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言語::TypeScriptジャンル::思考

ここ5年間くらいTypeScriptを書くことが多いが、何故TypeScriptで書いているかについてメリデメを大まかに整理してみる。

メリットに感じている部分

  1. 静的型付けがある
    • IDEで入力保管が出るのは便利だし、型ミスによるバグも見つけやすい
  2. マルチプラットフォーム
    • OSの差を意識せず開発しやすい
  3. VSCodeで書きやすい
    • IntelliJ使いたくないので…
  4. テストコードを書くのが楽
    • Jestは扱いやすい
  5. 大抵のことができる
    • CLIアプリからWebサーバー、Webフロントエンドまでこれ一本でできるのは嬉しい

デメリットに感じている部分

  1. 依存地獄
    • node_modules配下が地獄になりがち
  2. Node.jsの頻繁なバージョンアップ
    • TypeScriptはNode.jsに依存しているため、どうしてもこの部分に引っ張られがち(DenoとかBunとかそういうのは関知しない)
      • fsを中心に破壊的変更がよくあり、割合壊れる
  3. デバッグがめんどくさい
    • C#だとデバッガを上げるのは楽だがNode.jsはめんどくさい
    • たまに素直にブレークポイントにはまってくれないこともあり辛い
  4. 言語エンジンが重い
    • 入力補完や型情報の照会などはコードが肥大化するにつれ重くなる
    • そのためにキャッシュ機能があるようだが、ブランチを切り替えるとキャッシュされた型情報を見てくるせいでうまく動かないなど面倒
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ジャンル::思考

個人的にここ数年もやもやしていることがある。このブログにもよく書いたが、SDGs、ポリティカルコレクトネス、人権とか普遍的価値観といった類のものだ。考えなければいいのにどうして考えてしまうのかずっと考えていた。

その答えだが、恐らく「考えないといけない」からだ。日本の外務省も国際社会における人権・民主主義として紹介しているが、これは恐らく全世界の人間が考えないといけないのだ。そして飽きるほど書いてきていると思うが、「人権及び基本的自由は普遍的価値であること。また、各国の人権状況は国際社会の正当な関心事項であって、かかる関心は内政干渉と捉えるべきではないこと。」が我が国としての姿勢だ。

つまり何が言いたいかというと、考えたくないのに考えないといけないというところに私はストレスを感じているのだと思う。つまりもやもやの正体は押しつけによるストレス。

さて、ではここからは不満の書き散らしだが、国際社会とやらはそういう圧力をかけてくる割に、強制力といったものは伴ってこない。例えば「性差や障害などによる差別を5年以内に全世界からなくし、それに協力しなかった国には国連が強制介入し、代理政府としての統治をおこなう。これを妨害したものには暴力をもって抵抗する。」といったことは一切言わないのである。しかし、そういったことは言わないくせに頭ごなしにやれと言って来る。

まぁここまでくると共産主義の暴力革命そのものになるのでできないみたいなところもあるのだろう。

そもそも差別というのは第三者が決めつけるものではない。

以前Twitterで「僻地に住むのは可哀そうだ」というような内容を見たことがある。恐らく東京辺りの人が離島に住む人に対して言ったものだ。個人的にこれは「後進国の人は貧しい暮らしを強いられている」と言ってることに大差ないと思う。要するに不平等で可哀そうな人がいるという考えだ。恐らく人権主義に基づけば、そのあとに「我々は彼らのような人が生まれないような社会にしないといけない」みたいな御大層な文章が付け足されるのだろう。

勿論、強いられている人もいるとは思う。しかし、強いられていてはいけないのだろうか?皆が皆東京に住んだり、先進国で暮らす必要はあるのだろうか?こういった考えは思想を一つにまとめてしまう恐れがないかというのを個人的に考えることがある。

女性差別もそうだ。まず女性は男性より物理的に体力がない、この事をとって男性は女性より体力があるのだから女性より働きすぎないべきだというのは簡単だ。しかし、女性にとって優位な仕事や、またその逆もあるだろう。そういった多様性を無視して十把一絡げに「男女は平等でならないといけない」と押し付けるのはどうだろうか?

