2026/01/13(火)紙の本の良さ

更新日:
投稿日:

私はここ数年、電子書籍ではなく、紙の本、つまり物理本を主体的に読んでいるわけだが、そこで気づいた紙の本にしかない良さを書いていきたいと思う。

紙の本で良いと思うところ

ここでは主に個人的に思う、紙の本の長所を中心に書いている。

本が勝手に消えない

電子書籍ではサービスの廃止や、著者の不祥事などで配信停止になると、自分の意思に反して本が読めなくなることがある。

サービスの廃止例では電子書籍配信サービスであるエルパカBOOKSは2014年2月24日に配信を停止し、本は戻ってこなかったとされている。

著者の不祥事としては、がおう氏の事件は記憶に新しい。例えば角川書店はイラストレーターがおう氏に関する報道と関連出版物の対応についてで、「Selfe Girl がおう作品集」の紙書籍 回収・絶版/電子書籍 配信停止を発表している。

もし紙で持っていたら消えることはない。配信会社が潰れようと、著者がいかなる蛮行を行おうと、そういった理由では消えない。

もちろん、失火や水没、紛失、盗難などでは消えるが、それは努力によって回避できる内容であり、前述のような自分では制御できない外的要因ではないので除外する。もちろん、その為に本を耐火金庫に入れるというのは極論だし、そこまではいわないが…。

本の内容が勝手に書き換わらない

これは短所でもあり、長所でもあると思うが、本記事の趣旨として長所として捉えていくこととする。

例えばこち亀、こちら葛飾区亀有公園前派出所は重版されるごとに問題のある表現が別の表現に置き換えられている話があり、電子版では最新の紙本と同じ内容になっているという噂がある。

もし紙の本を持っていれば、こういった本来の表現を見続けることが出来るだろうし、複数の版を持っていれば、比較することも可能だ。電子書籍でそのような機能があるものは私は聞いたことがない。

電子書籍にあっても版管理(バージョニング)は資源を食うし、書籍リーダーの開発や版ごとの権利周りも面倒になりそうなので、恐らくまともに一般化することはないと思う。

不要な本を忘れられる

電子書籍は一度買った本が未来永劫本棚から消えることはない。

もし買ってみたけど生理的に受け付けない本があったり、忘れ去りたい本があったらどうだろう?

紙の本なら売るなり捨てるなりすれば視界から消し去ることが出来るが、電子書籍ではカテゴリ分けで視界から一時的に消えた状態は作れるだろうが、所有しているという事実を消し去ることはできないし、多分何かの拍子に見てしまうことがあるだろう。

個人的には見たくない本が並んでるのはストレスだし、Kindleで一覧表示するとノイズとなって目障りだと思っている。これに対し紙の本は邪魔なら処分できる、これは強みだと感じる。

何なら古本として売れば二束三文でも金になるし、安く買いたい誰かのためにもなり、一石二鳥かもしれない。

そして何より、本を処分してまた欲しくなった時の葛藤を味わえるのも紙の本ならではだろう。そんなものはいらないと言われればそこまでだが、私はこういった負の感情こそが人の動力源の一つになりえると思う。

貸せる

電子書籍でも貸すことは不可能ではないが、紙の本のほうが容易い。何故なら紙の本は相手に渡すだけで貸すことができる。

電子書籍を貸すには少なくとも相手が必要なアプリケーションを持っていないと実現できない。

例えばコインランドリーや美容室、床屋、病院などにあるマガジンラックは客が気軽に本を借りて読むことができる。

また電子書籍を借りてもDRMが掛かっていたら複製はできないが、紙の本は写真を撮ったり、非破壊スキャナに掛けるなどで持ち主に迷惑が掛からない範囲での複製が可能だ。家族や友人から借りた紙の本の複製は基本的に私的複製の範疇に収まるので、著作権的に問題がない。

