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今月の頭にメイクアガールのノベライズを読了したものの、あまりの感情の波で感想を書けていなかったので、何とか心に整理をつけ、もう一度読み返しつつ書くことにした。あまりにも感情が揺さぶられるのでなかなか大変だった。
ある程度整理して書いたつもりだが、ぶっちゃけ全然まとまってない。これでも書きたい感情という名のノイズをだいぶ削って整理したのだが、ちょっと無理がありすぎる。安田現象と池田明季哉という人物はきっと人の脳を破壊する悪魔か何かだと思う(誉め言葉)
第3章
彼氏と彼女のあいだの問題は、本人たちが解決するしかない
これは邦人と邦人の彼女の関係性にもつれが起き、その原因である0号が自分を思い詰めていた時、0号をたしなめるのに茜が使った言葉だ。
0号は最終的に明をめった刺しにすることを決意するわけだが、その一端としてこの発言が影響したのではないかと考えている。「本人たちが解決するしかない」ならば、明をどうにかするには0号自身がどうにかするしかないというわけだ。
絵里にハンバーグプレートを届け、明に肩を叩かれる場面
この時、0号は明に肩を叩かれ、あまりの嬉しさに心臓が跳ねて飛び出そうになる。明からオーダーを言われ、返事をする必要があるのに心臓が体の中で跳ねまわっていて、言葉が出てくる前にぶつかってぺしゃんこになってしまうほどだ。この時、0号は舞い上がり、私を見て。私を認めて。私を愛して。私は明さんの彼女になります。そのためだったら何でもしたい。そう「なんでも」と心に誓う。
このときの0号は愛おしく愛らしく可愛く健気で大変かわいい。反面、なんでもするという言葉が引っかかった。非情に意志が強く見え、ひょっとしたらこれは稲葉の束縛を解くことさえできるのではないかと思ったほどだ。
そう考えると、このときの原動力が最後の場面で明へ向ける殺意につながったのかもしれない。
第4章
0号だけがどんどん成長していくことに気づく明
この時に明は、0号が自分自身にとって、マイナスに作用しているのではないか、という仮説を抱く。個人的にはそれ以前に邦人が彼女が出来たらパワーアップするという何の根拠もない話を疑ってほしかった。
まず0号はこの時まだ生まれたばかりで、そう考えた場合、成長は初期は高く、後期ほど鈍化するため、0号の成長が著しいのに対し、相応の年数生きてきた明に同じだけの成長が見られないことは妥当であろう。
基本的に明の仮説の立て方は論理的にみると間違っているところが多々あり、様々な論理破綻を起こしているように思う。それゆえに稲葉が残した情報資産を読み解き、それを頼りにしたものしか作れないのだろう。そう考えると彼が自分の意志で作ったものはほとんどなく、カップ麺製造マシーンも稲葉の発案ではなかろうか?
あれを作れるだけの論理的思考が仮にあるとすれば、こんな発想に至ることもないだろう。
第5章
……なんで人は、人を好きになっちゃうんだろうね…
これは邦人が0号に八つ当たりした後に茜から出る言葉だ。恐らく邦人の態度と、0号の様子、そして自らが明に抱く気持ちからきているのだと思う。
個人的に茜が一番かわいく見える場面の一つはここだと思う。
明さんは多分、ちょっと困っています。なのに私は。もっと困らせたい、と思いました。
これは0号が明をデートに連れ出し、服を選ばせているときの0号の気持ちだ。
明がうまく服を選べず困惑しているところを、0号は楽しんでいる。これは0号が見せる数少ない無邪気さで、とても微笑ましい。
そしてこの後、0号は好意の正体に気が付き、最早明のパワーアップより自らが明を好きな気持ちを優先するようになる。ここは気持ちのすれ違いポイントの一つだと思うが、そもそも明がまともに0号の相手をしていなかったのが悪いので、0号は悪くないだろう。むしろ「普通の女の子」を目指した結果としては正しかったのかもしれない。
ここで0号が触れた、明のことが好きという、好きってこれでいいんだという「世界の真実」は決して壊れてほしくない。私はそう思った。これだけは絶対に壊してはいけないものだった。そんな資格は水溜明にも、水溜稲葉にもない。なぜなら、私も0号同様に、それが「世界の真実」だと思ったからだ。
第6章
0号といるあいだ、僕は研究者ではなく、「普通の男の子」だった。
「むしろ0号と時間を過ごすのは楽しかった。満ち足りていた。でも、そうあってはいけないのだ。僕は研究者だから。僕が満ち足りるのは研究がうまくいったときだけであるべきだ。」と明は回想しているが、ひょっとするとこの強い否定は稲葉の意思が干渉しているのだろうか?と少し思ったりした。
彼女なんていても意味がない
ここは邦人から苛烈な言葉を受け、明が0号との決別を決める場面だ。
明は「彼女なんていても意味がない。じゃあ僕はずっと意味のないことに振り回されていたのか。」などととんでもないことを思い始める。
いや待ってほしい、ちょっと前まで「0号と時間を過ごすのは楽しかった。満ち足りていた。」とか思っていたではないか?その気持ちはどこへ行ったんだ?と言いたくなる、悲しい場面だ。
更にこの後、明は0号を生み出した自分自身に対し疑問を投げかけ、最終的に失敗作である0号がいなくなることは清々しいとまで言い切ってしまう。あまりにもむごい。むごすぎる。
しかしこの部分は映画館で二回目を見たときに書いた、アキラが0号を完全に処分しない不思議と辻褄が合う。恐らく明は0号を処分したかったのかもしれない。しかし人としての最後の情がそこまではしなかったのだろう。明にも第三人類とはいえ、人を殺めてはいけないという程度の良心はあったのだ、たぶん。
第7章
0号が明に連れられてマンションに行く場面
0号は明に誘われてデートに誘われたと思い込み、今まで誘ってばかりだったのに、やっと明のほうから誘ってもらえた。振り向いてくれて嬉しかったと舞い上がるのだが、その思いもつかの間、物語は地獄へと急展開を迎える。そう、離別宣告だ。
ここでは映画では表現されていない0号の壮絶な告白と、感情の爆発がある。0号はここで初めて明に対して明示的に「あなたのことが好きなんです!」という。明と0号は元々恋仲という関係から始まっていたため、ここだけは普通ではなかったのだ。
0号は本当は言いたくなかった。普通の女の子と、普通の男の子の関係であれば一番最初に出ていたはずの言葉が、この期に及んで出てくることが嫌だった。普通ではないことを認めたくなかった。
ここからあとは映画と同じだ。別れたくないという0号が明にしがみつき、明が生体制御を発動する。その合間にも0号の中には様々な葛藤が巡る。あまりにも非情で見ていられない。ここはそんな場面だと感じた。
第8章
あらゆる研究は必要から生まれる
これは研究というものは何かしらの必要性があって生まれるという明の持説である。そして、明は研究のために生を受けたので研究することがすべてだと言っている。
つまり明の研究には目的がないといえる。恐らく明の研究が軒並み失敗に終わるのはここが関係しているのではないかと私は考えている。何故なら研究することが目的なら、そこにゴールはないからだ。賽の河原で石を積んでは崩されを繰り返しているのと何も変わりやしない。むしろ死ぬまで研究しつづけるのなら失敗していたほうが都合が良いまであるだろう。
恐らくこれは稲葉が明を創造するときにインプットを誤ったか、そもそも明が「試作品」だったので、こうなったのではないかと考えている。
何かを犠牲にしたところで、何かが得られるとは限らない
これはおじさんが発する内容の一つで、家族を顧みず研究をしたところで、何も得られはしなかったし、家族を失ってしまったという自戒だろう。
そしてそれは明も同じなのだ。0号を捨て研究をしたところで明に得られるものはなく、0号をただ失うだけ。
家族がいたら楽しいと思って。だからこの子
「『家族』がいたら楽しいと思って。だから『この子』」「そろそろ迎えに行ってあげて」「生きなさい。『あの子』と一緒に」とは二回目の回想の場面で稲葉が明に対し告げるセリフだ。
ここだけを切り取って考えると「あの子」は稲葉自身だとは思えない。恐らく0号が尊重されているのではないだろうか?
