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昨今DXと言って電子化の取り組みや無駄をなくす取り組みが流行っている。無駄をなくすのは良い事だということに私もつい最近まで疑念はなかった。しかし、仕事をしていく中で無駄をなくししすぎてはいないか?という疑念が浮かんだので、ここではその辺りを書いていく。
無駄を減らすということは機械化や、やらなくていいことを減らすということ、つまり効率化である。例えば有人レジをなくして無人レジに置き換える、赤字の地方路線を廃線にし黒字路線に集中する、物流トラックの無人運転化というのは一例となるだろう。実際の例でいえば各地のスーパーをイオンが買収化して一元がしていることや、都市銀行を統合してメガバンクにすることなども、その一環に含まれるだろう。システム開発でもアナログをそのままデジタルに起こしたシステムは非効率だといわれる。紙帳票そのままのレイアウトに書き込むようなe-Taxソフトなどは無駄としての非常に良い例だろう。
しかし、物流の自動化の取り組み、例えばローソン、「冷凍おにぎり」で物流改革 食品ロスゼロにという取り組みは地方に分散する食品工場の必要性を逸させ、特定の都市に工場を集約することができてしまう考えだ。そして現在物流トラックの自動運転が研究されており[^1]、これが進むことにより地方の運送会社で働く人はいなくなるかもしれない。こういったことが進めば地方は衰退し、都市への一極集中が進むだろう。
地方の産業、特に一次産業は衰退の一途をたどっており、例えば農業においては就業人口と作付け面積が減っていることが報告されている[^2]。漁業も同様だ^3。畜産においては明確なデータが見つからなかったが、恐らく同様だろう。これに加えて先に言った食品工場の集約が起きれば、地方の仕事はなくなってしまう。つまり、もうそこには人が住まなくなるわけだ。現に現在でも地方の人口流出は起きており、特に東京一極集中が著しい^5。東京以外では愛知、大阪、福岡への集中もあるといわれており、地方から都市への人口移動が起きているのは明らかである。他にも最近では都心回帰といい、同じ自治体内でも都心に移り住む傾向がある。例えば東京都では多摩地域から区部へ、兵庫県丹波地域では市街地へといった風に、同一の都市内でもより都心部へ人口の移動が起きている傾向がみられる^7。
これが進むと恐らく地方はなくなり、最終的に都市しか残らなくなるだろう。それで何が問題か?という部分だが、表面的な問題は実はないと考えている。地方から人がいなくなればまずコストが減る。例えばインフラの整備を始めとした税金の投入は減るし、輸送費なども減り、全体的に言えばSDGsに適うとてもいい話だ。
しかし私は都市化には問題があると考えている。私は都市は人口が過密で土地がないために、子育てに向かないという特性があると考えている。またこれによって子育てそのものに対して排他的な風潮が熟成され、電車などで子供が泣いたり暴れたりすると顰蹙の目を買いがちと言ったものもあると思っている。つまり地方からの人口供給が立たれた都市というのは寿命が限られているのである。欧米ではこれを解決するために移民政策をとっていると考えているが、これは国家の破滅だと私は思っている。その未来は異民族による支配と統治であり、恐らく元あった国家は異民族によって塗り替えられた結果、消滅する。そしてその移民さえもその国の中では破滅のシステムに乗っている限りは繁栄しきれずに滅ぶことだろう。
またもう一つの問題を私は覚えている。それは歴史と文化の消失だ。地方には古来続いた歴史と文化がある。その大半は生活苦から生まれた知恵や神頼みといったものだと思うが、これらは都市化や集落の消滅により徐々に消えて行っている。身近なものだと方言の衰退もそうだろう。もはや意思疎通が不可能なレベルの方言を話す人は高齢者でも中々いない。多くの日本人同士は意思疎通が可能になった半面、方言というのは失われたのだ。そして恐らく方言の衰退は歴史と文化の消失にも関係していて、これは日本が均一化した結果だと私はとらえている。
日本が均一化するとは、つまり日本国全体が各種法令や標準的な教育により一つになるということである。大まかにいえば北海道から沖縄までどこに住んでいようと東京都に住んでいるのと基本的な生活や文化は変わらないということだ。突き詰めると東京圏以外に住むことが無意味とさえ取れかねない。
