お知らせ

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昨年フレッツ光クロス、10Gbps対応に関する覚書を書いてしばらく経つが、いよいよ10GbE対応のための環境を作ろうと思ったので、その記録を残していく。

第一弾はR86S U1を買ったので、その購入録を書いていく。今回は端末の起動試験程度に留め、本格的なセットアップは次の記事で書こうと思う。

買ったもの

今回購入したのは中華性の怪しい10GbE自作ルーターマシンとして名高いR86S U1だ。もう話題になって数年経っているので旬は過ぎていると思うが、依然として10GbEルーターとして安価な選択肢としてアリだと思う。

買った後で気が付いたが、U2のほうがスペックが上で値段同じなのでU2を買ったほうがいい。

セットアップ時にあるといいもの

  • HDMI to Micro HDMI変換アダプタ
  • SDカード or USBメモリ
  • rufusやbalenaEtcherなどのイメージを焼く手段
  • MSYS2

初回起動

私が購入したものはeMMC内にOSが上手く入っていないのかgrubが表示されるだけで、マニュアル操作でも起動イメージが見当たらずmOSを起動することができなかった。

どの道プリインストールされているOSは中国語で役に立たないという話だったのでOSのセットアップを行うことにした。

OS導入

汎用PCへのインストール手順は公式情報である、[OpenWrt Wiki] OpenWrt on x86 hardware (PC / VM / server)が参考になる。

  1. リリース一覧を開き最新の安定板を辿り、x86→64に進む
  2. generic-ext4-combined-efi.img.gzをダウンロードする
  3. sha256sum openwrt-24.10.0-x86-64-generic-ext4-combined-efi.img.gzでハッシュを確認
  4. gunzip openwrt-24.10.0-x86-64-generic-ext4-combined-efi.img.gzで展開する
    • Explzhだと上手く解凍できなかったのでMSYS2からgunzipを叩いて対処した
  5. 展開して出てきたimgファイルをSDカードかUSBメモリに焼く
  6. imgファイルを焼いたメディアをR86Sに差し込む
  7. R86Sの電源を入れPOST画面が出たらDELキーでBIOSに入る
    • 通電時に勝手に電源が入るため注意
  8. 起動順序の優先順位を差し込んだメディアに変更する

開梱の儀

梱包状態。安い中華製品にしてはなかなか丁寧だ。

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箱もしっかりしている。

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横の小さな箱にはMicro HDMI -> HDMIケーブルが付属していた。これは少し親切だ。

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開梱すると本体とACアダプタが見えた。やはり梱包が丁寧だ。

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箱の底にはマニュアルと検査証、六角が入っていた。この六角は本体を開けるためのものだが、なめてしまい役に立たなかった。

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ネットワークインターフェースはSFP+が2口、2.5GbEイーサーが3口。他に電源用USB-C、USB3.0x2、USB2.0x1、SDカード、Micro HDMIといった感じだ。

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表面にはケースファンと冷却用のフィンがついている。デザインも悪くない。

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裏面と片側面にはゴム足がついており横置きにも縦置きにも対応している感じだ

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分解

付属の六角がなめてしまい役に立たなかったのでちゃんとしたのを買ってきた。対応するのは1.5mmだった。

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表のふたを開けるとNVMeSSDスロットが見える。ネジ穴的に一番長い奴しか無理だろう。

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本体をパカっと二つに。どうやらマザーボードは三枚くらいに分割されているようだった。

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あとがき

EFIイメージかBIOSイメージかは、好みで選んでいいという記事を何個か見たが、BIOSイメージだと起動しなかったため、EFIイメージのほうがいいかもしれない。

参考までに手持ちのAMD64マシンにBIOSイメージを刺したところ、そもそも認識すらしなかったためダメなのかもしれない。24.10固有の問題なのかどうかはわからないが、今時はUEFIが推奨される環境であると思われるため、EFIイメージで問題ないと思われる。

ひとまずこれで10GbE環境への一歩を踏み出せたと思う。LANが構築でき、現状の環境でWAN込みで安定稼働させられたら実際に10GbE契約もしていきたいところだ。

次回は内臓のeMMCにOSを入れていきたい。

私はここ数年、今ひとつ満たされない気持ちで過ごしている。この記事は一体これはどうやったら晴らせるのか、どこに道があるのか、それについてメイクアガールを見ていて気付いた内容として書いた内容だ。

気持ちが満たされない原因

端的に言えば所属するコミュニティを失ったことだと考えている。

何があれば満たされるのかについても時折考えていて、その一つの解はコミュニティだと考えていた。私が満たされていたときはROやECO、FF14を始めとしたネトゲにハマっていたからだ。そして多分それはネトゲそのものではなく、周囲の人たちと遊ぶのが楽しくてやっていたと思う。

私がこれらを離れた理由はプレイしていたタイトルの過疎化やサービス終了、所属していたフリーカンパニーの過疎化などで、言ってしまえば、去った理由はひとえに過疎化だった。

コミュニティだけでは足りない

コミュニティを失うだけであれば、コミュニティに入れば充足すると思うが、そう簡単な問題ではなかった。

私はネトゲをやめた後にも入れるコミュニティを探した。艦これのIRCに入ったり、TwitterやDiscord、Misskeyなど様々なコミュニティで気の合う人を探したりしたが、いずれも続かなかった。

私が当たったIRCは仲間内で雑談する内容のもので、仲間を増やして楽しく過ごそうというものだったが、艦これ仲間ということ以外に特に方向性はなかった。特に艦これの話をしているわけでもなかったので、次第に過疎化していった。

次に私はTwitterに活路を求めた。Twitterは長いことやっていて、ここでなら何かあると思ったからだ。しかし、ここでも私はまた特に何も得られなかった。

Twitterは扱う話題に特にテーマがない。言葉は悪いが有象無象の集まりだ。仮に似たような仕事や趣味の人をフォローしても、どうしても粗が見えてきてしまったり、興味が持てずにいた。

四六時中仕事や趣味の話ばかりをしているわけでもなく、飯の話や政治の話だってする。私だってそうだった。すると相手を許容できないと難しくなってきたり、飽きてきたりする。つまり昨今よく言われる見たくないものが見える現象だ。満たされないどころか心が削られてしまう。SNSに病んだ人がやたら多いのもそういうところに起因しているのだろう。

そこで私はもっと特化した趣旨を持つDiscordに道を求めたが、ある程度ジャンルが絞られていても内情はTwitterと大差なかった。或いはバチバチに縛ってある場所では話すことがなく廃村の様相になっているものもあり、難しさを感じた。Misskeyもそんな感じだ。ioはテーマレスでTwitterと変わらないし、テーマを極端に絞ったものは過疎に、そうでないと中途半端なものは、ただその属性の人が集まったTwitterみたいな状態だった。

私はいよいよわからなくなった。わからなくなったので、取り敢えず息のある小規模なコミュニティに属すために、今は兵庫丼うかどんに身を寄せているが、特に何か大きく変わったわけではない。人がいなさすぎるせいで見たくないものが見えなくなったのは進歩だったが、満たされているかどうかだと満たされていない。

自分でDiscordサーバーを建てようと考えたこともあったが、何を話すのかを定めることができなかった。おそらくそこら辺の作業用Discordと何ら変わらないものが生まれ、興味のない会話で埋め尽くされるだけだろうというのは目に見えていた。

