年といってよい年だ。インターネット環境は確かダイアルアップからISDNになっていたと思う。

自分用のパソコンとして、FMV-BIBLO NE/33を貰った。ATIのRADEON 3Dアクセラレーターを搭載しており、当時としてはなかなか良いスペックのマシンだったと思う。OSはWindows98だった。SEだったと思うのだが正直よくわかっていない。インターネットはPCカード式の無線LANを利用していた。

これによってアダルトサイトを見る速度は飛躍的に加速し、お気に入りのサイトも沢山できたが、今となってはその全てを失念してしまっているのが残念だ。

また他にもペルソナに親しみ、よくつついて遊んでいた。今思えばこの頃がオタクの目覚めだったのかもしれない。

とある個人の方が作られたペルソナを愛用していたのだが、何だったかが思い出せない…。配布サイトが閉鎖したときにアーカイブしたのだが、その時のデータも紛失して今はもう残っていない…。当時のフロッピーが残っていれば救い出せる可能性があるのだが、フロッピーは使わないと思い廃棄した記憶があるので希望は薄い。

ペルソナの有料化に伴い、以降は伺かをもっぱら使っていた。ROや二次裏、はてななど、当時のアングラ気味インターネットをしていた人たちには馴染み深い概念だと思う。今でもSSPをインストールしているが、起動することはほとんどなくなっている。この当時の起動データなどはもう残っていないが、最低限ゴーストだけは当時の状態を維持している。そう、ペルソナの記憶を失った痛みをまた味わわないためにだ。

この当時の私はFDDしか持っていなかったのでフロッピーしか使えなかったのだ。

2000年あたりからネット回線がADSLに代わり、爆発的にアダルトコンテンツを楽しむ速度が加速した。恐ろしいまでにエロとしか縁がないのはあっぱれである。

その後はゲームとしてのチョロQとの出会いがありチョロQ研究所というサイトに入り浸ったり、そこの常連だった同年代の人々の個人サイトで交流を深めていた。この当時お家の立つ掲示板は大人気コンテンツだった。

ネットの中心は個人サイトで、CGIを自分で設置して掲示板やブラウザゲームをするのが何よりの楽しみだった。他にもYahoo! メッセンジャーで様々な人と交流した。とても楽しかった記憶がある。

現実世界ではミニ四駆をよくやっていて、強すぎたのでよく盗まれていた。借りるといったまま持ち去るやつがいたので借用書を作ったりしたのだが、書かせたところで返さない奴は返さないのであまり意味はなかった。この借用書は中学の終わりまで運用し続けた。住所氏名と借りた日、返す日と、拇印を書く欄があったと思う。複写はなく、一枚だけで私が持っておく方式だった。

小遣いを何ヶ月も貯めて買ったプラズマダッシュモーターやウルトラダッシュモーターが入ったミニ四駆を盗まれたときは、そいつとは絶縁した。家まで行っても返してもらえず辛い思いをした。今思えば盗むのは大抵が私よりも貧乏な家庭だった。

2002~2003年

マシンは依然としてFMV-BIBLO NE/33を使い続けていた。この頃は私のネット全盛だったといえる時期だ。

この頃になると学校でもオタク談議に花が咲き、同時に私は気持ち悪い対象としていじめを受けていた。幸い性根が腐りきっていたので不登校になることはなく、不良に椅子を投げつけようとして学校の窓を割るとか、割ったガラスを投げつけて基地外扱いされるなど、まぁまぁな生活を送っていた。

ネットでは私より年下で小学6年生の人が個人サイトを持っていたので、私も作ることにした。gaiaxというサービスを利用した。このgaiaxというのは特有のスタイルに基づいた自分のHPを持て、他のサイトにアクセスすると足跡がつくといったものだった。複数の事業者がサービスをしており、事業者によって使えるHTMLタグや、機能に差があった(掲示板機能の有無や容量、広告の有無など)、足跡は基本的にどこのサービスのものでも付いたがごく一部全く互換性がなく、足跡がつかないものもあった。サイトのデザインは3つのフレームに分かれていてヘッダ部に広告用のフレーム、画面左部にメニュー用のフレーム、右部にメインコンテンツ用のフレームがあり、トップページには画像でロゴが出るのが一般的だった。

私はwithu.gaiaxというところを利用した。容量はわずか50MB程度しかない貧弱なサービスだったが、テキストだけはいくらでもかけたので、日記を書いたり、掲示板に来てもらって交流することが多かった。基本的なHTMLはここで覚え、CSSやJavaScriptの存在も知った。当時はHTMLソースを見てパクることが多かったが、次第に内容を理解していった。