一覧性が高い

電子書籍の本棚を見て、一覧性がいいと思える人はおそらくほとんどいないと思う。もし、いたら申し訳ないが、一度大型書店か図書館に行ってほしい。

例えばKindleではコミックは自動的にまとまるが、ラノベはまとまらないので、一覧表示だと目的の本を直感的に探しづらい。検索しろと言われればそこまでだが、面倒だ。

それと万一歯抜けで買ってしまっている場合、一々まとまっているものを開かないと分からないので、これもイケてない。

もし紙の本であれば順序良く並べていれば歯抜けは一目瞭然だし、背表紙は面積が少ないので、普通に並べていれば、どの本がどこにあるかはパッと見てわかるだろう。

この一覧性の良さは紙の本の利点だし、何より本がずらっと並んでる光景は壮観でいいものだ。

装丁を楽しめる

本の中にはコミックの単行本でさえ装丁を凝ったものがあり、エンボス印刷や、特殊な紙を使ったものが存在する。

電子書籍でも技術的にはモニタに静電気を出すなどして触覚を再現することは可能だろうが、今のところそんな電子書籍は聞いたことがない。そんな端末を作って普及させるのも大変なので、多分当面現れはしないだろう。

同時に複数展開できる

紙の本は本そのものが表示デバイスの役割を担うため、本があればその数だけ同時に複数展開できる。参考書AとBを同時に読む、開いたまま比較するなど造作もないことだ。しかも置く場所の面積が許す限り何冊でも同時に開ける。

電子書籍ではモニタの制約があり、モニタの数以上には開けないし、モニタは基本的にでかく表示も紙の本よりでかいため、いくらモニタがあろうと制約が出てくる。

これは私はKindleの電子ペーパーを10個持ってますみたいな人なら気にならないかもしれないが、まずそんな人間はそんなにいないだろう。

本を読みながらメモを取るのに便利

ここは前述の項目と類似する内容だ。

例えば出先で本を読みながらメモを取る場合、紙の本があれば紙の本を読みながらスマホのメモ帳にメモするだけなので手軽だが、もしスマホしかなかったら、頻繁に電子書籍リーダーとメモ帳を切り替えることになり大変煩わしい。

スマホの電池消費に貢献する

紙の本は電池がいらない。電子書籍リーダーも電子ペーパーなら実用上気にならないだろうが、スマホで読もうとすると、どうしても気になるのがバッテリー残量だ。

ただでさえ色んなことに使うので電池残量が心配なスマホの電池を保てるのは便利である。特に長く読む場合はなおさらだ。

運動になる

紙の本は重いので、持ち歩いていると少なからず運動になる。きっと1mmくらいは体を鍛える助けになっていると思う。

また、本棚の本を整理するときなども、多少なりと運動になるだろう。きっと、多分、恐らく。

痛んだり、折れたり、劣化する

一見するとデメリットと思えるかもしれないが、紙の本は傷んだり、折れたり、黄ばんだり、汚れがしみ込んだり、時として破れたり、何かと劣化する。しかしこれもまた一つ良いのではないかという話だ。

例えば、この本は四隅が痛んでおり丸くなっている。これは私がゾンビランドサガの聖地巡礼をするときに、この本を持ち歩いていたことに起因するからだが、逆に言えば使い込んだという記憶を本に持たせることが出来るともいえるだろう。

経年で日焼けした本も、本棚の中で時を過ごした証拠としてみれば、それは風情がある。詫び寂びというやつだ。

例えば漆塗りでは時間経過による光沢の変化を育てるという文化がある、それと同様に本も育てることが出来るといえる話だ。これはピカピカの新書と、くたびれ色褪せた本では後者のほうが確実に重みがあるのと同じ話だ。

平たく言うと味が出るということだ。電子書籍から味が出るかと言うと、精々モニタについてる埃や、スマホの皮脂の味しかしないだろう。

自分で痛めた本は許せるのに、中古の本が許せないのも他人の記憶がしみ込んでるからなのかもしれない。逆にそういうのが好きな人がいるかもしれないなとかも思った。

関連記事

2025/07/31(木)忙しい時期こそ記事数が増える?