例えば沖縄に住んでいても東京の映画は見れるし、東京に住んでいてもサーターアンダギーを食べることができる。どこの地域であろうと食べ物には賞味期限や材料など、法令に沿った内容が書かれている。しゃべる言葉も多少の訛りや、語尾の違いがある程度で差がなくなってきている。つまり最早東京以外に住む意味合いがなく、無駄になりつつあるのである。
昨今では子育て支援が求められていて、財源難だというが、例えば東京都を関東一円にまで拡大し、他の道府県を全て廃止し、それらの居住者を新しい東京都に移住させることで、今より節税にすることができるだろう。各道府県の道路や水道などのインフラを維持するのは無駄であるわけだ。恐らくこれを成し遂げることができれば短期間ではあるものの子育て支援として一子あたり1000万円の出産祝い金を出すことさえ不可能ではなくなると思う。まさに「異次元の少子化対策」である。
さて仮に類似企業の統廃合を進め一極化を行い、地方の廃止を行い関東一円に人口を集中させた場合、日本という国から無駄はずいぶん消えるだろう。よくやり玉に挙げられている自衛隊もかなり縮小できるし、他にもインフラなどの様々なものを縮小できるのでいろんなコストが削減できると考えられる。
世間様的には非常に良い取り組みだと思う。いっそのことこれを世界レベルでリードして世界の無駄をなくしていくのもいいかもしれない。例えば世界人口をアメリカに集中させ、世界規模で何もかもすべてを集中させる。SDGsや基本的人権、普遍的価値観に背く物は時間をかけて消してゆく。無駄の削減と世界平和が実現できて非常に良いかもしれない。
しかし果たしてそれでいいのか?争いがなく、人口が減り、無駄がなく、AIを始めとした機械に置き換えられてゆく世界になっていいのか?そこに向かって全力で進むのが果たしていいのか?
振り返ってみてほしい、人類が繁栄していたのはいつだったか?階級や身分を立て差別を行い、人口移動を封じ、地域に人々を閉じ込め、事故が起きようがどうなろうと国威のためであれば無視していた時代が一番栄えていたのではないか?無駄をなくした結果、人類は持続不能な社会を迎えていないかというのが私の究極的な疑問だ。
私が思うには人類繁栄とは、戦争を行い、地域を分断し、年齢など気にせず子をなし、腐ってなければ食べ、どんなに辛く苦しくても不屈の精神で生き抜いていたころではないかと思う。毎日90kgもある米俵を担いで歩く仕事と、机の上でキーボードをたたく仕事、どちらがより健康的だろうか?間違いなく前者である。
人類は無駄をなくし、効率化や合理化を目指せば目指すほど人類の衰退と破滅に向かうのではないかというのが私の今の考えだ。なので私は反対に無駄をしていくことにした。例えば物を買うときにスーパーマーケットではなく個人商店を優先したり、県内・市内産の食材や製品を優先するなどだ。どう考えてもスーパーで買ったほうが効率がいい。個人商店はクレジットカードが使えず不便だ。
私は大手資本に個人商店が潰されていく光景を余り見たくない。出来る限り長く続いてほしい。買い物をするときに店主と話がしたい。地元の農家に頑張ってほしいという思いがあるし、海外資本に決済が支配された結果、日本に蔓延る世界的人権と普遍的価値観に反する文化が排斥されていくのを黙って眺めていきたくないという思いでやっている。
仮にVISAやMasterに日本の決済が牛耳られれば、美少女系のコンテンツは根絶やしにされ、顔や自らの体を売りにしたアイドルや俳優もいなくなってしまう可能性がある。何故なら彼らは「国際的人権や普遍的価値観に背く」と言ってくるからだ。従わなければ取引停止や、果ては国際的な圧力をかけてくることだってあるだろう。ウクライナ戦争でどれだけの圧力がロシアにかけられたかは記憶に新しいところだと思うが、このままいくと日本はあれを笑っていられない立場になるという話だ。日本の均一化の次に起きるのは世界の均一化である。彼らは世界に存在する無駄を徹底的に排除していく。人権侵害や普遍的価値観に背くという理由でだ。そしてその先にあるものは国民国家の消失だと私は考えている。
そういう意味ではさくらインターネットがガバメントクラウドに指定されたことも私にとっては吉報だった。効率の面でいえばAWSなりAzureなりを作ったほうが賢い。しかしそうなってしまえば日本国そのものを他国の民間組織が間接的に支配できてしまう。理想は中国のように自国内で完結させてしまうことだが、あれは大国でないと難しいので仕方ないだろう。これは日本がまだ国としての意思を残しているいいニュースだと思ったので、応援していきたい。何せうちのサイトもさくらインターネットでホスティングしているしね。