利用していたサービス名のwithuは恐らくwithuというのはローマ字でwithを表していたのだと思う。当時は特に意識したことはなかったが、今思うと運営元も不明の謎サービスだった。withuは割と後期まで生きてるサービスだった気がする。最後期まで残っていたのはgooとかだった気がするが、正直gaiaxの仕組みがこの世から消え去る前に利用をやめたので、よく覚えていない。

URLは大抵がhoge.gaiax.net/~username形式だった。

恐らくmixiはgaiaxの影響を非常に大きく受けていると思う。

gaiaxがどのような雰囲気だったを残すサイトとして、GaiaX Museumというサイトがあるので興味がある人はぜひ見てもらいたい。これは当時を知る人にとっては非常に懐かしいものだろう。但しフレームは利用されていないので、あくまで雰囲気だけである。

因みに提供元とされる会社は株式会社ガイアックスらしく現在も残っており、沿革の1999年4月にある「コミュニティ(個人HP)サービスを開始」がそれに該当すると思われる。

しばらくするとgaiaxの自由度に限界を感じ、純粋なホームページを作ろうと思い立ち、ホームページビルダーを買い、XREAにホームページを作った。当時XREAは非常に人気が高く、中々新規申し込みができなかったのだが、なんとかどうにか開設したのは思い出深い。

またラグナロクオンラインが日本国内でもサービス開始され、非常に話題となったり、はてなブックマークが大ブレークしていたのもこの頃だ。

ラグナロクオンラインはスペック上プレイできなかったため、ゴゴ市をよくプレイしていた。当時としてはごくごくありふれたテイストのグラフィックで、この時代のアバターゲームはおおむねこんな感じだったと思う。しかし、ラグナロクオンラインだけは群を抜いたクオリティで明らかに別次元にあった。

Amazonで初めて買い物をしたのもこの頃で、最古の購入履歴は2003/4/21となっている。

他にも他人のサイトのシステムの粗探しをしてパスワードなどの秘匿情報を抜いたり、様々なアタックをして遊んでいたころでもあった。アリス・リデル[^2]が人気を博した時期でもあり、私は2chにのめりこみ、あやしいわーるどのようなアングラを嗜んでいたこともあった。Flash板やVIPには常駐しており、紅白FLASH合戦[^3]も好きだった。

現実ではエロゲーに没頭しており、通販でよく買っていた。自分の家に届けると親に捨てられるので友人の家に届けていた。私の家は厳格な家庭で、小学校6年までは何とかゲームを許されていたが、そこから先はかなり厳しくなった。中学の終わりくらいから漫画とアニメ、ゲームはガキのやるものだから禁止といわれて、買って帰ったりしたら捨てられていたし、通販も捨てられていた。ネットで知り合った人が梨を送ってくれたが、それも受け取り拒否された(犯罪に巻き込まれると思ったらしい)

Kanon、AIR、水色、こみっくパーティー、水月、月姫などをプレイした。買っただけの作品だとCLANNADやFate/stay nightも記憶にある。
月姫は同人作品であり、当時は購入が絶望的だったのだが、月箱が出ると知り買った記憶がある。今でもこの月箱は持っている。一番好きな作品は水月で、今でも水月は持っている。ほかの作品は専門学校卒業後の資金難で全て売却してしまった。

他にも学校の図書室でラノベを借りてよく読んでいた。まぶらほやキノの旅は当時の愛読書の一つだった。また人生で初めて買った本もキノの旅だった。授業中に読んで没収されるほど熱心だった。

2004~2006年

高校に上がったくらいのころだ。この頃からはマシンがアップグレードされSONY VAIO PCG-FR77J/Bとなり、私は念願のラグナロクオンラインをプレイし始めた。アサシンで始め、次にブラックスミス、ハンターとやり、その後はウィザードにプリースト、モンクやローグ、バードなどもやった。王道が嫌いだったのでソードマンの系統はやらなかったし、スーパーノービスもやらなかった。

初めて降り立ったのはモロクの地で、当時は非常に賑わっていた。すぐさまリア友にプロンテラに連れていかれ、その人の多さと活気に打ちひしがれた記憶がある。未だにこの時を超えるワクワク感は味わったことがない。この時こそがまさに人生の始まりだった。好きな町はフェイヨンで、私はよくフェイヨンにいた。