投稿日:

今月はかなり忙しく、記事を書く余裕など本来なかったはずなのだが、かつてTwitterでいわれていたところの忙しいほどツイート数が伸びるの法則的な奴なのか、やけに記事数が伸びた。この記事も含めると19記事であり、過去を見ても多い部類だ。

参考までにこれが忙しかった今月のスケジュールと、暇だった去年の11月のスケジュール。青色は固定スケジュールで睡眠とか風呂とかそういう系、水色は一般追加スケジュール、黄色やオレンジは重要なスケジュールみたいな感じだ。今月はスケジュールに未記載の予定も多々あり、表示内容以上に忙しい月だった。

5月はそこまで忙しくなかったが記事は多いので、別に忙しさとの相関関係はないのだが、忙しいのに記事数が伸びたなというので、記念に書置きしておく。

本記事のような小ネタ系が多いので伸びたというのが正しい気はするが、それでも記事は記事なので、まぁ…。

2025/05/02(金)アメリカの米が売られていた

投稿日:

昨今コメ不足が連日報道されており、NHKからもコメ不足感「改善せず」 スーパーの平均価格は5キロ4220円にという報道が出ているが、ついにアメリカ米を見る機会があったので記録に残してみる。

一回目は4月18日にライフで、二回目は4月19日に業務スーパーで、それぞれアメリカ産の米を見かけた。

USAライス協会によると、このカルローズというのはジャポニカ米とインディカ米の中間にあたる米らしい。

正直アメリカの大量栽培米が日本にやってくると日本の米農家はひとたまりもないと思うが、一体どうなるのだろうか…。

ただこのカルローズすら品薄で消えているようで今日ライフに行ったら消し飛んでいた。

個人的には秋田県産あきたこまちを食べていたいので国産米にもなんとか頑張ってほしいところだ…。

2025/04/22(火)ヒロポンを追う

投稿日:

ネットの一部で稀に話題になるネタだが、数年前からヒロポンがまだ現役で存在することが気になっていたのでちょっと真面目に調べてみた。

日経メディカルには処方薬としてのヒロポンが掲載されており、これは毎年更新されており、添付文書の更新があることから存在は明らかである。更に製造元も住友ファーマに変わっている。

Wikipediaにも情報があるが、結局どれも二次情報なので一次情報に当たることにした。

とりあえず住友ファーマの製品情報を見るのが鉄板だろうというので見に行くと見事ビンゴ。但しここの情報は医療関係者向けなので基本的に一般向けの情報でないことには留意されたい。

まず製品基本情報のページをあたると「麻薬製品一覧」という項目がある。

ここに進むと会員限定ページが出てくるが、あからさまにJSで制御されているのでDOMをいじってみるとヒロポンの存在を確認することができた。

詳細を見るとヒロポンの情報を見ることができたが、日経メディカルにある以上の情報はほぼない。

また他にも厚生労働省発表の令和3年3月31日 大麻等の薬物対策のあり方検討会にもヒロポンが掲載されていることから、今日においてもヒロポンが存在することが推測できる。

但し1ページ目以降に一切出てこないことや消費統計にも存在が明確に見られないことから、実際に使用されているのかは不明だ。ヒロポンの効果・効能がナルコレプシー、各種の昏睡、嗜眠、もうろう状態、インスリンショック、うつ病・うつ状態、統合失調症の遅鈍症の改善や、手術中・手術後の虚脱状態からの回復促進及び麻酔からの覚醒促進、麻酔剤の急性中毒、睡眠剤の急性中毒の改善であることからして、全て代替薬が存在することから、恐らく実用性はないと思われる。

また院内処方限定で持ち出しできないことや、この資料に覚醒剤の使途が一切書かれていないこと、「国際条約と国内法の関係(向精神薬)」のページでメタンフェタミン等が赤字になっていないことから、製造体制が存在するだけで実際には流通していないのではないかと思われる。