この時点で稲葉は0号と明が共に生きてほしいと思っていたのかもしれない。まさか0号を乗っ取るだなんて、想像もできないような言い回しだと感じた。
第9章
明さんにとって邪魔な私
0号は明と別れた後、その原因が自分にあると思い自問自答を始める。
明は研究が第一で、デートに誘う自分自身が邪魔なこと。それを知りつつも明と一緒に過ごしたかったこと。それゆえに自分が明に捨てられたこと。
自分自身が普通の女の子だから。明に普通の男の子であってほしいと願ったから。本来明を普通じゃなくするために生まれてきた存在のはずが、そうなっていないということを思い詰めていた。
そして0号は自分自身の存在意義を考え始める。明に必要とされていない自分は何のためにあるのか、何のために生まれてきたのか、これからどうして生きていけばいいのか。
至極当然の考えではあるものの、普通の女の子になってほしいと願ったのは他でもない明である。明にその自覚がないとしても。個人的には0号をここまで追い詰めた明は人として最悪だと思う。人でなしとは、まさにこういう人間のことをいうのだろう。
第10章
ソルトから電撃を受け、夢から目覚める明
稲葉の介入を受けた明は全てを理解できるようになる。自らが稲葉の干渉を受けたことさえもだ。
そして、すべての失敗作が成功作に姿を変える。もしかしたら失敗作扱いだった0号が、後に家族になるのはこの筋道に沿っているのかもしれない。
自分を0号の母親だと思い込む明
何もかもが支離滅裂だが、明は0号の生みの親が自分であるから、自分は母親であり、母親であるからして0号が慕うようになるのは当然だという考えを抱くようになる。あまりにもひどい妄想で、ここまでくると、もう手遅れだと思った。
そして母親と別れなくてはならない恐怖、期待に答えられない不安、それを誰よりも知っているのは自分だ。だから0号に謝らないといけない。共に生きていく家族になりたいと思い始める。
ここが最大のすれ違いであることに未だに明は気が付かない。それは明の本意であり、0号の本意ではないということに。
この時点で明と0号が向いている方向はまるで正反対で、どちらにも救いはないのだが、個人的には諸悪の根源でかつ、0号をあそこまで捻じ曲げた明には同情の余地がなく、0号にこそ幸せになってほしいと思っている。これはメイクアガールの映画・ノベライズの媒体を問わず、一貫して持っている私の信条だ。
第11章
心の機微を読み取れるようになった0号
茜が不機嫌なふりをして、邦人がそれを茶化すことを理解し、キッチンもホールもできるようになっていた。0号はそれほどまでに成長した。0号は人間として間違いなく圧倒的な成長をしていた。完全に「普通の女の子」だった。いや、普通以上だろう。何せ茜がベースなのだ。平均より努力している。
恐らく茜から明への想いも理解していたのではないだろうか。理解していたとしても一切その発露がない当たり、気にしてはいなかったとは思う。明は0号のものなのだから当然だ。
絵里に拉致される0号
0号は絵里に拉致され、自分を見つけた自分と、そこにたどり着けない自分について葛藤していた。
0号は明から放逐された後、いろいろと考え、もう自分は明に縛られていないことに気が付く。
一人の人間として自分のことは決めていい、着る服も、観る映画も、そして愛する人も。全て自分に決定権があることに気づくことができるまでに成長していた。自分は自分のために人生を歩んでいいのだと。この考えは完全に明の設計の範疇から離脱していた。
しかし同時に、茜と違って自分は普通の女の子ではないところから、普通の女の子になったことに葛藤を抱いていた。第三人類だから、人間ではないから。そもそものスタートから違うから。
それ故に0号は0号という枠から脱せずにいた。そしてやはり0号は明のことが好きで、これ何をどうしても引きはがせない思いだとも感じていた。
0号はただ普通の女の子になりたかった。そんなささやかな思いさえ叶えられない自分に苛立っていた。
自分が自分であること、自分が自分でないこと、明のことが好きなこと、拉致されているこの状況から明に助けてほしいこと、0号の思いは酷く交錯していた。
そして眼前に明が現れ、拉致犯を止めたとき、私がずっと出会いたかった人に会えたと0号は思う。やはり0号は明が好きなのだ。
仮にそれが設計された感情であろうと、明のことが好きなのだ。ただただ一途に明が、明でないとだめなのだ。
私を作ってくれた明さん、それは唯一無二の明さんで、0号にとっては外の何物にも代えがたい、かけがえのない存在だった。
第13章
明が0号の拘束を解き開放する場面
明と0号の想いはすれ違い続け、この時点ではもはや修復不可能な次元に達していた。明の言葉はことごとく0号に届かず、虚空に消えた。
0号は「普通の女の子」になろうと努力し、茜や邦人との関係の中で「普通の女の子」になった。「明さんのことが大好きな、普通の女の子」に。しかし明は「作り物」としか見てくれない。
明にとっての0号はパワーアップアイテムでしかない。0号はその境地に至り、明のすべてを諦めてしまう。
一方で明は0号と家族になりたいと思い込んでいて、0号もそうだと考えている。未来永劫平行線だ。
結局、0号を否定することしかできない明はめった刺しにされてしまう。
生体制御が限界まで発動し、薄れゆく中でも最期まで明への愛を持ち続ける0号の姿は、皮肉にも0号が真に「人間」になったことを示している。0号は稲葉の生体制御さえもはねのけ、明よりもよっぽど人間になったのだ。しかし0号は息絶えてしまう。仮に天国に行ったとしても明がいなければ地獄であるという想い。なににも代えられない、明への感情を残したまま。
ああ、なぜ明は分かってあげられなかったのか。どうして0号はこうまでなる必要があったのか。私はただただひたすらに悲しかった。どうにかなってほしかった。こんなのあっていい結末ではない。
映画のほうの感想でも散々言っているが、これこそがメイクアガールだと思う。これでこそメイクアガール。この醜さと、そしてそれにより映し出される美しさこそがメイクアガールなのだ。
第14章
0号の本当の想いに気づく明
滅多刺しにされ、意識が途絶えた0号を介抱する中で明は0号の抱いていた、証明しようとしていた、本当の想いに気づく。そしてそれを否定してしまった自分自身のことも。切りつけられたのは当然と納得する。なんとも淡泊な人間である。だから何に対しても悪意がないが、興味もないと評されるのだ。
そして明は最初から彼女は求めていなかったことに気がつく。最悪だ。0号は永遠に報われない。こんな結末があっていいわけない。
後悔はたくさんあるけど0号が目覚めたら君は家族なんだって気持ちを伝えたいとまで言う。そう、明はまだ0号の気持ちを認めない、この期に及んでもなお自分の身勝手を押し付けるのだ。
エピローグ
不老不死を目指した水溜稲葉
水溜稲葉の不老不死への執着が生んだのが水溜明という第三人類の試験体だった。当初は稲葉のクローンとして設計されたが、稲葉は次第に実の子として愛情を注ぎはじめた。
しかし稲葉には残された時間が少なかった。そこで意識転写のついでに明に次世代の自分を作らせようとデータを残した。
そして生まれたのが0号だ。しかし稲葉の計画は失敗し、明は0号を恋人として設計してしまった。稲葉にとってはこれは想定外の出来事だった。
稲葉はあらゆる手を使って意識の書き換えを狙うが、すべて不毛に終わった。しかし、稲葉にとっては幸運なことに0号の意識が失われるイベントが発生した。そう、明を滅多刺しにした後でのことだ。
この隙を狙い、稲葉はソルトを用いて0号の意識を自分の意識で上書きする活動をはじめ、復活を遂げる。あまりにも最悪なシナリオだ。しかも稲葉は0号を消し去ったうえで、永久に生きたいと言う。
明という一人の家族と一緒に消滅と再生と、別離と再会を未来永劫繰り返してさえも、一生生きていたいという。あまりにも残酷で、最悪な結末だ。
恐らく映画とノベライズではシナリオに細かい差異はあるものの、大筋は同じなのだろう。しかし、私にはノベライズ側は受け入れがたい、辛いシナリオだった。これでは0号が報われない。余りにも非情で残酷だ。恐ろしいまでに救いがどこにもない…一切何ら救いがない。ここまで救いがない物語は初めて見たかもしれない。それくらいに非情だった。
頼むから0号を返してほしい…明は0号を自死に追いやった殺人犯のようなもの。そして明は0号を失い、そこに稲葉を求めるのだろう。しかし私は0号が好きだった。0号を返してほしい。
総括
全体を通して思ったのは、自分とは何かを追い求め、自分を見つけ、自分が「自分」であり、「自分」が自分として、人生の筋道を見つけていくことだ。
0号は生まれ持った命題をこなすうちに、新たな自分を見つけ、そして「自分は自分の人生を生きていい」ことに気づき、生まれた命題を塗り替えるにまで至る。これは大変すさまじいことだと思う。並大抵の努力ではなし得ない、全ては明への愛から生まれるものだ。明が好き、明から自立したい、普通の女の子なりたい、それでもやっぱり明が好き。そういった思いを源泉として成り立ってきた歴史から生まれたものだと思う。
同時に0号は頭では理解していても、感情が追い付かない場面にも遭遇する。自分が明に捨てられたことを理解しつつも、明のことを嫌いになれない。世界で一番大好きな明さんを忘れることは0号にはできなかった。この感情こそが0号を愛らしい存在へ消化させるための要素といえるだろう。