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世の中には様々な文化、集団、思想、風俗、国家、地域などがあり、それぞれが違うというのが私たちが今いる現実だ。
欧米諸国が唱える人権や普遍的価値観にそぐわないものも沢山あるだろう、そして今後グローバリゼーションが進めば、ますますそのようなものは失われていくだろう。それは悲しいことだが、仕方がないことだ。
ただ一つ私が言いたいのは、失われた文化は決して悪しき文化ではなかったということだ。そもそもこの世に絶対的な善悪はない。ある人にとっての善が、ある人にとっては悪で、その逆もまたしかり、それこそが世の中だ。
だから、潰えた文化を過去のものだとか、悪しき歴史だとかと切り捨てず、昔はそんなこともあったんだなとか、今取り戻すとどうなるのだろうとか、その文化は当時どのような役割だったのか、そういったことに思いを巡らせることが出来たらいいのではないか。なんとなくそんなことを思ったので、ここにしたためておく。
世の中には様々な考えがある。その中で自分がどうあればよいのか、それこそがきっと人生というものなのだ。SDGsを守らない人、基本的人権を守らない人、普遍的価値観を守らない人、そう、悪い人は沢山いるかもしれない。しかし自分は自分で、他人は他人で、気にしないことが大切だ。
もし自分がこれらの思想に従う気がないというならそれもいい。そんなのは自由だ。思想統制されているあの中国でさえ、思うだけなら自由だ。なので、自分は自分として生きればいいのだ。
つまり、これは御座候を今川焼と呼ぶ人がいるから今川焼と呼ばないといけないとか、そうではなく、自分が御座候と呼びたければ呼べばいいということと同じ話だ。
人生は有限で、やれることは限られているのだから、そんな大変そうなことよりも、もっとくだらなくてもっと無駄なことに力を注ごう。そして自分の正義があるなら、それは貫こうという話だ。
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最近気になっていることが増えてきたので幾つか書き出しておこうと思う。気が向いたり時間があればまた深堀していきたい。
個別に記事にすることも考えたのだが、今ひとつ考えがまとまらないのでこの記事はとりあえず今ある思いの丈を吐き出しておくという感じだ。
地方都市の衰退と日本の消失
前々から言われていることだが日本では東京一極集中が起きており、地方は衰退している。東京は地方から吸い上げつことで成り立っているが、最早地方には東京を支えるだけの人口生産はなくなってきている。つまりこのままいくと日本という国は滅んでしまわないかということだ。
東京は世界的に見ても稀な規模での人口集中が起き、大変な過密状態であり、地価が高く、子育てするにはあまり向かない土地柄というのがある。これは家が狭いとか、就業住宅で子供の声が騒音になるなどがあると思う。また公共交通機関の利用が主になるため、ここでも騒いだり暴れたりする子供の存在が問題視されがちで、やはり子育てには向かないように思う。
個人的には日本を立て直すには東京一極集中を解消し、地方に分散させることで地方を賦活化させることがカギになるのではないかと思う。また地方独自の文化や風習の復活も必要だと考えている。これは無理に地方に分散したところで結局どこでやっても変わらないことをしているのであれば戻す意味がないからだ。
ではどうすればいいかというと、例えば関西では薄口しょうゆ、関東では濃口しょうゆのように、東西でしょうゆの文化が違ったり、ある地方では食べるが、ある地方では食べないものがあったりしたと思うが、これをやっていくことだ。今はしょうゆは濃口しょうゆに統一されようとしており、薄口しょうゆの影は薄くなっている。神戸に住んでいてもそう感じる。これは実際に売り場に行けばわかることだ。ヒガシマル醤油(兵庫県)がキッコーマン(千葉県)に駆逐されかけている。