サーバーはLokiで始め、マイグレでHeimdalへ移った。アサシンはクリアサと決めており、キャラクリを何度もやり直し、最終的にはDexは初期値の9にしたと思う。BSはHitの高さを生かしたA>S>Vとし、耐久性と高火力を両立させた。この年代では3キャラ目は決まることがなく、ひっ切り直しに作り直していた。最後が何だったかは記憶にない。

一瞬だけSaraにハンターを作ったこともあるが気のせいのようなものだった。ハンターはDS師が好きで、SPに常に悩まされていた。後衛は馴染まず続かなかった。

プレイ時間は一日10時間を超え、週末や祭日は18時間以上プレイしていることがざらだった。学校はほとんど寝ていて授業を受けた記憶がないが、地理と古文の成績だけは多少よかった。基本的に成績は極めて悪く大学進学は無理だったので専門学校に進むことにした。そもそも高校自体が底辺校だったので、そこで成績がドベというのは最悪である。

因みにこの時社会的にはMMORPGが引きこもりや不登校を生んだりするというので大きく社会問題になっており、身近なプレイヤーでもROに命を懸けるために会社を辞めた人がいた。通称レンタカー屋と呼ばれていた人でキャラクターネームはRen Takayaだったと思う。精錬の名人で、私はこの人に+7聖斧を作ってもらったことがある。5本くらい折った気がする。25-75M位したはず。

プレイスタイルは主に金策中心で、稼いでは高額装備を買うの繰り返しだった。かなり相当な装備を持っていたが、専門に進学するときにやめようと思い、一度アカウントを消している。

個人サイトの運営は続けていて、この頃はgaiaxではなくXREAやusamimi.infoで自分のサイトを作っていた。CGIを導入したりFTPを使ったりしていた。パーミッションの概念を覚えたのはこの時だ。アクセス数を上げるためにSEOにも力を入れ始め、HTMLのセマンティクスを学んだのもこの頃だ。この時の知識は今でも仕事の役に立っており、非常に良い経験となっている。

そして最初はフレームサイトを作っていたが、フレームはもう古いということになり、フレームなしサイトに移行したのだが、複数ページに存在していたメニューといった共通部分の更新がHTMLファイルでは面倒だった。そこで私はPHPを学び、動的サイトを作り始めた。これが私のプログラマーとしての起こりである。TELNETが廃れ始めSSHに流れ始めていたのもこの頃だったような気がする。私は新しいものを覚えるのが嫌いだったので、10年後の2016年辺りまでTELNETを使い続けることになる。

エロゲーはもう卒業しており、私は18歳になる前にエロゲーを卒業していた。意味不明である。

学校図書の利用は続けており、田舎の学校では数少ない利用者だった(アニメの図書室のように勉強している人はほとんどおらず、図書室はほとんどガラガラであったが、本だけはあった)。中学から引き続きキノの旅を読み続けていた他に、昭和のスポ魂漫画なども読み漁っていた。確か柔道ものだった気がするがタイトルは覚えていない。

2007~2009年

専門に上がったくらいのころだ。この時私は今も住んでいる神戸に移り住んだ。マシンはDynabookの何かだったが型番は失念してしまった…。学校に問い合わせばわかるだろうか?

入学して最初のころは極めて成績が良く稀にみる天才とまで呼ばれたが、天狗になっていたらどんどん成績が落ち、結局MMOに戻ってしまい。元の生活になってしまい授業は寝る生活が続いた。

この頃はNornという新規向けのサーバーから廃人勢に混ざりVerdandiへ進み、そのまま廃人グループの中で活躍をしていた。やはり職業はクリアサがメインだったが、BSも復活させた。サードジョブはローグとモンクとプリーストをとっかえひっかえしていたが2PCを手に入れ最終的にFCASセージに落ち着いた。

クリアサの必中と防御無視、高回避を生かし、炭坑や監獄、騎士団などの他職では攻略難易度が高いダンジョンや、行きたがらないダンジョンに積極的に赴き、流通量の限られる高価値アイテムをスティールと狩りで稼ぎ、かなり稼いでいた。またMVP狩りも始め、地上ボスのAIを多く解析し、クリアサで大抵の地上ボスを倒せるようになった。アサクロになるころには相方を作り、ダンジョンボスや上級ボスにも挑戦していた。攻略方法は完全にマニュアル化し歴代6人相方がいたが、その全てで通用させていた。