そして映画版のほうでもう何度書いたか分からない感想だが、0号が明を滅多刺しにする場面や、0号が消えてなくなってしまう場面では余りにも悲痛な描写がされるが、これこそがメイクアガールをメイクアガールたらしめている部分だと感じる。0号が追い求めた本当の愛からくる尊さ、そしてどこにも救いのない物語。まさに美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい物語だと感じる。
またノベライズの肝だと思うが、一番最後のエピローグで出てくる水溜稲葉という人物の地獄のような思想はなんとも許しがたい。こんなストーリーはあっちゃいけないんだというレベルの残忍さを覚える。私は0号に戻ってきてほしい。0号と明は「普通の女の子」と「普通の男の子」として生涯を幸せに過ごしてほしい。不老不死になる必要もない。年老いてちゃんと鬼籍に入ってほしい。復活しなくていい。
脇道:作品を読んでいて感じたこと
自分とは何かを追い求め、自分を見つけ、自分が「自分」であり、「自分」が自分として、人生の筋道を見つけていくことは決してだれにも邪魔されず、もし自分が作られた存在、その意義が他者にあろうと、自分は自分の人生を生きていく。つまり、生きがいを見つけ、そうやって生きいくと、自分の人生を歩めるかもしれない、私はこの作品を通じてそう言う想いを抱いた。
個人的には自分としての生き方を問い直す契機となる作品だったように思う。自分が何であるか、それを問い直す良いきっかけになった。別に「何者かになりたい若者」みたいな話ではなく、自分という芯は必要だなということだ。
私は優柔不断な部分が多くあり、普段は何でも屋みたいなオールラウンダー的な生き方をしているが、MMORPGを辞めて以来、何か一つに集中できたことがあまりない。そんな中で明だけを見つめて生きる0号には一種の羨望を抱いた。ただ、羨望していても仕方がない。私も何かを定めて、何かを為さねばこの先はない。それは主に社会人としてのキャリアもだし、人生もそうだなと思ったのだ。
別に生きるのに目標や目的はいらないと思う。義務感で生きるのはしんどいしね。でも、それはそれとしてだらだら時間を浪費しているのもったいないとも感じる。資本主義の荒波に流されているだけでいいのか?自分自身を持ったほうがより充実しないか?というのは前々から考えていた。この作品を通じて、その考えをより固めることができた。
AI(LLM)の台頭する社会であるからこそ、自分が自分であることを持つことには意義があると思う。何故ならLLMに頼っていては最終的にはLLMのモデルの数程度に考えが収束してしまうからだ。LLMは言葉尻を変えた回答や噓をつくことはするが、基本的に本質的に同じことしか話さない。
人に嫌われようとどうなろうと、人間には独自性が必要だと思う。つまり、自主性だ。己の思ったことを、己の思ったとおりにする。それこそが人間を人間たらしめる行為だろう。
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メイクアガールを観てきた 五回目の続き。
去る3/23、今回は山口は宇部に飛び、シネマスクエア7でのセカンドランを鑑賞してきた。メインは感想なので手前に持ってきているが、後半に簡単な旅行記も書いている。
感想
いったい何遍書いてんねんという感じだが、流石に鑑賞ごとの感想はこれでラストにしたいと思っている。
今回も特に前回までの内容を深ぼったりはせず、見たままの感想を書いていく。これまでより0号と明以外にも焦点を当て、0号と明にはより焦点を当てて書いてゆく。
前回同様に感想はノベライズの影響を少なからず受けているため、そちらに引っ張られたようなことも書いている。
「いきなさい、いきなさい。いきるの。私と。」
ここは行きなさいなのか、生きなさいなのか、逝きなさいなのか、見方で解釈が変わるなと常々感じている。これはここに限らず、「いきなさい」が出てくる全ての場面でそう思う。
「生きなさい」と解釈する場合「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」というのは明が稲葉と共に生きて欲しいという、稲葉からの想いなのかもしれない。
つまり第三人類として稲葉を作り、一緒に生きて欲しいということだ。口調が命令形に見えるのは、恐らく明が稲葉に作られた第三人類で、稲葉の意思を無視できない設計になっているところがあるのだろう。
ただ恐らく明は0号同様に生体制御を振り切れる状態になっているか、造られて以来、長い時間が経ちすぎて、稲葉の意思が薄れていて、あまり効力がなかったりしそうだ。
そういうのは経験しないと知恵として昇華されない
「そういうのは経験しないと知恵として昇華されない」は邦人のセリフだが、これは昨今LLM界隈で少し話題になっている記号接地問題に通ずるものがあるなと思った。
記号接地問題というのは、その言葉(記号)を現実の意味として紐づけられるかという問題のことらしい。
モップ掛け
明にモップ掛けはもうしなくていいと言われた後にも、言いつけを守らず果敢に挑戦する0号の姿には、邦人に言いつけられた「自主性」が見事に表れていたと思う。
何よりここでソルトに対して、「あっち行け。しっし。」みたいに振舞うところは何ともかわいらしい。ここは、前後の神社の階段を上るとこと合わせて、この作品で最も好きなシーンの一つだ。
初のホールで明に頭をポンポンされる0号
ノベライズでは心臓が跳ねて、ぺしゃんこになるほど緊張しているみたいな描写があったが、映画では明確に嫉妬したような表情になっており、ちょっと表現が異なると思った。
ここ以外にも幾つか異なる場面が見られるため、恐らくノベライズは完全に同一シナリオとしてみるよりは平行世界のシナリオとして解釈したほうがいいかもしれないと思った。ただお互いに何かしら重力のようなもので引きあう関係にはあると思うので、解釈が難しいところだとは思う。
個人的には映画は映画として、ノベライズはノベライズとして解釈するのを推したい。といっても一度ノベライズを読むと脳裏にノベライズの内容が刻み込まれるので難しいが…w
買い物に誘う場面
0号が明が買い物に誘いデートする場面で明が行くのを断ると0号はムスッとした顔になるのだが、ここはやはりかわいいなと思った。いや、0号は常にかわいいのだが。
離別のために離れたマンションに連れていかれた場面
「どうしてあなたは私から離れようとするんです?」
「あなたは私を恋人として作ったんじゃなかったんですか?」
「これはあなたにとっても計算外のことなのではないですか?」
といった0号から明への感情の発露はとても切なく、それだけに心に刺さる場面だ。
また明が「いつからだ。いつから君は。僕の前を歩くようになったんだ。」と回想する場面もノベライズにない部分だ。これは恐らくノベライズでは明視点のシーンを除き、基本的に0号視点になっているのためだと思われるが、こういった箇所からも原作完全再現ではなく執筆を行った池田明季哉氏の解釈が入っていることが垣間見える。
そんなこと。僕にかまうのはやめろ!
このセリフは0号がまとわりついてくるのを邪険にした明のセリフだが、この発言で0号の生体制御を発動させることができるのであれば、終盤0号に滅多刺しにされている場面ではこの動きがなかった。要するにあの時は能動的に発動していなかったのではないだろうか?
この後に出てくる「母さんの開発は主の意思に逆らえないようにできている。」というセリフと共に回想シーンに入り、ラボでおじさんが落ちた片腕を呆然と眺めている場面があったと思うが、これはおそらく明が稲葉に何かしら抵抗し、その時に明の片腕が生体制御によって破壊された記憶なのかもしれないと思った。
これまでの鑑賞から明が稲葉によって作られた人造人間であることは明らかであり、このことはノベライズでは明示されている。
つまるところ、恐らく明は知っているのだ。生体制御の苦しさを。知っているからこそ、それがどれほど辛く苦しいか、死ぬほどなのかを理解しているのではないかと感じた。
稲葉との二回目の回想
回想の中で明と稲葉がやり取りする場面だ。個人的にここは水溜稲葉の意思が明と邂逅するシーンだと考えている。
「記録じゃこんな話はできないでしょ。」
「研究はこの子に託した。この子が私になってくれる。明くんが大きくなった姿も見てみたかった。」
「困難に当たるとき、そういう時、家族がいたら楽しいかなって。」
と稲葉が言っているのを察するに、恐らく稲葉の意識は生前で止まっており、ラボのサーバー群の中に封じ込められているのだと考えている。
なので、生前の状態では対話できる。しかし、明の現在の姿を見たりすることはできない、或いはそれを記憶することができないのかもしれない。これはソルトを遠隔操作して接触できたとしてもかなわないことなのだろう。
この後、明が稲葉に対し「またこうしてお話しできますか?」と聞くと稲葉は「生きなさい。あの子と一緒に。」と返す。冒頭の「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」の流れから考えると「あの子」は0号なのか、稲葉なのか気になるところで、稲葉はどちらの意味で言っていたのだろうか?