自由競争の結果と言ってしまえばそれまでだが、このままでは大手企業だけが生き乗り、市場は寡占化され、企業競争力や多様性は失われることだろう。そして、地方も弱体化する。私は今のところそう考えている。これは何も醤油に限った話ではなく、スーパーマーケットがイオングループの支配下に入りイオンブランドばかりが売られるようになる現象や、国産農作物の収穫量が減り輸入作物におされることで、国内農家が衰退して行く様子などもその一つだと考えている。
このままいけば地方の存在意義そのものがなくなると思うのだ。例えば国産作物より輸入作物のほうが安いし、安全上も問題がない、国産は高いだけといえば、地方の主力産業の一つともいえる農業は衰退してしまう。ただでさえ一次産業くらいしかない地方から農業さえ取り上げれば地方はますます衰退するだろう。ローソン、「冷凍おにぎり」で物流改革 食品ロスゼロにみたいなのも生産工場を一極化できてしまうので、こういうのが進むのも危険だなと考えている。割と地方というか、田舎には食品製造工場が多いのだ。山奥とかによくある。
他にも地方を衰退させる変数はたくさんある。例えば標準語教育だ。標準語教育によりその地域に根付いた方言は消滅の一途を辿っている。方言があると他地方の人間と交流しづらく、意思疎通差の困難さや文化の際による障壁が生まれるため、人口移動が抑制されると考えている。他にも地方の文化、祭りや式典、芸能の衰退など、多岐にわたるだろう。
余談だが鉄道廃線が人口に与える影響の因果推論 - 日本地域学会によると、鉄道路線の廃止はあまり影響しないとされている。個人的に見ている中では廃線対象の鉄道は元々旅客輸送用途でなかったものが多い気がするので、単に地方産業が衰退した結果、本来の用途で利用されなくなり廃線になっているのではないかと考えている。
人権主義と国民国家の崩壊
昨今グローバル化が叫ばれ、特に人権が非常に重要であると欧米諸国は声高らかに叫んでいる。私はこれが将来的に国民国家の崩壊にならないかというのを危惧している。
まず日本においては人権問題に関する指摘は内政干渉にならないと外務省が名言している。
人権及び基本的自由は普遍的価値であること。また、各国の人権状況は国際社会の正当な関心事項であって、かかる関心は内政干渉と捉えるべきではないこと。
これは人権を盾にすればいかなる内政干渉も通るという国家の脆弱性といえる。こんなのを認めてはならないと私は思っている。理由は単純でこの普遍的価値とやらをすべて認めてしまうと世界の全ての国が標準化され、最終的に国民国家が崩壊すると考えているからだ。
この人権というのは非常にあやふやな概念で、特に定まったものがあると思っていない。何なら自分自身の人権を無自覚のうちに侵害してる可能性すらある定義だと思っている。例えばグラビアアイドルやAV女優という職業は女性の人権侵害をしている可能性があるので、自分自身で自分自身の人権を侵害している可能性がある。例え本人が好きでやっているとしてもだ。こんな仕組みに意味があるとは私は思わない。
また基本的自由というが、人権侵害という言葉の前に日本にかつて存在した様々な自由は失われて行っている。元々欧米では表現規制が強く、ぶっちゃけ表現の自由など存在しなかった。行動の自由さえ時として制限される。例えば欧米ではヒジャブなどの着用を禁止する法律が幾つかの国にある。^1 [^3]
また欧米ではナチスに対して言及することを禁じている国も一定数存在し^4、ナチスを表現した場合、非常に強いバッシングを受けるのは有名な話だと思う。
他にも暴力や児童虐待に対して極めて強い規制が存在し、FF14でもララフェルのデザインに苦心したという話がどこかにあったと思うのだが、見つけられなかった。代わりに参考になるフォーラムを見つけた。確かララフェルについては人間に見えないようにしているという内容だったと思う。他にも水着なども欧米基準でポルノにならないように配慮しているとかなんとか…。
さて前置きが長くなったが、欧米には他にも様々な人権規制が存在する。ではそのような国は自由なのかといえば、それは不自由だと思う。
こういった人権問題を解消すると副次的にその国の文化が失われたりしたりする側面もあると考えている。人権侵害だからやめろというのは簡単だ。しかしそこで滅んだ文化が戻ってくることは、きっと恐らくない。そして、それを繰り返すうちに世界中の国が同質化してしまわないだろうか?というのが私の懸念だ。