ここで私はあることに気が付いた。欲しかったものはSNSなんかではなく、単なるコミュニティではないのではないかということだ。そこで過去なぜネトゲでは上手くいっていたかについて考えることにした。

指向性への気づき

ネトゲには指向性があった。指向性というのは同じ方向を向いているということだ。

例えばレベル上げをしたい、より上のコンテンツに向かいたい、ボスを倒したい、金銭や経験値稼ぎで記録的な効率をはじき出したい。その時、その場、その相手によって様々なものがあったと思うし、私と相手の目的が一致していなかったこともあったとは思う。ただ、その活動を共にしている時だけは同じ方向を向いていた。

活動中はともにそれに向かって夢中になり、ほかのことなど考えはしなかった。リアルのことなんて全部忘れて熱中できる環境がそこにあった。

そこで気づいたことは、私が欲しかったものは、何かに夢中になれ、建設的で、お互いに何かしら利益のあるコミュニティではないかということだ。ただ話ができるコミュニティがあればいいわけではない。

メイクアガールという作品

そんな中で、メイクアガールは私へ一つの気づきを与えてくれたと思う。明は研究を繰り返すものの、失敗作ばかり作っていた。創造に成功した0号に対しても興味が湧かなかった。明は何に対しても興味も悪意もなかった。

これは私なのだ。私は何に対しても興味がない。そう、興味を持てる事柄をすべて失ったのだ。明にとっての水溜稲葉は私にとってのネトゲだろう。しかし、もうそこには存在しない。稲葉は死んだ。ネトゲは滅んだ。

明にとっての0号は、私にとっての仮初の興味、Twitterとかだったのかもしれない。つまり失ってもよかった存在だ。しかし明はそこで、0号は家族であり、水溜稲葉で、失ってはいけないということに気づく。

では私はどうすればいいだろう?もうやるべきネトゲはない、何より恐らくネトゲで得るものはもうない。そうなったときに私がすべきことは何か?恐らく、軸を持つこと。私はコミュニティが欲しかったのではない。軸が欲しかった。軸がなければどこのコミュニティに入ったところで得られるものはない。人々は私に興味を持たないし、私も彼らに興味を持ちようがない。

私がなすべきことは失った稲葉や0号を追い求めることではなく、次に繋いでいくこと。メイクアガールで言えば、明が茜を受け入れること、茜と家族になることで、稲葉化した0号を忘れることかもしれない。稲葉化した0号は過去に束縛する呪いのようなものにも見える。きっとその先に未来はない。

恐らくこれこそが、自分が「自分」であり、「自分」が自分として、人生の筋道を見つけていくことなのではないかと感じた。虚無の中を過ごしてはいけない。深淵に向かう街道を突き進んではいけない。戻ってはならない。過去に引きずられないように、前に一歩でもいいから進んでいく。それはもしかしたら稲葉化した0号もそうなのかもしれない。彼女はファミレスで新しい自分として頑張っているように見えた。

新しい道へ踏み出していく。例えかつて明を愛した0号の存在を忘れることになろうとも。過去に縛られず、前へと進む。それが大切なことなのではないか、私はメイクアガールを通してそう思えたと思う。

では、どうするのか?

では、どうするのか?と聞かれたら、まだそれは見えていない。ただ恐らく何でもいいので何かをやっていくことが大切なのだと思う。やらない理由を探さず、何かに取り組んでいく。

そして色々な物事に触れて、前に進んでいく。それが出来さえすれば自然と周りに人もできて、楽しく過ごせるようになるのかもしれない。

これは恐らく、このブログも同じで、むやみやたらに何でも書くよりは、もう少し絞ったほうがいいのだと思う。

きっとそうしていけば、日々の鬱憤や空虚感も徐々になくなるのかもしれない。もし取り戻せるのであれば、私は取り戻したい、あの輝いていた日々を。

いや、きっと取り戻せなくとも、少なからず、今より良くはなるだろう。そう考えて、前へ進んでいきたい。

投稿日:
文芸::ラノベ作品::メイクアガール

今月の頭にメイクアガールのノベライズを読了したものの、あまりの感情の波で感想を書けていなかったので、何とか心に整理をつけ、もう一度読み返しつつ書くことにした。あまりにも感情が揺さぶられるのでなかなか大変だった。

ある程度整理して書いたつもりだが、ぶっちゃけ全然まとまってない。これでも書きたい感情という名のノイズをだいぶ削って整理したのだが、ちょっと無理がありすぎる。安田現象と池田明季哉という人物はきっと人の脳を破壊する悪魔か何かだと思う(誉め言葉)

第3章

彼氏と彼女のあいだの問題は、本人たちが解決するしかない

これは邦人と邦人の彼女の関係性にもつれが起き、その原因である0号が自分を思い詰めていた時、0号をたしなめるのに茜が使った言葉だ。

0号は最終的に明をめった刺しにすることを決意するわけだが、その一端としてこの発言が影響したのではないかと考えている。「本人たちが解決するしかない」ならば、明をどうにかするには0号自身がどうにかするしかないというわけだ。

絵里にハンバーグプレートを届け、明に肩を叩かれる場面

この時、0号は明に肩を叩かれ、あまりの嬉しさに心臓が跳ねて飛び出そうになる。明からオーダーを言われ、返事をする必要があるのに心臓が体の中で跳ねまわっていて、言葉が出てくる前にぶつかってぺしゃんこになってしまうほどだ。この時、0号は舞い上がり、私を見て。私を認めて。私を愛して。私は明さんの彼女になります。そのためだったら何でもしたい。そう「なんでも」と心に誓う。

このときの0号は愛おしく愛らしく可愛く健気で大変かわいい。反面、なんでもするという言葉が引っかかった。非情に意志が強く見え、ひょっとしたらこれは稲葉の束縛を解くことさえできるのではないかと思ったほどだ。

そう考えると、このときの原動力が最後の場面で明へ向ける殺意につながったのかもしれない。

第4章

0号だけがどんどん成長していくことに気づく明

この時に明は、0号が自分自身にとって、マイナスに作用しているのではないか、という仮説を抱く。個人的にはそれ以前に邦人が彼女が出来たらパワーアップするという何の根拠もない話を疑ってほしかった。

まず0号はこの時まだ生まれたばかりで、そう考えた場合、成長は初期は高く、後期ほど鈍化するため、0号の成長が著しいのに対し、相応の年数生きてきた明に同じだけの成長が見られないことは妥当であろう。

基本的に明の仮説の立て方は論理的にみると間違っているところが多々あり、様々な論理破綻を起こしているように思う。それゆえに稲葉が残した情報資産を読み解き、それを頼りにしたものしか作れないのだろう。そう考えると彼が自分の意志で作ったものはほとんどなく、カップ麺製造マシーンも稲葉の発案ではなかろうか?