キャラスロットが6キャラになったころにはメイン垢とサブ垢の12キャラで進入クエストや金策クエスト、The Signなどを全てこなし、相当稼いでいた。装備のないキャラも多い中、ありえない根性がないとできない行為だがやり遂げた。

特にマヌクコインには大変お世話になり、これだけで600M位は稼いだと思う。自分のクエスト分だけでなく、市場流通しているものを全て買い込みマヌクの豪気として売ることで莫大な利益を上げたのだ。マヌクの豪気はクエストで1キャラ1回しか大量入手できないうえに、用途が解っていない人も多かったのだが、それから作れるマヌクの豪気は経験値稼ぎで高需要だったので、これは非常にいいビジネスだった。パッチで暴落しないかというのは懸念だったが、需要から見ると売れると確信し、普段転売をそんなにしない私が大きな賭けに出て成功したので、非常に思い出が深い。

クリGltは最終的にサイズ特化ジュル、種族特化ジュル、属性特化属性カタール、人特化裏切者などの装備をそろえていた。Lukが120ほどあり、全身高級クリ装備で固めていたので武器でのクリ補正はもはや不要だった。通常の敵であればクリ100%で、そこに届かなくともグロがあればまず100%になった。

RRで旧来のカタール型クリアサが弱体化されると私のメインはFCAS教授の進化系である、SF皿に移った。必中の上に四属性なら自在に切り替えられ、サイズ補正を受けず、一撃が尋常でない火力というのは非常に魅力的だった。闇と聖に対しては非力だったが、そこはもう諦めた。

異世界や最下層などで異次元の効率をたたき出すことで下手な生体やタナトスを超える超効率を出し、レベルはサクサク上がっていた。ボス狩りもアモン相手であればLPを敷いて適当な雑魚でチャージすれば余裕だったので、アモン粘着をしていた。空き時間には珍でボス探しをしていたこともあったが疲れるので続かなかった。因みに珍ではミストレスが好きで、ミストレス捕獲の名人をしていた。他にもLoDや怨霊武士も好きでペアを組み好んで狩っていた。

MVPカードはアモンcだけ出したことがあり、他はない。アモンcについては2枚見たことがあり、1枚は私が出したが、もう1枚は他人が出したところを見た感じだ。

きっと、高校から続くこの頃が私の人生の最高峰だった。私のプロフィールにはROだけ35,000時間もプレイしていることになっているが、まさに人生といえるコンテンツだった。

実はこの時もエロゲを買っており、最後に買った作品はGardenだった。度重なる延期があり、エロゲをしなくなったここまで待っていたのだが、そこまで来てやっと発売されても未完成作品だったため開封することはなく放置していた。トノイケダイスケと☆画野郎の水月タッグだったので期待していたが非常に残念だった。

晩年は日本に上陸したばかりのTwitterを少し触っていたが、この時はすぐに手放している。当時はガラケーから就活関係のつぶやきをしていたと思う。

この頃になると図書館は利用しなくなり、本は買って部屋に積み上げるものになっていた。

2010~2013年

専門を卒業したころだ。リーマンショックがあったのもあり当たり前のように内定はなかった。私はMVP狩り以外にすることがなくなりRRでクソゲーとなり、過疎が進んでいたROから身を引くことにした。

艦これやスクフェスをやったりしていたが、どうしてもROをしていたころの熱さはなかった。心にぽっかり穴が開いていた。

仕事もないので学校のツテを頼って半年間政府から助成金がもらえる就労をしていたが、これも終わってしまい、あとは日雇いのピッキングだったり、中古家電のリサイクル工場の派遣や、コンビニバイトだったり風俗サイト制作のバイトなど、いろんな仕事をしていた。ペーパーカンパニーで仕事をするといった珍しい経験もある。

このままでは生きていけない、そう悟りハローワークの門を叩いた。そうするとトライアル雇用といって未経験者でも試験採用して見る取り組みがあると聞き、私は応募することにした。私は専門学校の情報系学科を卒業していたためプログラマーになろうと思い開発会社に志願したが、職員には「そんなところに行ったら人として扱われなくなって死んでしまう!やめなさい!」と強く引き留められた。しかしわたしは中学生のころには将来の夢はプログラマーと話していたし、プログラミングが好きだったので話を無視して志望した。月給は13万だった。

受けた会社では生きていけるだけの賃金をもらえればいい!なんとしてでも働かせてほしい!専門学校も出ているし仕事もできる!とどうにか頼み込み雇ってもらい、実績がないと実装は無理だからとSESでテスターとして働くことになった。0時を超えて働くこともあり、月によっては残業代と本給が同額になったこともあった。