世界中の国を欧米を同質化するのに対して、私は反対だ。人権なり基本的自由というのはその国々に解釈があっていいと思う。これを十把一絡げに統一してしまえば、国民国家の存続問題になるのではないかと危惧している。これはすべての国が同一の文化と法を持つのであれば分ける意味はもうないからだ。正直どの国家も欧米から見れば差別的で人権的に問題のあるシステムでやってきたのだ。それでいいじゃないか。欧米みたいに奴隷を残虐に扱うような持つ国を私は知らない。「黒人だから物のように扱っていい」みたいな思想があれば、それは差別防止が必要だろうが、それがなかった国にまで人権を押し付けるのはどうかと思う。
私は欧米には欧米の、中東には中東の、アフリカにはアフリカの、アジアにはアジアの、日本には日本の法制があってしかるべきだと思っている。それが例え他国からいかように非難されるものであれ変えてはならない、掛け替えのない資本だと思っている。長年続いている大抵の制度には何かしらの理由があると思っていて、それを壊すと恐らく取り返しのつかないことになるのではないだろうか。
参考までに日本の文化保護といったことを訴えるなら、イスラム諸国にある非人道的な刑罰や女性差別といわれる概念も、同様に支持しないと面目が立たないと思っている。そこを否定していればなぜ日本だけを特別扱いする必要があるのか?となるからだ。
またクレジットカード会社の存在も脅威だと考えている、例えばVISAやMasterが強い支配力を持ち、現金決済がもし滅んだとすれば、資金というものは一民間企業が牛耳ることになる。例えば日本が女性の性的消費を辞めないことに欧米がしびれを切らしたら日本国内のVISAアカウントを全て停止するといった措置も取れるということだ。そうでなくとも、日本は欧米の支配下に置かれ、欧米に従わないと何もできなくなってしまうだろう。別にこれは日本だけの話ではない。もっと深刻なのはイスラム諸国だと思っていて、イスラム法の廃止を言い渡される可能性すらある。
そうでなくとも今の欧米諸国の権力は絶大であり、中国やロシアに経済制裁を課すなどの重圧をかけてくる事がある。いずれ日本も対象になる可能性がある。そういったことが続けば欧米諸国以外は弱体化し、やっていけなくなる可能性があるのではないかと考えることもある。欧米諸国もアメリカ以外は正直怪しいが(自分らで作った人権政策で自滅してるように見えるので)…。
女性の活躍とは何か?
女性の活躍という言葉が最近人気だが、女性の活躍とは何だろうか?多分大抵の人は女性の社会進出くらいにしか考えていないと思う。
私は女性の活躍の終着点は男性の淘汰だと考えている。男性がいる限り女性は活躍できないからだ。これは身体能力は男性のほうが高いため、肉体を伴う労働では女性が不利になるからだ。つまり男性に差別する気がなくても自然に差別が起きる。パワードスーツをつければいいというのもあるとは思うが、設備費もただではないし、平等であるためにはパワードスーツが不要な男性にもつける必要がある。しかしこれでは男性側の健康を損なう可能性があると思う(男性は運動不足になる)。果たしてそれでいいのだろうか?と考えたときに男性を消し飛ばすのが最もいいやり方だ。
まず男女が完全に平等であるというのは生物学特性から無理があるので、もう少し考え直したほうがいいと思うのだが、一旦ここでその話は置いておく。
個人的には欧米ですら女性の活躍には失敗していると考えていて、今後も成功するかどうかには疑問がある。例えばGoogle, Amazon, Meta, Microsoft, Apple, ゴールドマン・サックスといった欧米の名だたる大企業のトップは男性である。海外はわからないが、日本では女性の起業を阻止する法律は私が知る限りなかったと思う。旅館の頭を女将というが、トップは基本女性だったのではないだろうか?つまり女性による経営が可能な社会だったと考えている。ではSONYやNEC, 富士通, 東芝といった企業を作ったのは女性か?といえばそれは違う。男性だ。
何故女性は大企業を作らなかったのか?というのは一つ考えてみてもいいポイントだと思う。逆に中小零細規模の企業や団体であれば日本国内では女性がトップであるケースも少なくはないと思う。例えば高知県では女性たちが集まって「とまとみそ」という製品を生産しているし、神戸市でも女性たちが北神みそという神戸市の食材を使った味噌を生産している。
個人的には歴史を辿れば男性は人をまとめて狩猟を、女性は集落を守るといったことをしていたと記憶していたので、男性のほうが物事を統率する能力に長けており、その差から来ているのではと考えているが、特に根拠はない。