あれを作れるだけの論理的思考が仮にあるとすれば、こんな発想に至ることもないだろう。

第5章

……なんで人は、人を好きになっちゃうんだろうね…

これは邦人が0号に八つ当たりした後に茜から出る言葉だ。恐らく邦人の態度と、0号の様子、そして自らが明に抱く気持ちからきているのだと思う。

個人的に茜が一番かわいく見える場面の一つはここだと思う。

明さんは多分、ちょっと困っています。なのに私は。もっと困らせたい、と思いました。

これは0号が明をデートに連れ出し、服を選ばせているときの0号の気持ちだ。

明がうまく服を選べず困惑しているところを、0号は楽しんでいる。これは0号が見せる数少ない無邪気さで、とても微笑ましい。

そしてこの後、0号は好意の正体に気が付き、最早明のパワーアップより自らが明を好きな気持ちを優先するようになる。ここは気持ちのすれ違いポイントの一つだと思うが、そもそも明がまともに0号の相手をしていなかったのが悪いので、0号は悪くないだろう。むしろ「普通の女の子」を目指した結果としては正しかったのかもしれない。

ここで0号が触れた、明のことが好きという、好きってこれでいいんだという「世界の真実」は決して壊れてほしくない。私はそう思った。これだけは絶対に壊してはいけないものだった。そんな資格は水溜明にも、水溜稲葉にもない。なぜなら、私も0号同様に、それが「世界の真実」だと思ったからだ。

第6章

0号といるあいだ、僕は研究者ではなく、「普通の男の子」だった。

「むしろ0号と時間を過ごすのは楽しかった。満ち足りていた。でも、そうあってはいけないのだ。僕は研究者だから。僕が満ち足りるのは研究がうまくいったときだけであるべきだ。」と明は回想しているが、ひょっとするとこの強い否定は稲葉の意思が干渉しているのだろうか?と少し思ったりした。

彼女なんていても意味がない

ここは邦人から苛烈な言葉を受け、明が0号との決別を決める場面だ。

明は「彼女なんていても意味がない。じゃあ僕はずっと意味のないことに振り回されていたのか。」などととんでもないことを思い始める。

いや待ってほしい、ちょっと前まで「0号と時間を過ごすのは楽しかった。満ち足りていた。」とか思っていたではないか?その気持ちはどこへ行ったんだ?と言いたくなる、悲しい場面だ。

更にこの後、明は0号を生み出した自分自身に対し疑問を投げかけ、最終的に失敗作である0号がいなくなることは清々しいとまで言い切ってしまう。あまりにもむごい。むごすぎる。

しかしこの部分は映画館で二回目を見たときに書いた、アキラが0号を完全に処分しない不思議と辻褄が合う。恐らく明は0号を処分したかったのかもしれない。しかし人としての最後の情がそこまではしなかったのだろう。明にも第三人類とはいえ、人を殺めてはいけないという程度の良心はあったのだ、たぶん。

第7章

0号が明に連れられてマンションに行く場面

0号は明に誘われてデートに誘われたと思い込み、今まで誘ってばかりだったのに、やっと明のほうから誘ってもらえた。振り向いてくれて嬉しかったと舞い上がるのだが、その思いもつかの間、物語は地獄へと急展開を迎える。そう、離別宣告だ。

ここでは映画では表現されていない0号の壮絶な告白と、感情の爆発がある。0号はここで初めて明に対して明示的に「あなたのことが好きなんです!」という。明と0号は元々恋仲という関係から始まっていたため、ここだけは普通ではなかったのだ。

0号は本当は言いたくなかった。普通の女の子と、普通の男の子の関係であれば一番最初に出ていたはずの言葉が、この期に及んで出てくることが嫌だった。普通ではないことを認めたくなかった。

ここからあとは映画と同じだ。別れたくないという0号が明にしがみつき、明が生体制御を発動する。その合間にも0号の中には様々な葛藤が巡る。あまりにも非情で見ていられない。ここはそんな場面だと感じた。

第8章

あらゆる研究は必要から生まれる

これは研究というものは何かしらの必要性があって生まれるという明の持説である。そして、明は研究のために生を受けたので研究することがすべてだと言っている。

つまり明の研究には目的がないといえる。恐らく明の研究が軒並み失敗に終わるのはここが関係しているのではないかと私は考えている。何故なら研究することが目的なら、そこにゴールはないからだ。賽の河原で石を積んでは崩されを繰り返しているのと何も変わりやしない。むしろ死ぬまで研究しつづけるのなら失敗していたほうが都合が良いまであるだろう。

恐らくこれは稲葉が明を創造するときにインプットを誤ったか、そもそも明が「試作品」だったので、こうなったのではないかと考えている。

何かを犠牲にしたところで、何かが得られるとは限らない

これはおじさんが発する内容の一つで、家族を顧みず研究をしたところで、何も得られはしなかったし、家族を失ってしまったという自戒だろう。

そしてそれは明も同じなのだ。0号を捨て研究をしたところで明に得られるものはなく、0号をただ失うだけ。

家族がいたら楽しいと思って。だからこの子

「『家族』がいたら楽しいと思って。だから『この子』」「そろそろ迎えに行ってあげて」「生きなさい。『あの子』と一緒に」とは二回目の回想の場面で稲葉が明に対し告げるセリフだ。

ここだけを切り取って考えると「あの子」は稲葉自身だとは思えない。恐らく0号が尊重されているのではないだろうか?

この時点で稲葉は0号と明が共に生きてほしいと思っていたのかもしれない。まさか0号を乗っ取るだなんて、想像もできないような言い回しだと感じた。

第9章

明さんにとって邪魔な私

0号は明と別れた後、その原因が自分にあると思い自問自答を始める。

明は研究が第一で、デートに誘う自分自身が邪魔なこと。それを知りつつも明と一緒に過ごしたかったこと。それゆえに自分が明に捨てられたこと。

自分自身が普通の女の子だから。明に普通の男の子であってほしいと願ったから。本来明を普通じゃなくするために生まれてきた存在のはずが、そうなっていないということを思い詰めていた。

そして0号は自分自身の存在意義を考え始める。明に必要とされていない自分は何のためにあるのか、何のために生まれてきたのか、これからどうして生きていけばいいのか。

至極当然の考えではあるものの、普通の女の子になってほしいと願ったのは他でもない明である。明にその自覚がないとしても。個人的には0号をここまで追い詰めた明は人として最悪だと思う。人でなしとは、まさにこういう人間のことをいうのだろう。

第10章

ソルトから電撃を受け、夢から目覚める明

稲葉の介入を受けた明は全てを理解できるようになる。自らが稲葉の干渉を受けたことさえもだ。

そして、すべての失敗作が成功作に姿を変える。もしかしたら失敗作扱いだった0号が、後に家族になるのはこの筋道に沿っているのかもしれない。

自分を0号の母親だと思い込む明

何もかもが支離滅裂だが、明は0号の生みの親が自分であるから、自分は母親であり、母親であるからして0号が慕うようになるのは当然だという考えを抱くようになる。あまりにもひどい妄想で、ここまでくると、もう手遅れだと思った。

そして母親と別れなくてはならない恐怖、期待に答えられない不安、それを誰よりも知っているのは自分だ。だから0号に謝らないといけない。共に生きていく家族になりたいと思い始める。

ここが最大のすれ違いであることに未だに明は気が付かない。それは明の本意であり、0号の本意ではないということに。

この時点で明と0号が向いている方向はまるで正反対で、どちらにも救いはないのだが、個人的には諸悪の根源でかつ、0号をあそこまで捻じ曲げた明には同情の余地がなく、0号にこそ幸せになってほしいと思っている。これはメイクアガールの映画・ノベライズの媒体を問わず、一貫して持っている私の信条だ。