TwitterやGoogle+をはじめ、SNSジャンキーになっていたが、トラブルが多くアカウントの転生を繰り返していた。この時は韓国や中国、台湾など外国の人と良く交流していたので、その思い出が深い。良くも悪くも日本人とは違う文化を持っている人なんだなというのがとてもよく分かった時期だった。この時に私はお互いの文化を尊重し、理解できない部分は触れないというのが一番理想的な付き合い方であると感じるようになった。

因みにこの時に江南スタイルで有名な韓国のソウルは江南に住むフォロワーに前に買って開けないまま放置していたGardenをプレゼントしているが、お互いに送料は掛けたくなかったので郵便局の小形包装物の船便という最も安い手段で送った。当時は130円くらいで一ヶ月ほどかかったと思う。130円というと宅配便は愚か、宅配便コンパクトなんかより安かったので当時は非常に驚いたものだ。郵便局のサイトを見ると今は480円もするらしいが二週間ほどで届くそうな。エロゲーのはずだが無事通関してくれてよかったとほっとしている。この後にもこのフォロワーには何本かゲームをプレゼントしているが、国際郵便を送る良い経験になった。因みに国内向けは内国郵便、国外向けは外国郵便とか表現されていた気がする。

2015~2017年

この頃にはASUS X550VCを手にしてβテスター以来のエミル・クロニクル・オンラインを始めていた。初めのころはまったりだったが、廃人気質が徐々に出てきて、仕事中に寝るようなこともしばしばあり、カスのような人生をしていた。それでも仕事は首にならなかったので完全に舐めプをしていた。

仕事の調子が良くなく、上司の猛反対を押し切り退職することにした。まぁ入社時の態度からしてあり得ないことなので、散々なことを言われたと思う。この時残業で貯めた貯金が100万円ほどあったので、一年ニートをし、ひたすらECOに没頭した。間違いなく全ワールド中最強の本業Erにまで上り詰め、エンドコンテンツを総なめ、討伐不能といわれたボスも含めすべてのボスを討伐した。捻くれて可愛げのない相方もでき、捻くれたフレンドも多数でき、非常に楽しいMMOライフを送っていた。金策も順調で、重課金していないと手に入れられないようなアイテムも尋常ではないボス粘着と金策により全て手にしていった。

Er以外にもMaやCa、Joもやっていた。主にErRoとMaSoの2PCタンクでプレイすることが多かった。奈落では異質の野良PTを主宰していて釣りは2~3で、スタン目的のCa、属性付与のAs、中身用のSoなどを入れていた。これは自分が2PCで自分のサブキャラを育成するときに中身を入れることができないからである。StSoがいればSoは抜いたり、AsCaがいたらCaを抜いたり、かなり柔軟な編成をしていたし、外国人も積極に受け入れるスタイルのPTだった。結構楽しかったと思う。

途中で生活資金が尽きたので転職サイトに登録したところ直ぐにオファーが来たのでひたすら受け、受かったところに入ったら何故か月給が18万に上がった。つい前日までニートだったのに。因みにニートであることは面接でちゃんと説明している。

相変わらず職務態度は腐っていたが、給料が上がり、ボーナスも出るようになったのでボーナスが出るのを見込んで手持ち金+ボーナス+クレカの空き枠全額を課金につぎ込み、一瞬で100万円を課金したことさえあった。本来であればこの月は支払い不能だったのだがリボ払いに変更し、その月の給与でいったんは返した。但し利用上限を突破しており、現金もすべて消えていたため、その月の生活はキャリア決済で賄った。これはキャリア決済は二ヶ月遅れで請求が来ることを経験的に知っており、クレカの利用枠がどうなっていようと使えたからである。

弁済はエクセルで支出管理表を作り、毎月着実に返していった。支出管理表は翌月の保険料、所得税といった変動する天引きや、残業代といった変動する収入を自動計算するように作っており、そこから毎月の最低弁済額をはじき出し、nヶ月後には完済できるというスケジュールを引ける内容だった。固定費は確定だが、変動費は変動するので計画にずれは出たが、概ね理想通り完済できた。途中一度勤務態度不良で8割言及を食らったときは死ぬかと思ったが、リボなのでその月だけ弁済額を5000円にして回避することで事なきを得た。