女性の活躍といっても単に女性の正社員サラリーマンが増えただけで、果たしてそれが良い活躍なのだろうか?ソースは失念したが欧米では女性の社会進出に伴い幸福度や平均寿命が下降傾向で、性犯罪率が増えているという情報を見たことがある。まぁ専業主婦のほうが長生きできるのは自明なのでこれは当然だろう。これは平均寿命は自殺者がいる場合も減るためで、基本的に社会人は自殺しやすい、日本は自殺者数が多いといわれているので尚更だが、欧米でも自殺するための手段として嘱託殺人(他人に銃を向ければ殺してくれる)があると聞くので、この割合如何では大差ないのかもしれない。
私は女性の活躍は社会進出も一つの選択肢だと思うが、企業労働や政治家などになることだけが活躍でもないと思う。例えば地域の自治会や、婦人会といったようなものを取り仕切ったりするのも立派な活躍だろう。道の角にある花壇の養生や、お祭りの手配、道路の掃除、声掛け運動、クリーン作戦など、様々な活動があると思うが、これらも立派な活躍だと思う。むしろ婦人会の会長のほうが肩書のないサラリーマンより立派である可能性もある。
AIによる人類の淘汰
ここ最近やたらもてはやされているAIだが、個人的にはAIの存在に危機感を覚えている。それはAIによって人類が滅亡に追い込まれないかということだ。
GPT4を使った人がある人ならわかるだろうが、現時点でもそこそこ賢い。恐らく日当一万円くらいの人がやる仕事なら代替させることも出来なくはない程度のクオリティだろう。
そして今AIは様々な分野に取り入れられ使われているが、身近で使っている人を見ると例えばシステム開発の全工程をAIにやらせるとか、発表資料をほぼ丸ごと一本AIに作らせるといったことをしている。
学生でもAIを使って問題を解くというが、このままいくと人間はAIに指示を出す装置になってしまうのではないだろうか?というのが一つ目の懸念だ。ある程度人生をやってきた人ならわかると思うが、人間は自分でやらなかったことは次第にできなくなってゆく。いわゆる「若い時にはできたのに」というやつだ。これがより進めば義務教育などの学習過程が無意味になり、人間の存在意義そのものがAIに取って代わられる日が来ないかというのを考えることがある。
実際、少子化なども相成ってAIや各種機械を使った無人化の取り組みは昨今かなり加速してきている。そのうち自動車や電車、船舶や飛行機の操縦はAIがやってくれるかもしれない。音楽やイラスト、小説もAIが書くし、それらを鑑賞した感想もAIが書く。もしこうなれば人間は最早不要である。しかし、そうなったときAIの存在価値は何だろうか?人間がいなくなった世界で未来永劫同じことを繰り返し続けるだけの装置として動き続けるのだろうか?
この話はディストピアのような内容ではあるが、起こっても不思議はない未来の一つだと思っている。但し今のところAIは消費電力がえげつないので、どこまで普及するのかについては疑問符がある。
個人的にはAIに課題を見つけてもらい、AIにレポートさせ、AIに解決させるとかいう風なのは人間の介在価値が無に等しいので、この仕事スタイルはしないことにしている。(やっている人は既にそれなりにいると思う)
人間は無意味な作業や苦痛な作業を日々繰り返していると嫌気がさし、改善を考えたりイノベーションを起こすことがあるが、AIや自動化された設備にそんなものはないと考えているので、人は常に苦痛を味わい物事を考えていくべきだとさえ考えている。
わいせつ物の定義
昔から度々話題になって気になるネタだったのだが、最近個人的な見解ができたので書いておく。
e-gov法令検索の刑法によると以下の記述があり、これがしばしば問題になっていると考えている。
(わいせつ物頒布等)
第百七十五条 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。
まず「わいせつ物」に関しては特に定義がない認識だ。恐らくこれを定義することは人類には不可能だと考えている。誰か要件定義できる人がいたらしてほしい。冷静に考えると無理である。
一般的に「わいせつ物」は性器が露出したものが該当すると思っていて、このうち性器には修正を施すことで「わいせつ物」でなくなるとされている。では何故性器を隠すことで除外されるかについてだが、恐らく他に基準を決めようがなかったのだと思う。なので法文には書かれておらず、過去の判例から慣例的に処理されているのではないかと考えている。例え無意味であろうと基準がないと運用できないので仕方がない。