第11章

心の機微を読み取れるようになった0号

茜が不機嫌なふりをして、邦人がそれを茶化すことを理解し、キッチンもホールもできるようになっていた。0号はそれほどまでに成長した。0号は人間として間違いなく圧倒的な成長をしていた。完全に「普通の女の子」だった。いや、普通以上だろう。何せ茜がベースなのだ。平均より努力している。

恐らく茜から明への想いも理解していたのではないだろうか。理解していたとしても一切その発露がない当たり、気にしてはいなかったとは思う。明は0号のものなのだから当然だ。

絵里に拉致される0号

0号は絵里に拉致され、自分を見つけた自分と、そこにたどり着けない自分について葛藤していた。

0号は明から放逐された後、いろいろと考え、もう自分は明に縛られていないことに気が付く。

一人の人間として自分のことは決めていい、着る服も、観る映画も、そして愛する人も。全て自分に決定権があることに気づくことができるまでに成長していた。自分は自分のために人生を歩んでいいのだと。この考えは完全に明の設計の範疇から離脱していた。

しかし同時に、茜と違って自分は普通の女の子ではないところから、普通の女の子になったことに葛藤を抱いていた。第三人類だから、人間ではないから。そもそものスタートから違うから。

それ故に0号は0号という枠から脱せずにいた。そしてやはり0号は明のことが好きで、これ何をどうしても引きはがせない思いだとも感じていた。

0号はただ普通の女の子になりたかった。そんなささやかな思いさえ叶えられない自分に苛立っていた。

自分が自分であること、自分が自分でないこと、明のことが好きなこと、拉致されているこの状況から明に助けてほしいこと、0号の思いは酷く交錯していた。

そして眼前に明が現れ、拉致犯を止めたとき、私がずっと出会いたかった人に会えたと0号は思う。やはり0号は明が好きなのだ。

仮にそれが設計された感情であろうと、明のことが好きなのだ。ただただ一途に明が、明でないとだめなのだ。

私を作ってくれた明さん、それは唯一無二の明さんで、0号にとっては外の何物にも代えがたい、かけがえのない存在だった。

第13章

明が0号の拘束を解き開放する場面

明と0号の想いはすれ違い続け、この時点ではもはや修復不可能な次元に達していた。明の言葉はことごとく0号に届かず、虚空に消えた。

0号は「普通の女の子」になろうと努力し、茜や邦人との関係の中で「普通の女の子」になった。「明さんのことが大好きな、普通の女の子」に。しかし明は「作り物」としか見てくれない。

明にとっての0号はパワーアップアイテムでしかない。0号はその境地に至り、明のすべてを諦めてしまう。

一方で明は0号と家族になりたいと思い込んでいて、0号もそうだと考えている。未来永劫平行線だ。

結局、0号を否定することしかできない明はめった刺しにされてしまう。

生体制御が限界まで発動し、薄れゆく中でも最期まで明への愛を持ち続ける0号の姿は、皮肉にも0号が真に「人間」になったことを示している。0号は稲葉の生体制御さえもはねのけ、明よりもよっぽど人間になったのだ。しかし0号は息絶えてしまう。仮に天国に行ったとしても明がいなければ地獄であるという想い。なににも代えられない、明への感情を残したまま。

ああ、なぜ明は分かってあげられなかったのか。どうして0号はこうまでなる必要があったのか。私はただただひたすらに悲しかった。どうにかなってほしかった。こんなのあっていい結末ではない。

映画のほうの感想でも散々言っているが、これこそがメイクアガールだと思う。これでこそメイクアガール。この醜さと、そしてそれにより映し出される美しさこそがメイクアガールなのだ。

第14章

0号の本当の想いに気づく明

滅多刺しにされ、意識が途絶えた0号を介抱する中で明は0号の抱いていた、証明しようとしていた、本当の想いに気づく。そしてそれを否定してしまった自分自身のことも。切りつけられたのは当然と納得する。なんとも淡泊な人間である。だから何に対しても悪意がないが、興味もないと評されるのだ。

そして明は最初から彼女は求めていなかったことに気がつく。最悪だ。0号は永遠に報われない。こんな結末があっていいわけない。

後悔はたくさんあるけど0号が目覚めたら君は家族なんだって気持ちを伝えたいとまで言う。そう、明はまだ0号の気持ちを認めない、この期に及んでもなお自分の身勝手を押し付けるのだ。

エピローグ

不老不死を目指した水溜稲葉

水溜稲葉の不老不死への執着が生んだのが水溜明という第三人類の試験体だった。当初は稲葉のクローンとして設計されたが、稲葉は次第に実の子として愛情を注ぎはじめた。

しかし稲葉には残された時間が少なかった。そこで意識転写のついでに明に次世代の自分を作らせようとデータを残した。

そして生まれたのが0号だ。しかし稲葉の計画は失敗し、明は0号を恋人として設計してしまった。稲葉にとってはこれは想定外の出来事だった。

稲葉はあらゆる手を使って意識の書き換えを狙うが、すべて不毛に終わった。しかし、稲葉にとっては幸運なことに0号の意識が失われるイベントが発生した。そう、明を滅多刺しにした後でのことだ。

この隙を狙い、稲葉はソルトを用いて0号の意識を自分の意識で上書きする活動をはじめ、復活を遂げる。あまりにも最悪なシナリオだ。しかも稲葉は0号を消し去ったうえで、永久に生きたいと言う。

明という一人の家族と一緒に消滅と再生と、別離と再会を未来永劫繰り返してさえも、一生生きていたいという。あまりにも残酷で、最悪な結末だ。

恐らく映画とノベライズではシナリオに細かい差異はあるものの、大筋は同じなのだろう。しかし、私にはノベライズ側は受け入れがたい、辛いシナリオだった。これでは0号が報われない。余りにも非情で残酷だ。恐ろしいまでに救いがどこにもない…一切何ら救いがない。ここまで救いがない物語は初めて見たかもしれない。それくらいに非情だった。

頼むから0号を返してほしい…明は0号を自死に追いやった殺人犯のようなもの。そして明は0号を失い、そこに稲葉を求めるのだろう。しかし私は0号が好きだった。0号を返してほしい。

総括

全体を通して思ったのは、自分とは何かを追い求め、自分を見つけ、自分が「自分」であり、「自分」が自分として、人生の筋道を見つけていくことだ。

0号は生まれ持った命題をこなすうちに、新たな自分を見つけ、そして「自分は自分の人生を生きていい」ことに気づき、生まれた命題を塗り替えるにまで至る。これは大変すさまじいことだと思う。並大抵の努力ではなし得ない、全ては明への愛から生まれるものだ。明が好き、明から自立したい、普通の女の子なりたい、それでもやっぱり明が好き。そういった思いを源泉として成り立ってきた歴史から生まれたものだと思う。

同時に0号は頭では理解していても、感情が追い付かない場面にも遭遇する。自分が明に捨てられたことを理解しつつも、明のことを嫌いになれない。世界で一番大好きな明さんを忘れることは0号にはできなかった。この感情こそが0号を愛らしい存在へ消化させるための要素といえるだろう。

そして映画版のほうでもう何度書いたか分からない感想だが、0号が明を滅多刺しにする場面や、0号が消えてなくなってしまう場面では余りにも悲痛な描写がされるが、これこそがメイクアガールをメイクアガールたらしめている部分だと感じる。0号が追い求めた本当の愛からくる尊さ、そしてどこにも救いのない物語。まさに美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい物語だと感じる。