給与待遇も何もかもだ。妊娠や出産時、パフォーマンスが悪かったり、どうしても動けない場合でも、その時間働いている男性と同じであるべきとか、降格などあってはならないというが、物理的にでたらめである。どう考えてもその時間働いてた人間のほうが成果を出している。

他にも女性が活躍するために男性は女性を優位に扱うべきというが、もはやそれは平等ではなく、単なる逆差別でしかない。大抵こういう話ではインテリのような人間が「Agreeです」みたいな鼻につく返事をしている場面もまぁまぁ見る。こういった思想を社会や、国、会社などから押し付けられ、新聞やSNSでも目にしない日はないくらいの有様だと、まぁまぁ疲れる。思想・良心の自由を侵害されていると思う。

つい最近Twitterで見た言葉に「先進的な善意」というものがあった。きっと世界中の善意がこのような状態にしているのだろう。まさに「地獄への道は善意で舗装されている」である。

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ジャンル::思考

私はキャッシュレス歴が長く、過去を辿ると2015年からVISAカードを使い続けている。最初の頃は学生だったのでVISAデビットを使っていたが、学生を卒業してからはクレジットカードを使っている。他にもWebMoneyといったプリペイド式の決済や、PiTaPaやiDといったポストペイ決済も使っているしBTCで支払いをすることもある。

とまぁ、それなりに長いキャッシュレス歴を持っていて、少し前までは現金決済など無駄だから皆キャッシュレスになればいいと思っていたほどだ。しかし、ここ最近になり現金の存在を見直している。

現金を見直すようになった最大の理由の一つは海外資本企業による販売商材規制だ。例えば2018年にSteamが美少女ゲーム規制を打ち出したことは記憶に新しい。また2019年にPornHubがPaypalからBANされたこともあり、私は徐々に危機感を募らせていった。

特にここ最近、特に2022年頃からクレジットカード会社などが日本のコンテンツを集中的にBANして来ていることが伺える。このことから私は海外資本、特にクレジットカードブランドや収納代行業者を疑いの眼差しで強く見るようになった。

そして、丁度この時期を境に私は地産地消活動に目覚めてきたのもあり、地域の商店を使う頻度が増え、偶然にも現金決済の比率が高まってきた。

国際的な決済企業を使いすぎると、日本円は海外資本の手の内になってしまい、海外の民間企業の思うがままになり、日本という国を自由に操作できてしまうリスクを孕んでいることに気が付いたわけだ。そういうこともあり、最近は現金決済の比率を高めている。

現金決済をしていると釣銭の計算や、財布に置いておく小銭と札の比率なども考えるようになり、頭を使うようになるので中々楽しいし、クレジットカードは少なくない手数料を店が負担しているので、そこをなくせるのは少なからず貢献になっている可能性もある。現金の取り扱いコストと相殺できるといった話もあるし、勿論それもなくはないと思う。なので、個人商店をはじめとした小規模な相手には現金、企業経営をしているようなところにはクレジットを使うといったような使い分けもしている。

で、それをしたところで何があるのか?完全に現金にしてないじゃんなどはまぁあるのだが、あくまで個人で支障のない範囲で小さな抵抗をしているという感じだ。

また買い物に関しては地域支援のために個人商店を中心にするように徐々にシフトしてきており、極力クレジットカードを使わなくていい生活に倒してきている。

スーパーなどの買い物とは違いお店の人と顔なじみになれて世間話ができたり、いろいろ新しい発見もある。勿論仲違いするリスクもゼロではないだろうが、これもまた人生の醍醐味の一つだと思うので、悪くないなと思っている。

しかし、2021年にpixivがじぶん銀行の支店を作ったときは遂にこの時が来たか…と思ったものだが、つい先日pixivcobanなる決済を作り、じぶん銀行から使うと特典が付くとかを見ていると先見の妙がすごいなと思う。またDLsiteも本日付でVISAとMasterCardの決済を停止しているので、いよいよ怪しくなってきた感じがある。