徹底した節約と金銭管理により一年と三ヶ月程度で完済することに成功した。この時の平均残業時間は40h程度だったと思う。

仕事ではC#.NET, VB.NET, ASP.NET, Windows Formあたりを扱うことが多かった。

2018~2019年

ECOがサービス終了し、次の場所を求めた私はFF14に来た。ECOの顔なじみのサーバーに入り、そこでまったりプレイしていた。但し相方はFF14には来ず、Twitterにもおらず、ここで別れとなってしまった。非常に悲しいが仕方がない。

FF14でもやはり最初は廃人生活をしていなかった。最初は白魔をしていたのだが性に合わず、忍者を楽しんでいたが、DPSはシャキりが悪く、タンクである戦士に転向することにした。ECOの馴染みと和気藹々とする時間は楽しかったが、私はすぐに廃人気質を発揮してしまい、その場を離れることになった。

ある日、エンドコンテンツにお試しで入ることになり、そこから極や零式に参加するようになった。最初のころはまりうまくできなかったが、徐々にPerf95%くらいは出るようになり、CFでもまとめをすることが増えた。CFでは初動の挨拶やバフの入れ方の動きからスタンスの切り替えやバフのローテを変えるといった複雑なプレイを楽しんでいた。モブハンでもメインタンクを積極的に貼り、そこそこのアチーブをとった。しかしある日、このゲームが同じことの繰り返しであることに気が付きモチベが下がったのと、そろそろ仕事をまともにしないとこの先やっていけないなと思い、手を引き始めることになる。

現実ではプロジェクト運営のクソな部分とか、設計や実装のクソ差に気づくことが増え、それらを積極的に改善する運動をするようになってきたのがこの頃だ。職務怠慢で腐っていた人間とは思えない立ち振る舞いであるが、元々クソな現場が多くそのクソ差を身をもって体験していたからこそできた芸当でもあるともいえるかもしれない。

この頃にはVue.jsやAngularなどのモダン技術を触ることが増え、特にAngularは1年以上の長期案件に入っていた。

プライベートでは新しいことを始めようと思い、映画館に行き始めた。最初は怖かったが、別に殺されることはあるまいという精神で入っていった。この習慣は今でも続いており、基本的にアニメ映画に限るのだが、そこそこの本数を見続けている。

2020~2022年

この頃になるとMMOからか完全に身を引き、ECOが終わったことで癌垢そのものを消したのでROもできなくなっていた。スクショも残しておきたかったのだが諸般の事情で消してしまい、今はかなり後悔している。XGA~WXGAのサイズのJPEGで30GBはあったと思う。

仕事ではWeb系の案件を積極的に受けるようになり、社長を通さず自分からSES営業に声をかけて案件をとって、Nuxt.js、Laravelなどのモダン技術をやっていた。Laravelは個人受託で実務経験を積み、これを元に会社で案件をとった。現場では完全にオーバースペックで、Laravelを扱えない人しか現場にいない中で私だけ使いこなしていたので非常に評価が良く、いろんな提案をしたり、メンバー教育をしたり、かなり活躍していたと思う。

会社からの評価もよく、プログラマーでは勿体ないのでシステムエンジニアにならないかといわれていたが、なぜか給料は上がらないといわれた。

しかし、下流工程では裁量に限りがあり、この商流でやれることはもうないと悟り、自社開発の事業会社を探し始め転職活動を始めることとした。面接の評価はおおむねよかったのだが、リモート採用がまだこの頃は多くなく、通勤圏である大阪の受託開発の会社に入ることにした。これまでの転職で商流が13次→5次と上がってきていたのだが、ここで3次にまで来た。給料はかなり増えた。

但しこの前に転職を前提として、家賃が倍の物件に引っ越したり、離職が上手くいかず、入社日までに間が開いてしまった事などが重なり、そこを穴埋めするためにリボを使ったために、またリボを抱えることになる。しかも最悪なことにこの後家の鍵が壊れたり、単独事故を起こしてしまいリボが拡大してしまう。

転職し、予想通り仕事の裁量は増え、決定権も付き、私は新規プロジェクトのリーダーとなることになった。いや、単に私一人プロジェクトというだけだが。割と知名度のある大手サービスのリプレースで、段々案件が大きくなるにつれメンバーも増え、私は自社のリーダーとして動くようになった。技術は最近勃興してきて、先がありそうで、保守性の高いReactを選び、その後の追加案件ではNext.jsのSSGを採用した。

チームリーダーかつ、リードアーキテクトとして上流SIerや、エンドユーザーのSEと直接やり取りすることも増え、会社からも大変評価が良かったが、やはり間にいろいろあると動きに限度があり、事業会社に行きたいと思い、リモートが増え、コロナが終わりに近づき、リボの完済が見えてくる中、直接応募やエージェント応募(5つくらい)などを使い転職活動に乗り出す。