またノベライズの肝だと思うが、一番最後のエピローグで出てくる水溜稲葉という人物の地獄のような思想はなんとも許しがたい。こんなストーリーはあっちゃいけないんだというレベルの残忍さを覚える。私は0号に戻ってきてほしい。0号と明は「普通の女の子」と「普通の男の子」として生涯を幸せに過ごしてほしい。不老不死になる必要もない。年老いてちゃんと鬼籍に入ってほしい。復活しなくていい。

脇道:作品を読んでいて感じたこと

自分とは何かを追い求め、自分を見つけ、自分が「自分」であり、「自分」が自分として、人生の筋道を見つけていくことは決してだれにも邪魔されず、もし自分が作られた存在、その意義が他者にあろうと、自分は自分の人生を生きていく。つまり、生きがいを見つけ、そうやって生きいくと、自分の人生を歩めるかもしれない、私はこの作品を通じてそう言う想いを抱いた。

個人的には自分としての生き方を問い直す契機となる作品だったように思う。自分が何であるか、それを問い直す良いきっかけになった。別に「何者かになりたい若者」みたいな話ではなく、自分という芯は必要だなということだ。

私は優柔不断な部分が多くあり、普段は何でも屋みたいなオールラウンダー的な生き方をしているが、MMORPGを辞めて以来、何か一つに集中できたことがあまりない。そんな中で明だけを見つめて生きる0号には一種の羨望を抱いた。ただ、羨望していても仕方がない。私も何かを定めて、何かを為さねばこの先はない。それは主に社会人としてのキャリアもだし、人生もそうだなと思ったのだ。

別に生きるのに目標や目的はいらないと思う。義務感で生きるのはしんどいしね。でも、それはそれとしてだらだら時間を浪費しているのもったいないとも感じる。資本主義の荒波に流されているだけでいいのか?自分自身を持ったほうがより充実しないか?というのは前々から考えていた。この作品を通じて、その考えをより固めることができた。

AI(LLM)の台頭する社会であるからこそ、自分が自分であることを持つことには意義があると思う。何故ならLLMに頼っていては最終的にはLLMのモデルの数程度に考えが収束してしまうからだ。LLMは言葉尻を変えた回答や噓をつくことはするが、基本的に本質的に同じことしか話さない。

人に嫌われようとどうなろうと、人間には独自性が必要だと思う。つまり、自主性だ。己の思ったことを、己の思ったとおりにする。それこそが人間を人間たらしめる行為だろう。

メイクアガールを観てきた 五回目の続き。

去る3/23、今回は山口は宇部に飛び、シネマスクエア7でのセカンドランを鑑賞してきた。メインは感想なので手前に持ってきているが、後半に簡単な旅行記も書いている。

感想

いったい何遍書いてんねんという感じだが、流石に鑑賞ごとの感想はこれでラストにしたいと思っている。

今回も特に前回までの内容を深ぼったりはせず、見たままの感想を書いていく。これまでより0号と明以外にも焦点を当て、0号と明にはより焦点を当てて書いてゆく。

前回同様に感想はノベライズの影響を少なからず受けているため、そちらに引っ張られたようなことも書いている。

「いきなさい、いきなさい。いきるの。私と。」

ここは行きなさいなのか、生きなさいなのか、逝きなさいなのか、見方で解釈が変わるなと常々感じている。これはここに限らず、「いきなさい」が出てくる全ての場面でそう思う。

「生きなさい」と解釈する場合「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」というのは明が稲葉と共に生きて欲しいという、稲葉からの想いなのかもしれない。

つまり第三人類として稲葉を作り、一緒に生きて欲しいということだ。口調が命令形に見えるのは、恐らく明が稲葉に作られた第三人類で、稲葉の意思を無視できない設計になっているところがあるのだろう。

ただ恐らく明は0号同様に生体制御を振り切れる状態になっているか、造られて以来、長い時間が経ちすぎて、稲葉の意思が薄れていて、あまり効力がなかったりしそうだ。

そういうのは経験しないと知恵として昇華されない

「そういうのは経験しないと知恵として昇華されない」は邦人のセリフだが、これは昨今LLM界隈で少し話題になっている記号接地問題に通ずるものがあるなと思った。

記号接地問題というのは、その言葉(記号)を現実の意味として紐づけられるかという問題のことらしい。

モップ掛け

明にモップ掛けはもうしなくていいと言われた後にも、言いつけを守らず果敢に挑戦する0号の姿には、邦人に言いつけられた「自主性」が見事に表れていたと思う。

何よりここでソルトに対して、「あっち行け。しっし。」みたいに振舞うところは何ともかわいらしい。ここは、前後の神社の階段を上るとこと合わせて、この作品で最も好きなシーンの一つだ。

初のホールで明に頭をポンポンされる0号

ノベライズでは心臓が跳ねて、ぺしゃんこになるほど緊張しているみたいな描写があったが、映画では明確に嫉妬したような表情になっており、ちょっと表現が異なると思った。

ここ以外にも幾つか異なる場面が見られるため、恐らくノベライズは完全に同一シナリオとしてみるよりは平行世界のシナリオとして解釈したほうがいいかもしれないと思った。ただお互いに何かしら重力のようなもので引きあう関係にはあると思うので、解釈が難しいところだとは思う。

個人的には映画は映画として、ノベライズはノベライズとして解釈するのを推したい。といっても一度ノベライズを読むと脳裏にノベライズの内容が刻み込まれるので難しいが…w

買い物に誘う場面

0号が明が買い物に誘いデートする場面で明が行くのを断ると0号はムスッとした顔になるのだが、ここはやはりかわいいなと思った。いや、0号は常にかわいいのだが。

離別のために離れたマンションに連れていかれた場面

「どうしてあなたは私から離れようとするんです?」
「あなたは私を恋人として作ったんじゃなかったんですか?」
「これはあなたにとっても計算外のことなのではないですか?」
といった0号から明への感情の発露はとても切なく、それだけに心に刺さる場面だ。

また明が「いつからだ。いつから君は。僕の前を歩くようになったんだ。」と回想する場面もノベライズにない部分だ。これは恐らくノベライズでは明視点のシーンを除き、基本的に0号視点になっているのためだと思われるが、こういった箇所からも原作完全再現ではなく執筆を行った池田明季哉氏の解釈が入っていることが垣間見える。

そんなこと。僕にかまうのはやめろ!

このセリフは0号がまとわりついてくるのを邪険にした明のセリフだが、この発言で0号の生体制御を発動させることができるのであれば、終盤0号に滅多刺しにされている場面ではこの動きがなかった。要するにあの時は能動的に発動していなかったのではないだろうか?