ノベライズ基準だと恐らく稲葉だと思う。映画基準では稲葉が「仲直りしたら?」と発することから、それは0号なのかもしれない。かもしれないというか、そうあってほしいという私の願望だ。だって0号が稲葉にとって代われるなんて、そんなの嫌じゃないか…。
ラボで茜と邦人が明を起こしていた時
邦人が「大丈夫だって、あの二人はそういうんじゃないんだよ」と茜に告げているときがあるが、もしかして邦人は茜の明への想いを分かったうえで、茶化していたのだろうか?と思った。だとしたらいつからなのだろうか?物語が始まるより前からなのか、その途中なのか。或いは、この茶化していた時に感づいたのか、それはわからないが、以外と邦人もわかってるやつなんだなと思ったし、ここからの流れは微笑ましいなとも。
邦人は恐らく純粋な悪友キャラとして設計されていて、それが最もいかんなく発揮されているのが、この場面だなと感じた。
茶ソルトからの支援
明が0号を探しに行き、そこから茶ソルトが支援に回る時の場面で、茶ソルトの目はずっと黄色に光っていた。黄色に目が光るときは主人への犯行が表れている時だと私は解釈しているが、だとするとこの時は何かしらの命令に反していた状態だったのだろうか?
少なくとも最後に壊れたのが、もしそれが理由だとしたら、これは何故なのだろうかと思った。
個人的にあのソルトには稲葉の意思が宿っていると考えているが、もし稲葉の意思のクローンみたいなもので、稲葉の意思に反抗して動作しているとすれば納得できるかもしれない。或いは市中のシステムをオーバーライドするのが主従を無視した状態ともとらえられるかもしれない。
なんにせよ考察し甲斐のあるポイントだと感じた。
明と絵里の対峙
「親譲りの才能、恵まれた環境、きらびやかな成果物、私も頑張ってきた」と明に当てつける場面があるが、ぶっちゃけ絵里は明の作ったものを改造する程度のことしかできていなかったので、研究者としてみるとどうなのか?と思ってしまうところはあった。
最後の最後までソルトの改造しかできていなかったのだ。ある程度自律的に動く人型ロボットは今の世でもBellaBotの様なものはあるわけで、ソルトの機体を真似して殺戮マシーンくらい作れただろうし、あそこまで作れたのに自身は特に凶器を持っていなかったのも不思議だ。
まぁ、ここはストーリー上の整合を合わせるためなのだろうから、深く気にしないほうがよさそうだ。
0号の反撃と、たじたじになる明
前述したとおり、ここでは明は以前のように明確な停止命令を出さなかったと思っている。
また過去何回も書いた部分でもあるが、やはりここは0号から明への気持ちと、明から0号への気持ちの交錯が、なんとも切ない。平行線を辿り、交わらない想い。分かり合えない二人、ボーイミーツガールの神髄の様なものが、ここには詰まっていると思う。
「私は謝ってほしいんじゃない、認めてほしいんです。」
「やめてほしいですか?」
「当たり前だろ。」
「いやです。」
「やめてくれ、生体制御が痛めつけるのをよく知っているだろう。」
「はい、明さん。とっても痛いです。」
「なんで明さんは信じてくれないの。こんなに頭が明さんだらけなのに。」
「それならできるのは抗い続けることだけです。」
0号だって、明が認めてくれないこと、彼女として、恋人として見てくれないことをやめてほしかったに違いない。しかし明はこの時点で0号のことを家族だと思っていた。まだ妻なら救いもあったものが、家族とはいったい何だろう?流れ的に母親だろうか?
どの道、この時点での明に救いはなかった。殺されていてさえよかったとも思えるほどに0号に対しての興味や関心がなく、何の悪意もない。それこそが0号が厭がる明の姿だった。0号は明に代わってほしかった。でも0号は人は簡単には変われないことを、明を嫌いになれず、好きなままで、またあの時に戻りたいと願う、自らの経験からも熟知していた。
明の目が黄色くなる瞬間
「私は、私の想いが本当だって信じてほしいんです。」「だから明さん、私はあなたに逆らえます。」
ここで明の目が黄色になる。もしかしたらこの時、明は0号に対して何かしら攻撃の意図を持っていたのかもしれない。そう、明が0号を認めない、否定し続けることへの何かしらの生態制御。或いは稲葉からの何かだったのかもしれないが、この場面についても考える余地はありそうだなと思った。
ちゃんと証明しますから。人の想いは制御できないって。
一体これほど悲しい場面がほかのどこにあるだろうか?明は0号が死ぬことさえ予期できていたはずなのに、それでもなお、0号を認めなかった。どうして、何が彼をここまでさせるのか、とにかくひたすらに悲しく、私は0号にだけは幸せになってほしかった。
そして稲葉からの「明くん、生きなさい。生きなさい。一緒に。」というメッセージもよくわからない。メタ的だとは思う。これは0号により強い生態制御をかけるためのおまじないみたいなものだったのかもしれない。明の中にも眠る稲葉の意思の様なものがそうさせたのか、或いは横にいたはずのソルトからの干渉なのかまではわからない。
倒れる0号と、介抱する明
ここは本作で最も美しい場面といっても過言ではないだろう。
「明さんの勝ちです。私の想いはニセモノ…。」
「そんなことない、君は僕なんかよりずっと―――」
果たして明はここでなんと続けたのか。もしかしたら「人間」と言いたかったのかもしれない。つまり、ここで明は自分自身も第三人類であることに気づいたのかもしれない。それまで明は自分自身を人間だと錯覚しているように見えたので、このタイミングで、そういう風に自分を見返していても不思議はないなと。
明は明らかに人間として欠落した要素がある。半面、0号は人としては普通で、何ら問題ない境地に達していた。それゆえに、自分が第三人類であると自覚したうえで、「人間」とはなったのであれば不思議もないだろう。
ここから先は感想というより、観た人がそれぞれ解釈し、次に繋げていく、要するに二次創作の領域なのかもしれないと思ったりした。
おかえりなさい「明くん」
0号は意識を取り戻さないが、身体的には生存している状態、いわゆる植物状態になっていた。
そんなある日、0号が部屋から消え、明は0号を叱ってやろうとなど考えながらも急いでラボへと向かう。すると、そこにいたのは0号の姿をしているが、どこか違和感のある0号だった。
明に気づいた0号が『おかえりなさい「明くん」』という謎めいたセリフを残し、ここで物語は終わる。
どう考えてもこれは稲葉だ。これは恐らく明にとっては望んだ結末だった。しかし0号はどうだろうか?
もうここに0号はいないのだろう。稲葉の意志だけがある。
「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」の通りになってしまった。明は0号にめった刺しにされながらも「生き続けた」、つまりここが「生きなさい、生きなさい。」なのだと思う。
そして稲葉はここに蘇り、「生きるの。私と。」に続くのではないだろうか?
いったい0号はどこへ消えたのだろうか?稲葉に屠られたとでもいうのだろうか?