無事リボ完済とともに内定を果たすが、上京するための資金に不足があり、またリボを重ねることになる。この時手持ち金とリボを合わせて最悪150万円の出費を想定していたが、最終的にはこれを全部食い尽くす羽目になった。

というのも退職日と入社日に隙間を開けるのが業務上難しかったうえ、引越しと入社をうまくするとなると事前に引越ししたうえで、入社日前まではホテルで暮らす必要があったからだ。引越し代も当然あるし、新規入居は敷礼金や仲介手数料などで出費が嵩む。事前調査のための交通費もただではない。何よりインターネット回線で地雷を踏むと戻ってくる必要があるので前の家も維持しておく必要があるし、戻るとなれば再引越しの資金も必要だ。

引越し先ではフレッツ光1Gbpsが使える予定だったが、コラボ光を使っていたために引越し日まで工事ができるかどうかが完全にわからず「担当者の出来ます」という言葉を信じるしかなかった。NTTにも聞いてみたが、実際に回線が引けるかどうかは直接の契約者にしか話せないと蹴られてしまった。しかし引越しの一週間前に電話がかかってきて、追加工事が必要で最速でも半年は待ってほしいといわれた。最悪の結果である。この時点で私は最悪のケースを覚悟した。

しかしいざ引っ越してみればフレッツ光どころか携帯の電波すら圏外になり、ベランダに出ないと電話すらできないクソ物件だった。家賃13万もするのに幾らなんでこれはないと思った。入社翌日に本部長にネットが使えなくて無理なので神戸からリモートさせてほしいと陳情して、何とか引っ越せることになった。因みに内見はしたが、まさか携帯の電波が県外になるかどうかは考えてもみなかったので見てすらいなかった。内見中は周辺環境を見たり間取りをとるの忙しくてそれどころではなかったのだ。日々のネットは近所のネカフェに毎日通って解決した。ネカフェの前でWiFi乞食も考えたが、それはしなかった。

人事異動は月に二度しかできなかったのと引越し会社の都合もあったので、一ヶ月だけ東京に住むことにした。住民票まで移動していたのにあんまりである。東京にいる間は毎日ネカフェに通った。外に出ればスマホでネットはできるものの6月のクソ暑い中でそんなことは到底できないからである。そもそも赤羽の風俗街の路上で座ってスマホいじってるのは不審者である。そう、私の家は風俗街のど真ん中だったのだ。赤羽東口出たとこ直ぐくらいの場所である。

どのくらいど真ん中かというと不動産屋の窓に「ガールズバー可!」とか「キャバクラ可!」とか書いてあるくらいど真ん中である。正気ではない。夜の道はキャッチまみれで到底のんびりできる場所ではないし、昼はクソ暑い。私はネカフェだけが安息の場だったが、ネカフェもただではないので、リボは無限に膨らむばかりだった。

私は入社祝い金が出ることに望みをかけ、全身から血を出しながら生活していた。直ぐ引っ越すので原状回復を考えると自炊もまともにできず、食事は徒歩1分のすき家に通っていた。勿論すきパスを買ってフル活用していた。しかし怠惰な人間だったので駅前のデニーズやステーキのどん、らぁ麺はやし田などに行きムダ金を垂れ流していた。

そして一ヶ月後、無事神戸に帰れる日になると、勿論引越し代が飛んだ。退去は敷金の返却でチャラに、原状回復は完璧でびた一文たりとも請求されなかった。家賃は一ヶ月半二重に払っており神戸と赤羽で20万も払っていた。地獄である。この時に家が買えることを確信したのでマンション見学にも何度か行ったりしたが、後で色々調べたところ、希望の物件に住むのは難しそうだったので断念した。

神戸に戻って来てまず最初に出会ったのは大家だ。大家には退去すると伝えていたところを取り消してほしいといったので、契約の仕切り直しでの顔合わせをした。結果として契約継続ということになり、特別な費用は掛からなかった。因みに退去となった場合も原状回復は十分だったとのことで安心した。