この後に出てくる「母さんの開発は主の意思に逆らえないようにできている。」というセリフと共に回想シーンに入り、ラボでおじさんが落ちた片腕を呆然と眺めている場面があったと思うが、これはおそらく明が稲葉に何かしら抵抗し、その時に明の片腕が生体制御によって破壊された記憶なのかもしれないと思った。

これまでの鑑賞から明が稲葉によって作られた人造人間であることは明らかであり、このことはノベライズでは明示されている。

つまるところ、恐らく明は知っているのだ。生体制御の苦しさを。知っているからこそ、それがどれほど辛く苦しいか、死ぬほどなのかを理解しているのではないかと感じた。

稲葉との二回目の回想

回想の中で明と稲葉がやり取りする場面だ。個人的にここは水溜稲葉の意思が明と邂逅するシーンだと考えている。

「記録じゃこんな話はできないでしょ。」
「研究はこの子に託した。この子が私になってくれる。明くんが大きくなった姿も見てみたかった。」
「困難に当たるとき、そういう時、家族がいたら楽しいかなって。」
と稲葉が言っているのを察するに、恐らく稲葉の意識は生前で止まっており、ラボのサーバー群の中に封じ込められているのだと考えている。

なので、生前の状態では対話できる。しかし、明の現在の姿を見たりすることはできない、或いはそれを記憶することができないのかもしれない。これはソルトを遠隔操作して接触できたとしてもかなわないことなのだろう。

この後、明が稲葉に対し「またこうしてお話しできますか?」と聞くと稲葉は「生きなさい。あの子と一緒に。」と返す。冒頭の「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」の流れから考えると「あの子」は0号なのか、稲葉なのか気になるところで、稲葉はどちらの意味で言っていたのだろうか?

ノベライズ基準だと恐らく稲葉だと思う。映画基準では稲葉が「仲直りしたら?」と発することから、それは0号なのかもしれない。かもしれないというか、そうあってほしいという私の願望だ。だって0号が稲葉にとって代われるなんて、そんなの嫌じゃないか…。

ラボで茜と邦人が明を起こしていた時

邦人が「大丈夫だって、あの二人はそういうんじゃないんだよ」と茜に告げているときがあるが、もしかして邦人は茜の明への想いを分かったうえで、茶化していたのだろうか?と思った。だとしたらいつからなのだろうか?物語が始まるより前からなのか、その途中なのか。或いは、この茶化していた時に感づいたのか、それはわからないが、以外と邦人もわかってるやつなんだなと思ったし、ここからの流れは微笑ましいなとも。

邦人は恐らく純粋な悪友キャラとして設計されていて、それが最もいかんなく発揮されているのが、この場面だなと感じた。

茶ソルトからの支援

明が0号を探しに行き、そこから茶ソルトが支援に回る時の場面で、茶ソルトの目はずっと黄色に光っていた。黄色に目が光るときは主人への犯行が表れている時だと私は解釈しているが、だとするとこの時は何かしらの命令に反していた状態だったのだろうか?

少なくとも最後に壊れたのが、もしそれが理由だとしたら、これは何故なのだろうかと思った。

個人的にあのソルトには稲葉の意思が宿っていると考えているが、もし稲葉の意思のクローンみたいなもので、稲葉の意思に反抗して動作しているとすれば納得できるかもしれない。或いは市中のシステムをオーバーライドするのが主従を無視した状態ともとらえられるかもしれない。

なんにせよ考察し甲斐のあるポイントだと感じた。

明と絵里の対峙

「親譲りの才能、恵まれた環境、きらびやかな成果物、私も頑張ってきた」と明に当てつける場面があるが、ぶっちゃけ絵里は明の作ったものを改造する程度のことしかできていなかったので、研究者としてみるとどうなのか?と思ってしまうところはあった。

最後の最後までソルトの改造しかできていなかったのだ。ある程度自律的に動く人型ロボットは今の世でもBellaBotの様なものはあるわけで、ソルトの機体を真似して殺戮マシーンくらい作れただろうし、あそこまで作れたのに自身は特に凶器を持っていなかったのも不思議だ。

まぁ、ここはストーリー上の整合を合わせるためなのだろうから、深く気にしないほうがよさそうだ。

0号の反撃と、たじたじになる明

前述したとおり、ここでは明は以前のように明確な停止命令を出さなかったと思っている。

また過去何回も書いた部分でもあるが、やはりここは0号から明への気持ちと、明から0号への気持ちの交錯が、なんとも切ない。平行線を辿り、交わらない想い。分かり合えない二人、ボーイミーツガールの神髄の様なものが、ここには詰まっていると思う。

「私は謝ってほしいんじゃない、認めてほしいんです。」
「やめてほしいですか?」
「当たり前だろ。」
「いやです。」
「やめてくれ、生体制御が痛めつけるのをよく知っているだろう。」
「はい、明さん。とっても痛いです。」
「なんで明さんは信じてくれないの。こんなに頭が明さんだらけなのに。」
「それならできるのは抗い続けることだけです。」

0号だって、明が認めてくれないこと、彼女として、恋人として見てくれないことをやめてほしかったに違いない。しかし明はこの時点で0号のことを家族だと思っていた。まだ妻なら救いもあったものが、家族とはいったい何だろう?流れ的に母親だろうか?

どの道、この時点での明に救いはなかった。殺されていてさえよかったとも思えるほどに0号に対しての興味や関心がなく、何の悪意もない。それこそが0号が厭がる明の姿だった。0号は明に代わってほしかった。でも0号は人は簡単には変われないことを、明を嫌いになれず、好きなままで、またあの時に戻りたいと願う、自らの経験からも熟知していた。

明の目が黄色くなる瞬間

「私は、私の想いが本当だって信じてほしいんです。」「だから明さん、私はあなたに逆らえます。」

ここで明の目が黄色になる。もしかしたらこの時、明は0号に対して何かしら攻撃の意図を持っていたのかもしれない。そう、明が0号を認めない、否定し続けることへの何かしらの生態制御。或いは稲葉からの何かだったのかもしれないが、この場面についても考える余地はありそうだなと思った。

ちゃんと証明しますから。人の想いは制御できないって。

一体これほど悲しい場面がほかのどこにあるだろうか?明は0号が死ぬことさえ予期できていたはずなのに、それでもなお、0号を認めなかった。どうして、何が彼をここまでさせるのか、とにかくひたすらに悲しく、私は0号にだけは幸せになってほしかった。

そして稲葉からの「明くん、生きなさい。生きなさい。一緒に。」というメッセージもよくわからない。メタ的だとは思う。これは0号により強い生態制御をかけるためのおまじないみたいなものだったのかもしれない。明の中にも眠る稲葉の意思の様なものがそうさせたのか、或いは横にいたはずのソルトからの干渉なのかまではわからない。

倒れる0号と、介抱する明

ここは本作で最も美しい場面といっても過言ではないだろう。

「明さんの勝ちです。私の想いはニセモノ…。」
「そんなことない、君は僕なんかよりずっと―――」

果たして明はここでなんと続けたのか。もしかしたら「人間」と言いたかったのかもしれない。つまり、ここで明は自分自身も第三人類であることに気づいたのかもしれない。それまで明は自分自身を人間だと錯覚しているように見えたので、このタイミングで、そういう風に自分を見返していても不思議はないなと。

明は明らかに人間として欠落した要素がある。半面、0号は人としては普通で、何ら問題ない境地に達していた。それゆえに、自分が第三人類であると自覚したうえで、「人間」とはなったのであれば不思議もないだろう。

ここから先は感想というより、観た人がそれぞれ解釈し、次に繋げていく、要するに二次創作の領域なのかもしれないと思ったりした。

おかえりなさい「明くん」

0号は意識を取り戻さないが、身体的には生存している状態、いわゆる植物状態になっていた。

そんなある日、0号が部屋から消え、明は0号を叱ってやろうとなど考えながらも急いでラボへと向かう。すると、そこにいたのは0号の姿をしているが、どこか違和感のある0号だった。

明に気づいた0号が『おかえりなさい「明くん」』という謎めいたセリフを残し、ここで物語は終わる。

どう考えてもこれは稲葉だ。これは恐らく明にとっては望んだ結末だった。しかし0号はどうだろうか?