しかしこの資料を見るとビバンセカプセルが覚醒剤原料として書かれてあり、非常に興味深かった。ビバンセはADHD向けに流通している薬でコンサータと同等の流通管理がかかっている薬なので、性質上は向精神薬に近そうなものだが、分類上はそうなっているようだ。

確かに令和5年7月改訂 東京都保健医療局 向精神薬取扱いの手引を見てもビバンセカプセルの名前はない。

また余談だが、カフェインは精神刺激薬の一種で一般的に向精神薬や麻薬、覚醒剤の仲間である。ヒロポンも元は無理やり動かすための薬とされていたので、そういう意味では似たような存在といえるだろう。覚醒剤とは乱暴に言ってしまえば眠気覚ましのことだ。

2025/03/30(日)自分が本当に欲しかったもの

更新日:
投稿日:

私はここ数年、今ひとつ満たされない気持ちで過ごしている。この記事は一体これはどうやったら晴らせるのか、どこに道があるのか、それについてメイクアガールを見ていて気付いた内容として書いた内容だ。

気持ちが満たされない原因

端的に言えば所属するコミュニティを失ったことだと考えている。

何があれば満たされるのかについても時折考えていて、その一つの解はコミュニティだと考えていた。私が満たされていたときはROやECO、FF14を始めとしたネトゲにハマっていたからだ。そして多分それはネトゲそのものではなく、周囲の人たちと遊ぶのが楽しくてやっていたと思う。

私がこれらを離れた理由はプレイしていたタイトルの過疎化やサービス終了、所属していたフリーカンパニーの過疎化などで、言ってしまえば、去った理由はひとえに過疎化だった。

コミュニティだけでは足りない

コミュニティを失うだけであれば、コミュニティに入れば充足すると思うが、そう簡単な問題ではなかった。

私はネトゲをやめた後にも入れるコミュニティを探した。艦これのIRCに入ったり、TwitterやDiscord、Misskeyなど様々なコミュニティで気の合う人を探したりしたが、いずれも続かなかった。

私が当たったIRCは仲間内で雑談する内容のもので、仲間を増やして楽しく過ごそうというものだったが、艦これ仲間ということ以外に特に方向性はなかった。特に艦これの話をしているわけでもなかったので、次第に過疎化していった。

次に私はTwitterに活路を求めた。Twitterは長いことやっていて、ここでなら何かあると思ったからだ。しかし、ここでも私はまた特に何も得られなかった。

Twitterは扱う話題に特にテーマがない。言葉は悪いが有象無象の集まりだ。仮に似たような仕事や趣味の人をフォローしても、どうしても粗が見えてきてしまったり、興味が持てずにいた。

四六時中仕事や趣味の話ばかりをしているわけでもなく、飯の話や政治の話だってする。私だってそうだった。すると相手を許容できないと難しくなってきたり、飽きてきたりする。つまり昨今よく言われる見たくないものが見える現象だ。満たされないどころか心が削られてしまう。SNSに病んだ人がやたら多いのもそういうところに起因しているのだろう。

そこで私はもっと特化した趣旨を持つDiscordに道を求めたが、ある程度ジャンルが絞られていても内情はTwitterと大差なかった。或いはバチバチに縛ってある場所では話すことがなく廃村の様相になっているものもあり、難しさを感じた。Misskeyもそんな感じだ。ioはテーマレスでTwitterと変わらないし、テーマを極端に絞ったものは過疎に、そうでないと中途半端なものは、ただその属性の人が集まったTwitterみたいな状態だった。

私はいよいよわからなくなった。わからなくなったので、取り敢えず息のある小規模なコミュニティに属すために、今は兵庫丼うかどんに身を寄せているが、特に何か大きく変わったわけではない。人がいなさすぎるせいで見たくないものが見えなくなったのは進歩だったが、満たされているかどうかだと満たされていない。

自分でDiscordサーバーを建てようと考えたこともあったが、何を話すのかを定めることができなかった。おそらくそこら辺の作業用Discordと何ら変わらないものが生まれ、興味のない会話で埋め尽くされるだけだろうというのは目に見えていた。