非常に悲しい結末で、胸が苦しくなる。胸が痛い。とっても痛い。
ボーイミーツガールといえば男女が出会い、色々あってデートをしたり、また別れたりして、最後はくっついたり、或いは何か明るい未来に向かっていくのが王道だが、メイクアガールはその道をかき消した作品だと思う。もうそこに0号はいないのだ。
変わってしまった0号
エンディングを見ると0号だった人物は、その後もファミレスでバイトをし、0号ではなくなったため、様々な失態を犯しているように見える。しかしこの時はまだ、誰も0号が0号でなくなったことには気づいていなさそうだ。
明でさえも普段通り暮らしているように見える。まぁ明は興味関心に乏しく鈍感そうなので仕方がないかもしれない。
こういった場面を見ていると0号の意識が少しは残っているのだろうか?とかも思うのだが、稲葉が0号の記憶を読み解き行動しているだけかもしれない。
少なくともこの0号らしき人物は、その素性を周りに対して明らかにしていないことは明白なので、稲葉なのか、0号なのかははっきりしない。
しかし最後に稲葉の姿が被る場面があり、稲葉と同様の行動をとっているあたり、きっと、もう完全に稲葉なのだろう。0号の記憶が混濁していたり、意思が少しでも残っているといいのだが、なんにせよ、もうきっと0号はいないのだ。
余りにも悲しい。非情な物語だ。しかし、この不条理こそがメイクアガールをメイクアガールたらしめる要素なのだと思う。終わり方としてはさっぱりしている。
全体を通しての感想
明は元々恋人を求めておらず、しかし恋人を作ってしまった。これはいわゆる「ドリルを買いに来た人が求めているのは、ドリルではなく穴である」や「顧客が本当に必要だったもの」案件だろう。自分が本当に欲しいものは中々見えず、手段と目的が逆行するのは世の常だ。
このストーリーは明の壮大な勘違いから生まれた0号が、その成長の過程で明の本心を気付かせるものなのかもしれない。
そうして明は家族が欲しいことに気が付き、0号は水溜稲葉となる。そう考えればハッピーエンドだ。そう考えることができるのならば。
私には無理だ。あれだけ明を慕っていた0号がいなくなってしまう。明を殺したいほど愛していて、明がいないと生きていけないほどだった0号が、そこまでの愛を抱いた0号が消えてしまう。それは切なく、儚く、最悪で、そして0号となった稲葉に対しては最悪という感情しか湧いてこない。
なんてことだ…。こんなことはあってはならない。0号を返してくれ!とさえ思う。ただ0号が帰ってきたところで明は0号を恋人として認めないので報われることはないのだろう。そう考えるとこの形での決着は望ましいものとなる。
しかし、それでも私は0号に帰ってきてほしい。帰ってきてもらってもどうにもならないのもわかる。しかし明に改心してもらって0号と余生を過ごしてほしい。そう思うのだ。
そして、そうならないこと、このジレンマこそがメイクアガールの本質だと思う。だからこそいい。素晴らしい。こういった酷さがあるがゆえにメイクアガールは美しい。
メイクアガールを観てきた 五回目にも書いたことだが、だからこそ「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。」作品だと思うのだ。
きっと脳を灼かれたり、感情がぐちゃぐちゃになる作品というのは、こういう要素が一定あるのだと思う。
わざわざ宇部まで見に来てよかった。間違いなく、そう思わせてくれる作品だった。4月11日から塚口サンサン劇場でも上映が始まるが、そちらも是非見に行きたい。ブルーレイが出たらそれも買いたい。
余りにも感想を書きすぎているので、恐らく次回はもう書かないと思う。純粋な気持ちで作品を鑑賞し、最後の映画館での鑑賞としたい。それとは別にノベライズの感想は書いていきたいので、また書くかもしれない。
シネマスクエア7までの行程
新神戸から新山口まで新幹線で行き、そこから宇部線で宇部岬へ向かい、そこから徒歩でシネマスクエア7に向かうといった内容だ。
旅の始まり
旅は新神戸から始まる。三宮に住んでいると新神戸が近くて非常に助かる。
軽めの防寒具として以前買った、U.L.トラベルダウン ハーフコートを持ってきたが、小さくたため適当な場所に引っ掛けておくのに便利だった。
さて、鉄道の旅といえば駅弁は外せない。淡路屋で春限定の弁当を買った。これは行動量が多いからボリューミーなのがいいだろうと選んだ。
内容は大変豪華で、いかなごのくぎ煮や桜餅、鱚の南蛮漬けっぽいもの、煮豆、桜人参入りのすき焼きに、季節感あふれる煮物に塩鮭、そして季節感あふれるばら寿司。どれも美味しく目でも舌でも楽しめる一品だった。
飲み物を買い忘れていたが九州新幹線にはまだ自販機があるらしく、事なきを得た。
新山口につく前になると転車台が見えた。今時珍しいなと思ったが、単行が目立つので車庫の代わりにしているのかもしれない。転轍機複数持つよりはローコストだろうし。
新山口に到着
駅の南側にはホテルと塾くらいしか見えず、北側もぱっと見そんな感じだった。新山口は姫路よりも停車が少ないらしくさびれていた。
これから行く宇部線ではICが使えないことも知った。松山駅にはなかった気がするので、完全にICがないエリアと、混在しているエリアの差を感じる。とはいえ、同様の加古川線や播但線もここまでのものはなかった気がするが、まぁ駅の規模の差とかなのだろう、きっと。
さて、こういう時帰りに土産屋が閉まるのを散々経験したため、あらかじめ土産屋を物色する。フグの刺身は売り切れだった。
宇部線へ
新幹線のホームから宇部線は離れているらしく、連絡通路を歩いていたら透明な消火栓を見つけた。オシャレだし故障が一目でわかって便利かもしれない。
連絡通路から在来線ホームを一望してみるとかなり広いことがうかがえる。新幹線が通過する割にでかい駅だ。
この時になるとジャケットを入れたスリーブはカラビナに引っ掛けていた。松山でも思ったことだが、やはりこのカラビナは便利だ。
宇部線乗車
しばらくすると宇部行きの電車がやってきた。宇部線はラッシュ時以外は一時間に一本、運行していない時間もある路線だ。
車社会だし、この本数ではあまり使ってる人はいないのだろうなぁと思っていたが、意外と乗車客は多かった。
さていよいよ乗車する。宇部線経由と書かれているが、宇部線しか走らないのでは…?などと考えていた。
宇部線車内
宇部岬駅
一時間ほどの乗車で列車は宇部岬駅に到着した。駅には意外と人がいた。
改札はしょぼかった壬生川駅を、さらにしょぼくしたような感じだ。
ここが鉄道駅であることを示す居酒屋があるのはいいなと思った。
特に写真は載せないが、この駅のトイレには紙がないので、駅のトイレを使う場合は要注意だ。この駅は無人駅だが、トイレ自体は綺麗で、段差のある和式が一個ある感じのやつだった。
シネマスクエア7
駅の脇道を抜け歩くこと5分程度、シネマスクエア7が見えてきた。
シネマスクエア7の入るフジグラン宇部の中に入り、シネマスクエア7の前に来たところ。
グッズもセカンドランとは思えないほど充実していて、なんとクリスタルアートまで揃っていた。
メイクアガール入場開始
開場の瞬間は誰もいなかったが、あれこれ撮影したりしてる間に一名に先を越された。手落ちである。
しかし事前予約では9席あったので、まぁ後からくるのだろうと思った。実際上映開始前には10席埋まっていた。
シネマスクエア7の座席は段差が少なく足元が広いタイプで、塚口サンサン劇場が近いと感じた。キノシネマ神戸国際ほど平坦ではないと思う。
シネマスクエア7では一週目の特典も配布されていた。一週目にもらったものと合わせて三枚になったのだが全部「0号?」なので、もし4/11~上映の塚口サンサン劇場で配布があるとしたら「0号」のほうをゲットしたいところだ。
またグッズ販売もセカンドにしては充実しており、クリスタルアートをはじめ、多くのグッズが揃えられていた。
帰路
上映が終わると19時手前になっていた。辺りは暗くなっていた。
宇部岬駅に戻ってきて待つこと一時間弱、新山口行きの列車が入ってきた。
新山口駅に着き新幹線乗り換え口に向かう。発車案内には新大阪行き最終電車が表示されている。そう、最終電車で帰るのだ。
このあと新幹線改札をくぐる時に簡単なトラブルがあった。それは新幹線はEX予約でとっているので本来改札なしには入れないのだが、切符で入ってきているため改札ではじかれてしまったのだ。
駅員に聞いてみるも半ば困惑気味に、切符を通した後にICを通せばもしかして通れるかもしれないと言われ、試したらなんとこれで通れた。これはちょっとした裏仕様っぽくて面白かった。
改札を抜け、またもや待つこと一時間弱。ついにそれはやってきた。新山口発、新大阪行き最終電車。おそらく東京から来た人ならもう帰れないやつだ。
今回の旅では列車の接続に概ね一時間弱かかり、合計で三時間ほどの余白があったが、一回一回が中途半端すぎて地元のお店に入ったりできなかったことが残念だった。機会があれば次はふぐとか山口らしいものを食べてきたいところだ。
改札はこの時間の割には割とごった返しており、意外とこの時間でも使う人がいるのだなと感じた。
お土産
- 投稿日:
メイクアガールを観てきた 三回目の続き。四回目の記事を書いていないため、今回の記事は三回目から飛んで五回目となっている。
去る3月1日、チネチッタでメイクアガールのスペシャルスタッフトークショー付き上映が行われたので、それに参加してきた記録とか、映画への想いとか。ちょうどノベライズを読み終わったところなので、そこへの想いもちょこっとだけ。
チネチッタへ
この日は朝から予定が入っており、10:30には終わる手はずだったが、30分オーバーした時のことを考慮して11:16発の新幹線で新神戸から新横浜に向かう予定だった。Yahoo乗換案内によるとこの予定では上映開始10分前にチネチッタにつく計算だった。
この予定は的中し、見事予定通り…となったものの、新神戸まであと少しのところで忘れ物に気が付いてしまい、どうにかなることを信じ、引き返したものの、余裕で間に合わず、一本後の新幹線に乗る羽目になった。開幕から中々の有様だったが、時刻表の読み合わせを行った結果、当初の予定時刻に到着できることが分かり、事なきを得た。
ギリギリで乗車車両を変えたため窓際が取れず、富士山は通路側の席から窓際の人の頭を避けて眺めることになってしまった。
なんとか11分前にチネチッタ前に到着でき、無事事なきを得た。駅前にチネチッタへの行き方が一切なく、土地の形から推定していったため無駄に遠回りしてしまったが、一種のテーマパークにも見える雰囲気のいい場所だった。