Googleなどが作ってるエロ画像判定AIの判定基準が塵ほども当てにならないことは非常に有名だと思っているので、多分この問題は永遠に付きまとうだろう。そもそもわいせつの定義が人によって大きく異なるので、この問題を正攻法で対処する事は諦めたほうがいいと思う。
なお性器に修正を施したところで販売が可能になるだけであり、それを公に見せつけたりすればわいせつ物頒布等の罪に問われる可能性はある。わいせつ物頒布等というのは非常に弾力的な運用がされていて、例えば海水浴場で水着姿でいることは問題ないが、ショッピングモールで水着姿でいる場合、この罪に問われる可能性がある。つまり適切な場所で適切な表現がされていない場合に、わいせつ物頒布等の罪に問われるわけだ。
なお、性器に修正を掛けていない状態だと販売すらできない理由についてはよくわかっていない。女性の権利保護みたいなのが関係している可能性は考えられるが、正直まともに機能していない気もしており微妙な気持ちはあるが、こういう些細な部分をなくすと風が吹けば桶屋が儲かるの原理で全く関係ない場所で重大な問題が起きることも無きにしも非ずなので、基本的にはこのままでいいのではないかと思う。
ふるさと納税の意義
このネタは面白そうなので一回腰を据えて調べたいと思っているが、一旦今回は速報版程度で書いておく。
ふるさと納税を使うと地方に足りない財源を補う事ができるとされているが、ふるさと納税では寄付額の3割が返礼品に充てられるというが、他にも通販サイトの運営費や、決済手数料、事務手続きなどの費用が発生しているはずだ。これは総務省の資料からも読み取ることができ、返礼品と経費の合計は5割を超えてはならない[^6]とされている。つまり最大で半額が控除されることになる。
またふるさと納税では寄付を行った側の自治体が赤字になる[^7]傾向があり、赤字分は地方交付税で補填されているという話もある[^8]。勿論、不交付団体は対象外だ。
さて、こうして考えると本来納められる税額のうちおよそ半分が虚空に消え去り、そこで出た赤字が国税で補填されているように見える。交付された自治体も泉佐野市のように[^9]額が多ければ利益になるだろうが、そこまで多くなければ単に事務手数料として消えるだけだろう。受け入れるのもタダではないはずだ。
そう考えたときにこの消えた税額というのが増税で打ち消されたりしてはいないだろうか?というのが私の懸念だ。もしそうであればふるさと納税など一日も早くやめ、今まで通り地方交付税交付金で解決したほうが良いと思う。バランスが悪いのであれば調整すれば済む話だ。それに不当な配分が行われている森林環境税といった無駄な税金を整理することで、もう少し増税も抑えることができると思う。例えば渋谷区には森林がないが森林環境税が交付されている[^10]。渋谷区はこれを単に積み立てているというが、これはタダの無駄である。渋谷区は八王子市にでも全額寄付したほうがいいだろう。
人間の存在価値
単純作業の繰り返しのような仕事について「こんなのは人間のする仕事ではない」という言葉をしばしば聞くことがある。では「人間がする仕事」とは何だろう?
先の女性の活躍や、AIの話と被るところもあるのだが、とどのつまり人間は何をするべきで、何のために存在しているのかというところである。AIが何でもしてくれるなら人間はいらないし、婦人会も女性差別だからいらない。東京以外の地方が都民の税金を食いつぶしていると言う話[^11]もあるので、この理屈でいえば地方の人間はいらない。
では、果たして必要な人間とは何か?
これは今流行りのSDGsにも繋がる話だと思っている。なぜ人は生きる必要があり、人や国の不平等をなくす必要があるのか?人や国の不平等をなくすというのは究極的には国民国家の破壊であると私は考えている。例えばその国の風俗とは別の国にはないもので、これは不平等であるといえる。では、もしこの目標が達成されたときに、人は一体何のために生きるのか。
個人的には各社の企業理念や、SDGsのようなスローガン、国際社会の動きや、日々の社会生活などを見ていると、人や国民国家、各地に伝わる風俗は何のためにあるのか、その歴史と伝統は本当に失ってよいものなのか?とか、そういうことを考ええるのである。