ここで私はあることに気が付いた。欲しかったものはSNSなんかではなく、単なるコミュニティではないのではないかということだ。そこで過去なぜネトゲでは上手くいっていたかについて考えることにした。

指向性への気づき

ネトゲには指向性があった。指向性というのは同じ方向を向いているということだ。

例えばレベル上げをしたい、より上のコンテンツに向かいたい、ボスを倒したい、金銭や経験値稼ぎで記録的な効率をはじき出したい。その時、その場、その相手によって様々なものがあったと思うし、私と相手の目的が一致していなかったこともあったとは思う。ただ、その活動を共にしている時だけは同じ方向を向いていた。

活動中はともにそれに向かって夢中になり、ほかのことなど考えはしなかった。リアルのことなんて全部忘れて熱中できる環境がそこにあった。

そこで気づいたことは、私が欲しかったものは、何かに夢中になれ、建設的で、お互いに何かしら利益のあるコミュニティではないかということだ。ただ話ができるコミュニティがあればいいわけではない。

メイクアガールという作品

そんな中で、メイクアガールは私へ一つの気づきを与えてくれたと思う。明は研究を繰り返すものの、失敗作ばかり作っていた。創造に成功した0号に対しても興味が湧かなかった。明は何に対しても興味も悪意もなかった。

これは私なのだ。私は何に対しても興味がない。そう、興味を持てる事柄をすべて失ったのだ。明にとっての水溜稲葉は私にとってのネトゲだろう。しかし、もうそこには存在しない。稲葉は死んだ。ネトゲは滅んだ。

明にとっての0号は、私にとっての仮初の興味、Twitterとかだったのかもしれない。つまり失ってもよかった存在だ。しかし明はそこで、0号は家族であり、水溜稲葉で、失ってはいけないということに気づく。

では私はどうすればいいだろう?もうやるべきネトゲはない、何より恐らくネトゲで得るものはもうない。そうなったときに私がすべきことは何か?恐らく、軸を持つこと。私はコミュニティが欲しかったのではない。軸が欲しかった。軸がなければどこのコミュニティに入ったところで得られるものはない。人々は私に興味を持たないし、私も彼らに興味を持ちようがない。

私がなすべきことは失った稲葉や0号を追い求めることではなく、次に繋いでいくこと。メイクアガールで言えば、明が茜を受け入れること、茜と家族になることで、稲葉化した0号を忘れることかもしれない。稲葉化した0号は過去に束縛する呪いのようなものにも見える。きっとその先に未来はない。

恐らくこれこそが、自分が「自分」であり、「自分」が自分として、人生の筋道を見つけていくことなのではないかと感じた。虚無の中を過ごしてはいけない。深淵に向かう街道を突き進んではいけない。戻ってはならない。過去に引きずられないように、前に一歩でもいいから進んでいく。それはもしかしたら稲葉化した0号もそうなのかもしれない。彼女はファミレスで新しい自分として頑張っているように見えた。

新しい道へ踏み出していく。例えかつて明を愛した0号の存在を忘れることになろうとも。過去に縛られず、前へと進む。それが大切なことなのではないか、私はメイクアガールを通してそう思えたと思う。

では、どうするのか?

では、どうするのか?と聞かれたら、まだそれは見えていない。ただ恐らく何でもいいので何かをやっていくことが大切なのだと思う。やらない理由を探さず、何かに取り組んでいく。

そして色々な物事に触れて、前に進んでいく。それが出来さえすれば自然と周りに人もできて、楽しく過ごせるようになるのかもしれない。

これは恐らく、このブログも同じで、むやみやたらに何でも書くよりは、もう少し絞ったほうがいいのだと思う。

きっとそうしていけば、日々の鬱憤や空虚感も徐々になくなるのかもしれない。もし取り戻せるのであれば、私は取り戻したい、あの輝いていた日々を。

いや、きっと取り戻せなくとも、少なからず、今より良くはなるだろう。そう考えて、前へ進んでいきたい。