そしていつもの上映前の写真撮影。今回は人生初のぬい同伴だ。このぬいを取りに帰るためだけに時間に間に合わなくなるリスクを冒したので、その甲斐はあったと思う。たぶん。急いでカバンに入れたので0号の髪がやや乱れているのが申し訳ない。
そして上映終了後のトークで映し出されていたスクリーン。みんな撮っていたのでたぶん撮っていいものだと思う(適当)
しかし、がんばっていきまっしょいで松山に行った時も大概だったが、今回も川崎ということでずいぶん遠くまで来てしまった。しかも神奈川は今まで通過したことしかなかったので、これが初上陸であった。
鑑賞五回目の感想
そんなに書くことないかなと思っていたが、書こうと思えばつらつら出てくるもので、これがメイクアガールの恐ろしさだと感じた。
終盤のシーンに関して
0号が明と別居し、海中と話すシーンで「そんなのわからないですよ。できるかもしれないじゃないですか」というシーンがあり、この時の0号はまだ明とやり直せる可能性を考えていたと思うが、恐らくこの感情は海中と明が対峙し、海中のソルトが破壊されたことで砕け散ったと思う。あのシーンはあまりにも残酷だったし、あの状況でも0号が言葉を紡げ、さらに明への想いを募らせ続けられていたことは本当にすごいことだと思う。
この終盤のシーンでは0号は明の恋人になりたい、明のことが好きという変わらぬ想いがあったのに対し、明は0号と家族になりたいと考えており、最後まですれ違う思いは解消しなかった。何より、0号が私の気持ちを信じてほしいと言ったのに「わからずや」だとか「だから君はそういう風にできてない」と返す明は本当に救いがない。そしてここから0号は「私逆らえます」と言い、明への攻撃姿勢に完全に転換する。
このすぐ後に明は「話し合いがまだ足りない」などと詭弁を言うが、話し合いならもう十分にしただろうと思った。明は「混乱している」とも言っていたと思うが、それは明だけの話だ。0号は一切何も混乱していない。ただただひたすらに明のことが好きで、頭から離れなくて、この想いが作り物でないことを信じてほしかったんだ。
明が混乱しているのは、おそらく明は0号のことを勝手に家族扱いしようとしているが、0号は恋人としてみていること、そして海中の戦闘や、それまでの非日常的な光景などで頭の中がぐちゃぐちゃになっていたからだろう。しかし0号にとっては明がすべてで、明のこと以外はどうでもいいのだ。これが決定的な二人の間にある意識の乖離だと思う。本当にこればかりが悲しくて、メイクアガールは罪な作品だなと思った。余りにも純粋で、酷で、堪らなく愛おしい、この作品はそんなラブストーリーなのだ。
決して実ることない0号と明のラブストーリー、どこまでも救いがなく、だからこそ美しい。
私が好きな小説の一つにキノの旅という作品があり、この作品には「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。」という祝辞がある。メイクアガールは、まさにそのような作品だと思う。
ところで一番最後、0号が倒れる前のシーンで0号が「私の想いは偽物」といい、明が「そんなことない、君は僕なんかよりずっと――」と返すシーンがあったが、明はあの後何と言ったのだろうか。「本物」だろうか?「人間らしい」だろうか?恐らくこれは明の気持ちが最も0号に近くなった瞬間だと思う。後日、教室で「彼女じゃないよ」と返しているシーンがあるので、結局明は0号の恋人になりたい気持ちを否定しているようにも見え、あの時の態度は何だったのか?とも思うので、あの時の明がどういう意図で言っていたのかは定かではないのだが…。
そして0号が布団からいなくなり、ラボに移動したときに発する「おかえりなさい。『明さん』」というのが、水溜稲葉であるとしたら、「彼女じゃないよ」というのは母親を意識していたのか、それとも単に家族という認知だったのかも気になるところだが、母親と影が重なるシーンがあるあたり、母親ではなく、家族という認識で、恋人ではなく、家族が手に入ったことで明的には求めていた家族が手に入り、願望かなったりなのかなと思った。例えそこに明のことを好いていた0号がいなくてもだ。
明は海中に連れ去られた0号を追跡する前の回想で、0号の温もりを水溜稲葉由来のものとして解釈していたように見えるため、恐らくその面影があるのはうれしいことなのだろう。
個人的にこの作品を見ていて思うことは、どれほど言葉を交わしても、心は簡単には通じないし、想いを伝えることは難しいこと。人は簡単に変わらず、変えることもできず、どうしようもない無力さ。そして一度起きた勘違いは軌道修正することすらできず、明は自ら作ったはずの0号という恋人を忘れて、母親である水溜稲葉に傾倒してしまう悲しさだ。
0号が消えたのは痛ましく、それが水溜稲葉に乗っ取られているように見えたのは、非常に心外で、ありえないし、絶対に0号に戻ってきてほしかったが、そんなことはなく…本当に、本当にメイクアガールは救いがなく、それ故に美しい。まさに割れたガラスや水晶のようだ。だからこそ、私はメイクアガールが好きだ。これほどまでに心を突き動かされ、奪われる作品は過去に見たことがない。そう、メイクアガールは私の脳を鋭利な何かで刺してきて、そのままおもむろにぐちゃぐちゃにかき回してきたんだ…。
瞳が黄色くなることについて
そういえば、劇中の表現として創造者に反逆をするときに瞳の色が黄色くなる表現があるように思った。これは0号に限らずソルトもそのように見えた。そして明も瞳が黄色くなる瞬間があるということは、明にも生体防御が発動していたのだろうか?
このことについては後日ノベライズを読んだ感想について書こうと思っているので、その時に併せて書こうと思うが、ざっくりいうと書き換え不能な部分は水溜稲葉の意識だと考えていて、この意識はプログラムされたすべてのシステムに埋め込まれているのではないかという気がしている。
それ故にソルトに導かれた明がソルトから電撃を受けたときに水溜稲葉からの干渉を受けられたのではないかという気がしている。ノベライズでは相手の自我が強いと入り込めないが、脳が酸欠なら入り込めるとあったので、つまり明が気絶した状態であれば明の脳内に眠る水溜稲葉の意識が本人に干渉できるのではないか?ということを考えている。
恐らくメモリの中に格納されたシナプスのようなものは水溜稲葉の脳を転写したもので、明がこれを読めるのも、そういった部分が関係しているのではないかと思っている。
但しノベライズと映画には微妙に辻褄が合わない部分がある気がしているので、どこまで合っているのかはよくわからない。
スターシステム?
明が0号を追跡する過程で交通障害が起きるが、この時に二人のモブキャラが出てくる。「こっちだっけ?」という男性と「ええ、どうなってんの?」という女性だ。
シーンの割にはちゃんとしたセリフが設定しているのが気になっているのだが、もしかしてこれは次回作に出てくるキャラクターで、スターシステムなのかな?と思ったりした。
- 投稿日:
2/2に二回目のメイクアガールを観てきた記事を書いたが、昨日、三回目を見てきたので今回も何か書いてゆく。
劇場
今回はMOVIXあまがさきにて鑑賞した。ここを利用するのは2023年5月27日の 『アムリタの饗宴』 『アラーニェの虫籠』<リファイン版>以来だ。
ここ以外での上映が乏しいでもない限り、わざわざ来ない場所なので、神戸でやっているのにMOVIXあまがさきに来るのは珍しいパターンだ。
これは手前で有馬温泉に行っていたのと、MOVIXあまがさきでの上映も体験したかったところによる。
これまでの疑問点の解消
明の過去の記憶に登場する家
前回疑問に思った「アキラの過去の記憶に登場する家」についてだが、前の記事のコメントにもあった通り養護施設と思われる。
これは明が「おじさんに出会うまで施設にいた」と発言していることから、そう読み取れる。
0号が神社の階段を上るシーンの意味
これも前回疑問に思った部分だが、これも前の記事のコメントにもあった通り0号の成長を表しているようだった。
これは最初、0号がラボの掃除でバケツをこぼしてしまい明からもうやらなくていいといわれた時は、夕方の階段をとぼとぼと歩いていたのだが、その次に上手く掃除をやり遂げてソルトに対して「あなたはもう用済みだよ」みたいな仕草をした後は、朝方でぴょんぴょんと登っていたので、そうだろうと思った。
ところで私はモップを決める0号のシーンがめちゃくちゃ好きだ。
0号を探しに行く前に入力していた内容
これは特にどの記事にも書いていなかった内容だが、ちょっと気になっていた部分だ。
明が0号を探しに行く前にキーボードの何か打ち込んでいるシーンでの入力内容について、これは「MIZ」までは見えたので、恐らくあれは「MIZUTAMARI」と入力しているのだろう。恐らくパスワードか何かだと思う。
感想
とにかく0号がかわいい。そして明が未熟すぎる。本当に最後の最後まで、純粋で、素直で、裏表がなく、馬鹿で愚かで、救いがない。
0号がひたすらかわいい。愛らしい
ハンバーグを作って見せる0号もかわいいし、普通といわれて喜ぶ0号もかわいい。
さっきも書いたが掃除がうまくできるようになってソルトにモップをキメて見せる0号がかわいいし、神社の階段をぴょんぴょん跳ねる0号もかわいいし、ファミレスで明に帽子をわしゃわしゃされて「わっ」という0号もかわいい。
明をデートに誘う0号も、「好きってこれでいいんだ」と思う0号も、明にぞっこんになる0号もかわいい。
別居するときに「明さんは時折、私のことがわからないって言いますが、私の想いは設計したことがすべてじゃないってことですよね?」みたいに明に言い寄る0号もかわいい。
そこから明が逃げようとするときに「好きなんです。私は明さんが。明さん…」という0号もかわいい。こんなかわいい0号を放逐した明はさっさと死ぬべき。
「こんなに頭が明さんだらけなのに信じてくれないのなら」という0号もかわいい。それに対して否定の言葉しか出せない明はホンマ…
0号による脱獄
0号が明を攻撃する終盤のほうで、母親が0号に干渉するシーンがあるが、それを0号が跳ね返すのはまさに脱獄のように見えて、あそこは結構好きだ。
脱獄というのはAndroid端末のOSをすり替えたり、LLMが本来発言できない内容を引き出すなど、システムの脆弱性を突いて特権を奪い取る行為のことだ。これをすることでシステムは本来の制限を超えた動作をさせることが可能になる。ちなみに補償対象外になったり、アカウントがBANされたりするので良い子はやめておこう。
