先日、『聲の形』の10周年記念再上映が始まった。私は2019年に映画を観始めた関係で、それ以前の作品については触れる機会がなく、聲の形は興味のある作品の一つだったので観に行くことにした。これはそのログである。他にも『心が叫びたがってるんだ。』『サカサマのパテマ』にも興味があるので再上映が叶った暁には観てみたいと考えている。
鑑賞は兵庫県下で唯一上映を担当したアースシネマズ姫路で行うことにした。こちらではDolby Atmos上映となっており、ただでさえ音がいい館なのに、更によく、大変素晴らしい没入感を味わうことができた。
さて、前置きはほどほどにして感想に入っていきたい。
今観るべき作品だった
正直、本作を観たのが今でよかったと思う。今だからこそ、カタルシスという言葉の意味が解る。
『トラペジウム』で出会った脳を灼かれるという感情は、すなわちカタルシスなのである。
私は『トラペジウム』や『メイクアガール』といった「脳を灼かれる」作品を好んでおり、そしてこれらを観てきたからこそ、本作をより灼かれる作品として鑑賞することができたと思う。
思えば他にも過去に好んできた作品にこのような要素は多かったように思う。例えばSAOはアスナが親による圧力を受けていたり、シノンがリアルで襲われたりとか、そういった暴力的なシーンはあったし、それを観ていたからこそ映画のSAOPも、そういう背景込みで楽しめていた部分はあったと思う。
『アリスとテレスのまぼろし工場』もヒロインが捨てられるような描写があったり、偉そうな人が凋落してリンチにあったり、主人公が親から圧力を受けたりするなど、そういう描写があったように思う。そして決まって切り返しの場面がある。
こういった作品を多く観てきたからこそ、私は本作を今観て、その意味を嚙み締め、感情に刻むことができたように思う。もうこれは「脳を灼かれる」というより「カタルシス」である。カタルシスは日本語的には「精神の浄化」や「悲劇が観客の心に怖れと憐れみの感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」らしいが、そういった意味ではまさに精神が浄化されるような気持ちなのかもしれない。
ボーイミーツガール的作品
私はボーイミーツガールが好きだ。例えば『あした世界が終わるとしても』『ジョゼと虎と魚たち』『夏へのトンネル、さよならの出口』、そして何よりも『ソードアート・オンライン』といったボーイミーツガールはそれに該当する。
そして本作はボーイミーツガールでもあった。つまりカタルシス x ボーイミーツガールという組み合わせだ。
余談だが私のボーイミーツガール好きは『交響詩篇エウレカセブン』から来ている。
物語について
全てを壊しその負い目から自殺を試みた少年と、逆に全てを壊したと思い込み自らを疫病神のように思い自殺を試みた少女、そしてすべてを壊されたと思ったクラスメイト達の物語だと思った。
少女をいじめ、その結果自分がいじめられる側に転落したガキ大将だった主人公、ヒロインをいじめる側から主人公をいじめる側に転換したクラスメイト、そしてどれだけボロボロにされようと全員と友達になりたかったヒロイン。ああ、こんなひどい物語があってたまるものか、ヒロイン以外は全員が全員を下に見ていて、全ては快楽の対象なのだ。
そしてこのことは子供であるこれらの人物以外にも主人公とヒロインの親にまで波及して、血を流す暴力沙汰にさえ発展する。主人公の親はヒロインに対する賠償金を負担することになる。このことは主人公に高校生になるまでの間、長らく負い目を持たせ、主人公は希死念慮を抱くようになる。しかし主人公は親の必死の説得によって自死をやめる。
反対にヒロインにもクラスを無茶苦茶にしてしまった、自分が悪いという希死念慮が芽生える。これはクラスメイトの一人がそう発言していたことの影響も大きい。つまり部分的に事実ではあったのだ。そしてヒロインは主人公とは異なり、本当に飛び降りてしまう。しかし、その死は主人公の犠牲によって食い止められる。
主人公をいじめていたクラスメイトの一人は、主人公を決死に介抱し、ヒロインを排除しようとする。しかし紆余曲折あり、最終的には母親同士さえ完全に和解する。小学校から高校までの長い時があり、完全に断絶しており、破壊されていた人間関係が修復される。言ってしまえばご都合ストーリーと言われても仕方がない内容だとは思う。しかし、だからこそ、これが創作だからこそ心が揺さぶられるのかもしれない。