もうここに0号はいないのだろう。稲葉の意志だけがある。

「生きなさい、生きなさい。生きるの。私と。」の通りになってしまった。明は0号にめった刺しにされながらも「生き続けた」、つまりここが「生きなさい、生きなさい。」なのだと思う。

そして稲葉はここに蘇り、「生きるの。私と。」に続くのではないだろうか?

いったい0号はどこへ消えたのだろうか?稲葉に屠られたとでもいうのだろうか?

非常に悲しい結末で、胸が苦しくなる。胸が痛い。とっても痛い。

ボーイミーツガールといえば男女が出会い、色々あってデートをしたり、また別れたりして、最後はくっついたり、或いは何か明るい未来に向かっていくのが王道だが、メイクアガールはその道をかき消した作品だと思う。もうそこに0号はいないのだ。

変わってしまった0号

エンディングを見ると0号だった人物は、その後もファミレスでバイトをし、0号ではなくなったため、様々な失態を犯しているように見える。しかしこの時はまだ、誰も0号が0号でなくなったことには気づいていなさそうだ。

明でさえも普段通り暮らしているように見える。まぁ明は興味関心に乏しく鈍感そうなので仕方がないかもしれない。

こういった場面を見ていると0号の意識が少しは残っているのだろうか?とかも思うのだが、稲葉が0号の記憶を読み解き行動しているだけかもしれない。

少なくともこの0号らしき人物は、その素性を周りに対して明らかにしていないことは明白なので、稲葉なのか、0号なのかははっきりしない。

しかし最後に稲葉の姿が被る場面があり、稲葉と同様の行動をとっているあたり、きっと、もう完全に稲葉なのだろう。0号の記憶が混濁していたり、意思が少しでも残っているといいのだが、なんにせよ、もうきっと0号はいないのだ。

余りにも悲しい。非情な物語だ。しかし、この不条理こそがメイクアガールをメイクアガールたらしめる要素なのだと思う。終わり方としてはさっぱりしている。

全体を通しての感想

明は元々恋人を求めておらず、しかし恋人を作ってしまった。これはいわゆる「ドリルを買いに来た人が求めているのは、ドリルではなく穴である」や「顧客が本当に必要だったもの」案件だろう。自分が本当に欲しいものは中々見えず、手段と目的が逆行するのは世の常だ。

このストーリーは明の壮大な勘違いから生まれた0号が、その成長の過程で明の本心を気付かせるものなのかもしれない。

そうして明は家族が欲しいことに気が付き、0号は水溜稲葉となる。そう考えればハッピーエンドだ。そう考えることができるのならば。

私には無理だ。あれだけ明を慕っていた0号がいなくなってしまう。明を殺したいほど愛していて、明がいないと生きていけないほどだった0号が、そこまでの愛を抱いた0号が消えてしまう。それは切なく、儚く、最悪で、そして0号となった稲葉に対しては最悪という感情しか湧いてこない。

なんてことだ…。こんなことはあってはならない。0号を返してくれ!とさえ思う。ただ0号が帰ってきたところで明は0号を恋人として認めないので報われることはないのだろう。そう考えるとこの形での決着は望ましいものとなる。

しかし、それでも私は0号に帰ってきてほしい。帰ってきてもらってもどうにもならないのもわかる。しかし明に改心してもらって0号と余生を過ごしてほしい。そう思うのだ。

そして、そうならないこと、このジレンマこそがメイクアガールの本質だと思う。だからこそいい。素晴らしい。こういった酷さがあるがゆえにメイクアガールは美しい。

メイクアガールを観てきた 五回目にも書いたことだが、だからこそ「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい。」作品だと思うのだ。

きっと脳を灼かれたり、感情がぐちゃぐちゃになる作品というのは、こういう要素が一定あるのだと思う。

わざわざ宇部まで見に来てよかった。間違いなく、そう思わせてくれる作品だった。4月11日から塚口サンサン劇場でも上映が始まるが、そちらも是非見に行きたい。ブルーレイが出たらそれも買いたい。

余りにも感想を書きすぎているので、恐らく次回はもう書かないと思う。純粋な気持ちで作品を鑑賞し、最後の映画館での鑑賞としたい。それとは別にノベライズの感想は書いていきたいので、また書くかもしれない。

シネマスクエア7までの行程

新神戸から新山口まで新幹線で行き、そこから宇部線で宇部岬へ向かい、そこから徒歩でシネマスクエア7に向かうといった内容だ。

旅の始まり

旅は新神戸から始まる。三宮に住んでいると新神戸が近くて非常に助かる。

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この日は九州新幹線さくらに初の乗車をした。

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軽めの防寒具として以前買った、U.L.トラベルダウン ハーフコートを持ってきたが、小さくたため適当な場所に引っ掛けておくのに便利だった。

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さて、鉄道の旅といえば駅弁は外せない。淡路屋で春限定の弁当を買った。これは行動量が多いからボリューミーなのがいいだろうと選んだ。

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内容は大変豪華で、いかなごのくぎ煮や桜餅、鱚の南蛮漬けっぽいもの、煮豆、桜人参入りのすき焼きに、季節感あふれる煮物に塩鮭、そして季節感あふれるばら寿司。どれも美味しく目でも舌でも楽しめる一品だった。

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飲み物を買い忘れていたが九州新幹線にはまだ自販機があるらしく、事なきを得た。

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新山口につく前になると転車台が見えた。今時珍しいなと思ったが、単行が目立つので車庫の代わりにしているのかもしれない。転轍機複数持つよりはローコストだろうし。

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新山口に到着

そんなこんなで新山口に到着。

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駅の南側にはホテルと塾くらいしか見えず、北側もぱっと見そんな感じだった。新山口は姫路よりも停車が少ないらしくさびれていた。

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新山口駅では手ぶら観光なるものができる立て看板があった。

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これから行く宇部線ではICが使えないことも知った。松山駅にはなかった気がするので、完全にICがないエリアと、混在しているエリアの差を感じる。とはいえ、同様の加古川線や播但線もここまでのものはなかった気がするが、まぁ駅の規模の差とかなのだろう、きっと。

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さて、こういう時帰りに土産屋が閉まるのを散々経験したため、あらかじめ土産屋を物色する。フグの刺身は売り切れだった。

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帰りの駅弁を買っておこうと思うものの。こちらも売り切れ。

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宇部線へ

新幹線のホームから宇部線は離れているらしく、連絡通路を歩いていたら透明な消火栓を見つけた。オシャレだし故障が一目でわかって便利かもしれない。

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連絡通路から在来線ホームを一望してみるとかなり広いことがうかがえる。新幹線が通過する割にでかい駅だ。

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しかし改札は少なく、券売機もたった三台。

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行先表示も二行しかないことに閑散具合を見ることができる。

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さて、往復の切符を買い、改札を抜ける。

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この時になるとジャケットを入れたスリーブはカラビナに引っ掛けていた。松山でも思ったことだが、やはりこのカラビナは便利だ。

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宇部線乗車

しばらくすると宇部行きの電車がやってきた。宇部線はラッシュ時以外は一時間に一本、運行していない時間もある路線だ。

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車社会だし、この本数ではあまり使ってる人はいないのだろうなぁと思っていたが、意外と乗車客は多かった。