ただまぁ結局はかなわなかったわけだが、それでも自死だけは回避できていたので、もしかすると多少は緩められたのかもしれない。
明がひたすらに未熟で愚か。
「何に対しても悪意はないけど、興味もないんですよね…」とか言わせる明はサイテーの人間。
母親との会話シーンで「困難にあたる、そんな時この子がいてくれたら楽しいかなって」と言われて改心するものの、最後のシーンで0号に幾度もなく好意や愛を伝えられ、それを認められらない。認めることができない、明というのは非常に愚鈍で、本当に救いがない。無自覚な分、鬼畜でしかない。
「こんなに頭が明さんだらけなのに信じてくれないのなら」という0号に言われてもなお、それに対して肯定の言葉を一切言うことができず、取り繕ったようなことしか言わない明は本当に終わっていると思う。
次回予告
0号の姿が変わり、ナイフを投げガラスを割ったようなエフェクトともに浮かび上がる2027は、ひょっとすると海中との戦いなのかもしれないし、明と戦うのかもしれない。なんにせよストーリーが大幅に変わるだろうと感じた。
しかし個人的には最後の着地点は「家族」ましてや、「友人」などではなく、「恋人」であってほしいと思う。べたな展開だと明は茜と結ばれ、0号は去るとか、家族になってしまいそうだが、私は0号と明こそが結ばれてほしいと思う。
さてどうなるかは未知数だが、楽しみだ。
あとがき
本作の内容をノベライズした文庫本も入手したので、また読んで理解を深めていきたいところ。
本作は3回見て、そのすべての鑑賞会が別の映画館という、鑑賞歴の中でも今のところ唯一の作品だ。恐らく回数を重ねるとダブりは出るだろうが、傾向としては面白いと思っている。
私はメイクアガールが好きだ。そう、過去に観たどの映画より好きだ。0号はかわいいし、明はダメダメで、だからこそそれがよくって、メイクアガールは最高なんだって…。
明の未熟さに起因する軋轢や、葛藤も好きだ。何より0号は私の好みの属性に完全に一致するくらいかわいい。ここまで綺麗にハマったキャラは過去にいない。そのくらいかわいい。
0号の可愛さを深掘りする記事を書いてもいいと思うくらいにかわいいのだ。
ところで、公式サイトのキャラクター紹介で0号を眺めていて気が付いたのだが、コンテンツを区切るノイズのような線が砂嵐のように動くのが、ちょっといいなと思った。こういう細かい部分にまで作りこみがあるのは嬉しい。
- 投稿日:
1/31にメイクアガールを観てきたが、先の土曜日、2/2にもまた観てきた。二度目なので今回は思ったこと、感想を厚めに書いてゆく。
劇場
入口にはメイクアガールの放映情報が貼り出してあった。好待遇に見えるが割り当てスクリーンは狭めのが多く不遇だった。これはまぁ、ビッグタイトルを複数上映しているっぽかったので仕方がない。
8番スクリーンで見てきたが、比較的前方にあるE列の具合がよかった。
映写や音響はOSシネマズハーバーランドの1番スクリーンと大差なかったように思う。SAOPのDolby上映(スクリーン3、Atmosフルダイブ姫路サウンド)の時は音がよかった気がするが、音響調整されたDolbyだったからなのかもしれない。
着席は18名ほどで、ちょうど座席一列分だった。
感想
アキラというキャラクターの不遜さと未熟さ
アキラは非常に未熟で、それゆえに不遜な人物だと思う。しかも意図してやっていない分、トラペジウムの東ゆうを余裕で越えてると思う。
例えば、0号から食器洗いを頼まれ、ソルトに洗い物をさせるのはおかしい。0号はアキラにやってほしいのだ。しかも0号はソルトを嫌っているが、アキラはそれに気づいてすらいない。
0号がアキラを連れ出しデートに誘うシーンでも、買い物を終えたときに0号が自分で考えた内容を表明したときに、アキラが「また君が…?」と自我が目覚めていることに懐疑的な態度を見せるシーンがあるが、これは明らかに0号を一人の人間として扱っていない。創造者としての驕りが見えていると思う。
他にもシーンを上げれば枚挙にいとまがない。
残念ながら、この性格は物語の最後になるまで変わることがない。例え自分の命が危機に瀕しようと、それが原因で0号が死ぬことになろうと、変わることがない。正真正銘のダメ人間だ。本作を本作たらしめている最大の要素は間違いなくここだろう。
0号のアキラへの想い
0号は最初のうちはアキラを非常に慕っていた。しかしある時、「アキラのどこが好きなんだ?」と問われ、答えが出せずに葛藤してしまう。
そして作られた機械であるソルトと、作られた人間である自分との違いを意識し始め、葛藤を始める。
そこでこれまで自分が社会性を獲得するのに人間社会を観察してきたように、アキラを観察しようと考える。
デートに連れ出し、アキラとの対話で自我に気づくシーンでは0号の中で何かが反応したような描写がある。何かしらトリガーがあるのだろうが、ここから0号はアキラ好き好きモードになってゆく。
しかし、このことが原因でアキラから遠く離れた家に隔離されてしまう。
アキラから「今日からクラスメイトになろう。友達だ。」と告げられ、絶望してしまう。
0号はアキラへの好意を強く伝えるが、アキラから「それは0号の考えから生まれた感情じゃない」と言われてしまう。
そしてアキラへの強い好意のあまり、アキラは0号を拒絶し、0号の脳内で何かが反応し、自害プログラムが作動し、アキラが解除操作をするまで(?)0号は自身の首を強く締めてしまう。
以降、0号とアキラは疎遠になる。
生まれた意味を全否定された0号の、この気持ちはアキラには理解できないことだっただろう。
アキラの前を歩くようになった0号
アキラが0号の成長を感じたときに「いつから君は僕の前歩くようになったんだ?」と思うシーンがあるが、恐らくこれはアキラが自身が創造主で0号は設計を超えられないと思い込んでいたために発生したことだと思う。
0号は曲がりなりにも人間であり、成長するのは当然で、同じ場所にとどまり固執し続けるアキラより先に行くのは当然のことだろう。
しかし、アキラはこれを理解することができなかった。これはアキラの未熟さの例の一つでもあろう。
アキラが0号を完全に処分しない不思議
いやそりゃ血肉が通った人間だからというのはわかるのだが、別居を始めるときに0号の当初の目的である恋人は終わったみたいな発言をしたり、0号の自滅プログラムを作動させたりするあたり、処分対象としてみているような気もする。
恐らくこれがソルトであったなら迷いなく機能停止するなどで処分していたことだろう。
それに0号を生かしておく、お金もただではないはずで、行動にやや不可解な部分があるように見えた。
アキラの回想シーン
最初は母との思い出を描写しているように見えたが、後半に入ると、母と対話できるようになる。子供の姿のアキラと、高校生であることを認知した母が話しているシーンからしてみるに、恐らくあれは過去ではない。
恐らく序盤の奴は過去に見せかけようと母によって細工されているのではないだろうか?しかし、途中から母はアキラのことが心配になり、コンタクトをとるようになったと考えることができるかもしれない。
その場合、恐らくあれはシステムでアキラの脳内に埋め込まれた何か、或いは記録メモリの中を読み込むことによって脳内に構築され想起されるようなシステムである可能性がありそうだ。
母の記憶、いや意思に近いもの、自立した人工知能のようなものが、もしメモリに記録されており、それを読み出すことによって読んだ者の脳を汚染し、入り込むことができるのだとしたらある程度は納得ができる。
想定された未来
アキラの回想の中で母がアキラに対し「たくさんの困難にぶつかりなさい」みたいなことを言うシーンがあるが、もし今起きている0号との関係、海中とのトラブルが母によって仕組まれたトラブルだったとすれば、アキラ自身が人造人間であり、母に命運を操作されていたとしたら、設定として巧妙で、ちょっとおもしろいなとか思った。
母がアキラを諭すシーンで「許してくれなかったら、またほかの方法を試せばいい。研究者だってそういうもの。」ということがあるが、恐らくこれは自主性や自立をしてほしいという指令なのかもしれない。
もしアキラも人造人間で、0号の前に存在したプロトタイプであり、そのあたりの機能性に不足があるとか、母が逝去する前に自立性を育んでいなかった結果、あのような人格破綻者になったのだとしたら、このセリフはおそらく母からアキラに対する自主性を持たせるための最後の指令だった可能性もありそうだ。
0号の想いに応えられないアキラ
0号とアキラが対立して0号がアキラに襲い掛かる前に、0号から問いかけがある。これは許しを請うアキラに対する、0号からの最後の赦しの機会だった。
0号は「もうわかっています。その場しのぎの言葉はやめてください。」といい、アキラは否定するのだが、続く「私の心が作り物でないと認められますか?」に対しては口ごもってしまう。アキラは正直な人間なのだろう。
しかしこのときの正解は相手の考えを認めることだ。人から信頼を得るということは例え嘘でも相手を認めることだ。嘘も方便という言葉がある通り、こういう場合の嘘は構わないし、嘘から出た実という言葉がある通り、嘘も貫き続ければ事実に代わる。
結果としてアキラは0号の想いを受け入れることが出来ず、0号による命がけの抵抗にあうことになる。アキラは最後の最後まで0号を思いやってやることができなかった。非常に残念な結末だ。
これは別に物語の中だから起きえることでもない。現実で見てもよくあることだろう、何かを問われたときに我を通すあまり相手の信頼を失うのは、現実社会においてもよくみられることで、これは作品のテーゼとしてそれに対する戒めを説いているのかもしれない。一般的にこういうのを保身に走るとか、身を取り繕うとか、建前だけとかいうのだろう。
こういうのは自分の中で消化したと勘違いしているときによく起きることで、アキラらしい、自分のことしか考えていない非常に身勝手な考えだと思う。結局アキラは0号のことを考えることができないのだ。
0号によるアキラへの攻撃
0号は今まで貯めに貯めたアキラへの恋心と、自分が作り物であるという葛藤が混ざり合い、自分自身を制御できなくなる。
「ちゃんと証明しますから。人の想いは制御できないって。」というシーンがあり、まさにその通りだ。
この場になってもアキラは0号の生死のことしか心配できていない。0号が気にかけてほしいのはそこではない。恐らくただ一言、0号のことが好きだと、愛していると、そう言ってあげれればよかったのではないだろうか?