覆水は盆に返らないが、盆を置きなおして水を注ぎ直すことはできる
ここまでの流れからするに、一度完全に破壊しつくされ、もう二度と戻らなくなったものでさえ、それは努力によって修復することが可能だということを示唆しているのではないかと私は感じた。少なくとも私は本作からそれを感じ取った。
覆水が盆に返ることは決してない。零れた水は流れ、地面に染み込んだり、表面積が増えたことで蒸発する。その事実は決して変わらない。
ただ盆を元に戻し、そこに水を注ぐことはできる。過去は変えられないが、未来は変えることができる。
だから、何か過ちを犯して悔いているなら、それは改め、前を向いてもいいかもしれない。そして自分がかつて被害者だったとしても、赦していいのかもしれない。一生相手を憎み続けるのではなく、時には赦すことも必要なのではないかということだ。或いはそうでなくても過去に立ち向かうこともそうかもしれない。
これは『超かぐや姫!』における、いろはと母親の関係や、『どこよりも遠い場所にいる君へ』の月ヶ瀬が逃げていた過去、七尾が血縁者からの虐待に向き合うことにしたことも似たようなことかもしれない。
過去最高のボーイミーツガール
本作は障害者と健常者のラブストーリーや突き放したヒロインを再び追う部分では『ジョゼと虎と魚たち』に近いし、集団の破壊や同調という意味では『トラペジウム』も近いと思う。
陰湿さでは『かがみの孤城』のキャラクター背景も一つ近い部分があるかもしれない。離れてまたくっつく取り戻したい想いでは『アリスとテレスのまぼろし工場』の要素も少しありそうだ。
そして過去に立ち向かう姿勢では『どこよりも遠い場所にいる君へ』の要素もあるように思える。
人生は何があろうとやり直せる、死に値するものなどどのようなことだってない。そして過去は取り消せないが、やり直すことはできる。私は本作からそれを感じることができた。過去にもそういうメッセージを受け取ってきた作品はあったと思うが、本作はそれを非常に強く感じられたように思う。
また本作は陰湿でひどいいじめが小学校で始まり、ヒロインが転校し、そこから高校に入り結構なブランクがあったのに、クラスメイトとヒロインの再会によっていじめが再発するし、親同士の確執が再燃するというなかなかグロテスクな設定があり、最終的にはそれを乗り越え、全てを終結させるが、しかしそれでも、歪さは残ったままで、ただそれがいい。そう、問題は解決するが、全てがきれいに収まるわけではない。
私はキノの旅にある「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。」というワードが好きなのだが、本作はこれに非常に合致する。これ以上ないほどにだ。だからこそ、これ以上ないまでにカタルシスを感じたのかもしれない。正直、醜さを醜さのまま据え置いているという点では『メイクアガール』にも重なる部分があると感じるし、『メイクアガール』は間違いなく過去の鑑賞作の中でも群を抜いた傑作だった。そして本作も、そうだ。
そして本作の聲の形とは聾唖者でヒロインの聲の形そのものであり、拙くもどかしくとも、気持ちのこもったThe shape of voiceということもよく理解できた。タイトルがここまで響いた作品も他にない。決して綺麗じゃない、醜さがあるかもしれない。だからこそ、それ故に美しいのだ。
すなわち、本作は私が観てきた中で間違いなく最高のボーイミーツガールだった。ここまでの積み重ねがあったからこそ、今初めて観てよかった作品だったと、そう感じたのだ。
あとがき
実は私は京都アニメーションの作品が苦手で、理由として『けいおん!』や『響け!ユーフォニアム』があまり好みでなく『涼宮ハルヒ』シリーズも得意ではない。
しかし本作は非常によく、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-』も好みの作品であるから、要因を少し探ってみたところ本作と脚本家が同じであることが分かったので、このあたりが影響しているのかもしれないと思った。
他にもシャフトやスタジオコロリドなど苦手としているスタジオはあるのだが、いずれも何かしらの化学反応が起きると劇的な輝きというか、カウンターというか、非常に素晴らしい作品が出てきたりするので、固定観念をあまり持っても仕方がないのも確かな気はしている。ちなみにシャフトについては単に物語シリーズが苦手なだけな可能性は多分にある。