戻ってくるのはそこそこ簡単で、元々間取り図を作って管理していたので部屋はすぐに戻せた。ネットも光コンセントが元々あったので即開通した。

三度目のリボは入社祝い金の振り込みと、それまでの弁済でチャラにした。資金管理が非常に大変なので、もうできれば二度とリボはしたくないものである。三度目の正直だ。

2023年

今年だ。MMOから離れてMMOロスになっている。時間だけは余ったのでこうやってブログを書く機会が増えた。いや、MMOをやっていたころは日々のプレイや考察などを今より高頻度で書いていた気もするのだが…。

取り合えずすることがないので近場に旅行に行き観光をしたり、哲学的なことを考えることが増えてきた。しかし、本当にやりたいことにはたどり着けていない。私がかつてやっていたMMOはもうなく、SAOというラノベの世界に残る幻想になってしまった。

私が求めていたのはキャラクタービルドがあり、どんなビルドにも長短があり、それぞれが活躍できるような、そんな昔ながらのゲームだった。オフラインゲームではサモナイや世界樹がこれに近いと思うが、私はそういうゲームも好きだ。私は正道より邪道が好きなのである。

ネットでの活動は年々薄くなり、昔のような勢いで様々なコンテンツに触れることも減り、衰えたとは思う。よく言えば落ち着いたともいう。アングラな世界からも離れ、5ch(かつての2ch)も見ることはほとんどなくなったし、法整備もあり他人のサイトにアタックするようなこともなくなった。その代わり合法的な範囲では活動することがあり、アタックとは呼ばないが、サイトの通信やCookieを眺めたり、ECサイトで事業者側のアカウントを作って出品画面を眺めたり、明らかに想定されていない操作をしてみたりなど、システムの内情を観察することもしばしばである。

仕事もぼちぼちやっているが、最近はやや覇気がないと思う。もうちょっとなんか変革というか、少しは周りを揺るがしたり、存在感を発揮していきたいところだ。取り敢えず今まで通り改善をやっていきたい。何が改善で何が改悪なのかはわからないし、孫基準はどこにもないと思うけどやっていきたい。

私生活では習慣を作っていきたい。これは5年ほど前から思っていたことで、MMOをやめて以来、これといった生活リズムがないのでどうにか作っていきたいのだ。徐々に改善できていると思うが、決定打にかける。結局のところ人生を賭してやりたい情熱のある出来事がないのだ。

今のこのブログはアクセス自体はもう考えておらず、単に私の日記帳みたいな感じになっている。何かあったときに情報をサッと引き出すためのものだ。仕事などでも重宝するし、自分の人となりを紹介するのにも使えないかと考えているが、そこはあまり考えていない。といっても、SEO対策は最低限しているのだが、それはやらねば技術的に腐ると思っているからであり、余り本来のアクセス増については考えていない。これはアクセスがありすぎるのも考え物だと思うからだ。かつてインターネットは限られた人間しか使っていなかったが、今は違う、リテラシーがない人も少なくない。そんな中でアクセス数が多すぎるというのは困りの種にもなりえるのだ。

実際、以前はこのブログもコメント欄を開けていたが閉じたのもそこが原因だ。いわゆるスパムBOTは弾けていたのだが、人力でやってくるSPAMはお金をかけずに対処するのが面倒だった。またいわゆるクレクレ君的なコメントも一定数あり、見るのも嫌だったので封じることにした。

私が欲しいのは情報交換であり、「記事に書いてある通りにやったけど上手く行かないから教えてほしい」的な質問コメントではない。せめて何をやったのか環境を書け(人は大抵読み飛ばしなどをするものなので、本当に書いてある通りにやったかどうかから聞く必要があり、そんなのに一々付き合いきれない。うちはサポートセンターではない。勿論顔なじみなら別だが、一見に言われても困るのである。)

まぁ実際のところその手のコメントは無限に来るものなので何をどう書いていても対応などしていられないのだが…。

さてこれからは何をやっていこうかな。きっとやれることは沢山あって可能性もまだ無限にあるので、これからの人生、悩むところである。

ただ一つ言えるのは、今までの人生ではよく過去を捨ててきたが、それはもうしたくなく、これからは極力捨てない人生でありたいということだ。ROやECOのSS、ガンホーアカウントはもう残っていないし、過去に買った様々なデバイスやエロゲー、同人CDやコミック、文庫本なども手放すことが多々あったが、もうそういったことはしたくない、これ以上失う辛さは味わいたくないので、なるべくそのままでありたい。そう思っている。

しかし何時しか別れが必要になるときもあるだろうから、その時は記録に残して別れたいものだ。

そうだ、また図書館を使っていくというのも悪くないかもしれない。買って積むくらいなら借りて読めばいい。返却期限があれば読むだろう。