0号の生まれた理由、存在意義はアキラの恋人になることである。アキラはそれを否定したままここまで来ていて、0号がどうなろうとそれを取り消したことはない。
「私の心が作り物でないと認められますか?」というのは、0号がアキラに対して抱いている好きという思いが本物であるということを認めてほしいのだ。0号はアキラのことが好きで、アキラにも好きでいてほしい。ただそれだけなのだと思う。
この場面は見ていて非常に辛く、最後に0号はアキラへの恋心は遂に達しえなかったとばかりに、最後に一言だけ残し、息絶えてしまう。
機械的に作られた思いに対する嫌悪感と、それでもアキラのことが好きであるということを忘れられなかった0号の葛藤は、それはもう非常に甚大なものだったろう。このシーンは見ていて0号が非常に痛ましく、辛いシーンだった。
アキラの瞳
アキラが0号に攻撃されている最後のほうでアキラの瞳が0号の生態制御モードと同じものになるシーンがある。これは恐らくアキラもまた人造人間であることを示しているように思う。
0号が残した最後の言葉
アキラをひとしきり攻撃しきった後に、0号は「私の負けです」的な発言をするがこの意図が個人的に引っかかっている。
これは創造主を攻撃できない制御に屈したという意味なのか、アキラを本心から嫌いになり切れなかったという思いなのか、その混合なのか、この時の0号は一体どのような気持ちだったのだろう?
なんにせよアキラを攻撃している時に放った「私にできる唯一のやり方だから」という0号のセリフからすると、唯一のやり方が通じなかったというのは間違いなさそうだ。
0号の行方
アキラに殺意を向けてまで攻撃した0号の生態制御は致命的ではなく、幸い0号は一命をとりとめ、アキラによる看病を受けるが目を覚ますことはない。
しかしある日突然、寝ていた布団から姿を消しラボに移動する。その姿はさながらアキラの母親であった。果たして0号は消えてしまったのか、母親によって乗っ取られってしまったのか、そこが気になるポイントだ。
0号が最後の言葉を残す前に0号の意識に母親が介入するシーンがあるが、アキラの意識にも介入できる辺り、ひょっとすると母親由来のプログラムには全て介入できるのかもしれない。
もしそうなら、研究中がソルトはアキラを助けるために交通システムへのハッキングを仕掛けたのにも納得がいく。
個人的には0号「おかえりなさい。『アキラ君』」という言葉に畏怖を感じたし、0号はどこ…?ともなった。
エンディングではバイト中の0号がポカをするシーンが目立つため、以前の0号ではなくなっている可能性もある。これはストーリーが続くのであれば次回作に期待したいところだ。
気になった部分
アキラの過去の記憶に登場する家
恐らく続編で明かされるとは思うが、あの家は何なのだろう?
0号が神社の階段を上るシーンの意味
何かの心象の描写なのかもしれないが、よくわかっていない。
例えば日によって登り方が違う、登らなくなったなどで0号の様子を何かしら描写するためのものである可能性はあるかなとか。
この作品を見て感じたこと
この作品を見て感じたことは「覆水盆に返らず」と「他者を意のままに使役することは誰も幸せにならない」、「詭弁に意味はない」みたいな要素があるなということだ。
覆水盆に返らず
アキラが0号に対してやってしまったことは取り返しがつかないことで、恐らく何をしても戻ってこない。過ぎ去った過去はどうにもならないのだ。
過去はどうにもならないが、未来は変えることができる。そういう意味でも、もしアキラが過去の自分の行いに執着せず、新たな気持ちで0号からの気持ちを受け入れられていたら、結末は変わっていたのかもしれない。
他者を意のままに使役することは誰も幸せにならない
アキラは0号の創造主であることから、0号が言うことを聞かないときや、本来の設計に反する挙動を見せていた時に苛立ちを見せていたように思うし、0号との別居の際もそんな感じに見えた。最初のほうは体を掴んで動かすなど明確に0号に指示をして動かしていたので、その延長でやっていたのだろう。
しかし、0号がファミレスでバイトを始めるようになると馴れ馴れしく接してくるアキラへ戸惑っているように見えるシーンもあることから、この辺りから軋轢が始まっているように感じた。
赤ん坊や児童、新卒ならいざ知らず、あの頃の0号というのは立派な意思を持った人間だ。
そんな人間を意のままに操ろうと考え、意に反することが起きれば、もちろん使役する側は嫌な気持ちになるだろうし、される側も戸惑うだろう。
結果として、あの結末につながるのではないかと思う。何故なら、この関係は人と人というより、人とモノの関係に近いからだ。
アキラにまっとうな感性がないというのはさておき、アキラが0号を彼女や恋人として見れなかったのも、モノ扱いしていたからではなかろうか?
何より、使役関係は疲れる。似た概念にマイクロマネジメントというのがあるが、1から10まで指示するのも、されるのも、どっちも負担だ。
詭弁に意味はない
その場しのぎの言葉には何の意味もない。
極論を言うと悪いことをしたときに「謝ればいいんでしょ。謝れば。」というようなもので誠意がないのだ。
これは実社会でも非常に難しく、自分は反省しているつもりでも相手に伝わらないというのはよくあることだ。可能であればお互いに意識のすり合わせをするのがいいのだが、これは中々難しいことで、こじらせると平行線の喧嘩とかになりがちだ。
ただ、詭弁である限り何を言っても相手に通じることはまずない。
百歩譲って相手が詭弁を受け止めたとしても、詭弁は本質を突かないので、本質的に反省出来ず、同じことが繰り返されがちだ。
次回作はどうなるか?
エンディングで茜がアキラにクッキーを手渡すシーンがあるが、恐らく恋仲になるのではなかろうか?
その場合、0号はお母さんとして見守るのかもしれないし、0号本来の意識が覚醒し、体を乗っ取り返し、アキラを取り戻す、そんなシチュエーションもあるのかもしれない。
なんにせよどうなるのか、非常に楽しみだ。
海中は獄中か、それとも出所しているか、脱獄しているか、意思を誰かに託しているか、どうだろう?個人的にモブキャラだと思うので正直あまり興味ないが…。
あとがき
実はアリテレのころから映画鑑賞の感想を書きたいと思い、ずっと映画館でメモを取ったりしていたのだが、中々形にできていなかった。この行動はアナログへの回帰でも、映画館でメモを取るという内容で少しだけ触れている。
トラペジウムでは、このメモから起こして殴り書き程度はしたのだが、断片的過ぎて読めたものではなかった。それが今回ある程度まとまった記事として掛けたのは個人的に結構よかったと思う。
やっているうちにメモの取り方も徐々に洗練されてきたのもあるかもしれないが、まだちょっとよくわからない。
なんというか、こう、形にならなくてもとりあえずやってみるというのが大切だなとか思うのであった。とっかかりを作るのはきっと重要なことなのだ。