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さていよいよ乗車する。宇部線経由と書かれているが、宇部線しか走らないのでは…?などと考えていた。

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宇部線車内

まず目に入ったのは福知山線ではおなじみの整理券発券機だ。

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整理券があるということは当然運賃箱もある。

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扇風機があって琴電のようなレトロさを覚えた。

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宇部岬駅

一時間ほどの乗車で列車は宇部岬駅に到着した。駅には意外と人がいた。

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改札はしょぼかった壬生川駅を、さらにしょぼくしたような感じだ。

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駅は全体にレトロ感が漂う。

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駅舎も雰囲気があっていい。

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駅前は居酒屋が一個ある程度で特に何もない。

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ここが鉄道駅であることを示す居酒屋があるのはいいなと思った。

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特に写真は載せないが、この駅のトイレには紙がないので、駅のトイレを使う場合は要注意だ。この駅は無人駅だが、トイレ自体は綺麗で、段差のある和式が一個ある感じのやつだった。

シネマスクエア7

駅の脇道を抜け歩くこと5分程度、シネマスクエア7が見えてきた。

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やっと来れた。少し感慨深い気持ちになった。

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シネマスクエア7の入るフジグラン宇部の中に入り、シネマスクエア7の前に来たところ。

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NOW SHOWINGに光るメイクアガールの掲示が美しい。

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グッズもセカンドランとは思えないほど充実していて、なんとクリスタルアートまで揃っていた。

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メイクアガール入場開始

開場の瞬間は誰もいなかったが、あれこれ撮影したりしてる間に一名に先を越された。手落ちである。

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しかし事前予約では9席あったので、まぁ後からくるのだろうと思った。実際上映開始前には10席埋まっていた。

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シネマスクエア7はレトロでいい感じだ。

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今回もぬいを持ってきていたので一緒に撮ってみた。

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シネマスクエア7の座席は段差が少なく足元が広いタイプで、塚口サンサン劇場が近いと感じた。キノシネマ神戸国際ほど平坦ではないと思う。

シネマスクエア7では一週目の特典も配布されていた。一週目にもらったものと合わせて三枚になったのだが全部「0号?」なので、もし4/11~上映の塚口サンサン劇場で配布があるとしたら「0号」のほうをゲットしたいところだ。

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またグッズ販売もセカンドにしては充実しており、クリスタルアートをはじめ、多くのグッズが揃えられていた。

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帰路

上映が終わると19時手前になっていた。辺りは暗くなっていた。

宇部岬駅に戻ってきて待つこと一時間弱、新山口行きの列車が入ってきた。

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新山口駅に着き新幹線乗り換え口に向かう。発車案内には新大阪行き最終電車が表示されている。そう、最終電車で帰るのだ。

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このあと新幹線改札をくぐる時に簡単なトラブルがあった。それは新幹線はEX予約でとっているので本来改札なしには入れないのだが、切符で入ってきているため改札ではじかれてしまったのだ。

駅員に聞いてみるも半ば困惑気味に、切符を通した後にICを通せばもしかして通れるかもしれないと言われ、試したらなんとこれで通れた。これはちょっとした裏仕様っぽくて面白かった。

改札を抜け、またもや待つこと一時間弱。ついにそれはやってきた。新山口発、新大阪行き最終電車。おそらく東京から来た人ならもう帰れないやつだ。

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今回の旅では列車の接続に概ね一時間弱かかり、合計で三時間ほどの余白があったが、一回一回が中途半端すぎて地元のお店に入ったりできなかったことが残念だった。機会があれば次はふぐとか山口らしいものを食べてきたいところだ。

そして無事新神戸まで帰ってこれた。

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改札はこの時間の割には割とごった返しており、意外とこの時間でも使う人がいるのだなと感じた。

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お土産

宇部かまのかわいらしい紙袋で持って帰ってきた。

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かまぼこやふぐうどん、お茶漬けのもとに地元の銘菓っぽいものを軽くそろえてみた。

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投稿日:
ジャンル::雑記

私が子供のころ、スーパーで売っているおはぎには、緑色のおはぎが一つ入っていた。四つ入りなら黒黒黄緑という感じのラインナップだったと思う。それぞれの色は黒はあんこ、黄色はきなこ、緑はのという具合だ。私はこののりのおはぎが何故か好きだった。なので、のりおはぎだけが入ったおはぎを食べたいと子供のころからずっと思っていた。一つだけは少ない。

最近童心を思い返してスーパーに行ってものりのおはぎそのものが売られていないことに気が付いた。三年ほど探したが、まったく見つからない。代わりにずんだ餅が入っているのはよく見た。なぜ東北の和菓子が関西のスーパーのおはぎにしれっと混入しているのか、私は頭を悩ませたが、悩んでも仕方がないので和菓子屋に行けばあるのではないか?と思いネットで情報を集めると、見事当たった。

しかし、和菓子屋を当たれど当たれど、のりのおはぎどころかおはぎ自体が売ってないのだ。そこで近所の和菓子屋に聞いてみたところおはぎは彼岸の時期しかやってないという情報を得た。

いや、それでもおはぎの専門店であれば売っているのではないか?私はそう考え、ナダシンの餅へ赴いたが、ここにはあんこのおはぎしかなさそうだった。次におはぎといえば丹波屋だろうと考え、垂水の丹波屋に足を延ばした。初日は夕方で、この時間からは作れないといわれ、翌週に行くと今は作ってないんですと言われ、他に何か宛はないものか…と探していたところ、御影の虎屋吉末が春の彼岸なのでおはぎの売り出しを始めるという告知をしているのを見かけた。

もしかしたら、この時期なら丹波屋でものりおはぎを売ってもらえるのではないか?そう考え今日、三度目になる訪問をしたところ、店頭には並んでおらず、メニューにも書いていなかったが、「おはぎあります」と書かれたイラストにはまごうことなき、のりおはぎの絵が描かれていたので、のりおはぎがないか聞いてみたところ、作ればあると言われ、無事入手することができたのだ。

そして私は今日、子供のころからの夢だった、おはぎ四つ入りがすべてのりで埋め尽くされたおはぎを入手することができたのだ。

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このまりものような見た目。香ばしい青のりの香り。なんともたまらない。

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食べてみると口の中で、まぶされたのりのふわふわ感が広がりなかなか新鮮だ。もう何年ぶりに食べるかもわからない味だったが、特に美味しくはなかった。一個しか入ってない縁起物感だ。青のりは高価なので売られなくなったのも納得という感じ。

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ただそれでも十分にうれしかった。またこのおはぎを食べられたことが、何よりもよかった。

丹波屋ののりおはぎは、これでもかというほどふんだんに青のりがまぶされており、贅沢な一品だ。

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ちなみに以前、垂水でサメを買ってきたが、この時が丹波屋に行った一回目の時だった。二回目の時は魚を買わなかったのだが、今回はまた魚を買ってきてみた。

垂水漁港昼網のコチ一尾を刺身用に下ろしてもらったものだ。1,500円もして、サメはお買い得だったなぁ…と思った。

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そぎ切りにしたところ。身の締りは良くてムチムチしてて、甘みがあって美味しかった。何よりカサゴの仲間が刺身で食べられるとは思わなかったので、それが美味しいとなると二度驚いた。

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