このままこの動きが大きくなると、一部でまことしやかに囁かれているAWSが日本でまともに使えなくなるということが現実になるかもしれないし、個人的には中露の経済制裁みたいなのが日本に来ても不思議はないと思っているし、そうでなくともVISAやMasterCardみたいなところが日本に対して何かしら大規模なアクションを起こしてくれば日本のサブカルチャーもただでは済まないだろう。

以前から言っているが、私は外務省の言うところの「人権及び基本的自由は普遍的価値であること。また、各国の人権状況は国際社会の正当な関心事項であって、かかる関心は内政干渉と捉えるべきではないこと」という考えには反対だ。全ては各々国が決めることで国際社会、特に欧米の価値観で決定されるべきことではないと考えている。何故なら欧米の価値観に染まれば、各国の多様性が失われるからだ。

文化というのは差別や貧困、理不尽のようなよくはない出来事が元で発生していることが多いと私は考えていて、これを人権侵害だとか言い始めると文化というものはなくなると考えている。そもそも庭に不審者が入ってきたら無警告で射殺しても良いみたいなとんでもないことを認めている国の方がよほど人権的に問題がある。

自由すぎて女性がレイプに会う国と、少なからず抑制されてて痴漢程度で済んでいる国、余りに抑制されていて女性に自由がなく扇情的なことができないので痴漢すらないが、逆に厳しすぎて性犯罪が起きてるような国でいえば、どう考えても痴漢程度で済んでいる国が一番まともだろう。因みに前者はアメリカ、真ん中は日本、最後はイスラム系の国を指している。

どれがいいとか悪いとかではなく、すべてあっていい。人権や普遍的価値なんか知ったことではない。それより全ての国に自由な自治権があってしかるべきだ。考えの押し付けをしてはならない。幸福も不幸もない。そもそも称賛されている文化なんてどれも地獄のような生活をしていた時代のものばかりではないかと思う。

またクレジットカード会社による決済規制については、山田太郎参議院議員が国会で議題に挙げられており、既に政治的関心になっていることが伺える。なお、記事を見るとわかるが、完全に堂々巡りになっており話が通じていない。要するに政府としては関心がないということだ。悲しいかな。

最終的に何が言いたいのかよくわからない内容だが、要するに以前と比べて現金決済の比率を上げているということだ。理由としてはキャッシュレス経済に対して一家言できたというところが大きい。

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ジャンル::思考ジャンル::疑問

「人類」とかいう、やたら主語のでかいタイトルだが、言いたいことは昔に戻ることはできないんじゃないかなということだ。

個人的に最近よく意識するテーマに少子化と地方鉄道の維持に関する問題がある。さて、これと今回のタイトルを紐づけて考えてみよう。

まず少子化は昔からあったわけではなく、割とここ最近出てきた問題だ。では過去はどうだっただろうか?人類は常に少子化だったのだろうか?そんなことはないはずである。100年前に人類は6京人いて、今はたった60億人になってしまったとか、そんな話はない。少なくとも日本においては江戸時代から人口は増加し続けている。これは内閣府の資料「人口構造の変化」を読むとよくわかる。むしろ急激に増え、急激に減っているのである。

人口減少は世界的な問題と言われているが、どこの国も似たような感じだと思う。いや知らんが。結局のところこれをどう解決するかだが、昔に戻るのが一番手っ取り早いと思う。日本人らが人類の英知だとか、日本は愚かだが欧米は賢いなどというあの欧米ですら問題を解決できてないし、もはやそんな事をする気があるようにも見えない。

そもそも日本は過去に人為的に人口増加させることを政策により成功している。「産めよ殖やせよ」である。しかしもうこの政策をとることはできない。何故なら人権侵害だからだ。つまり過去に戻ることさえできれば人口を増やすことは可能と考えることができる。しかし出来ないのだ。何故ならもう過去に戻れないからだ。

これは地方の鉄道においても同様のことが言える。まず日本で鉄道が敷設されたばかりのころは道路がなかった。何故なら道路は敷設するコストが高いからである。広い道幅を確保するためには立ち退きが必要だったり、トンネルを作ったり、橋梁を設けるコストが大きくかかる。また路面の舗装も大変だ。根本的に自動車は個人で買えるものでもなかったし、当時の車は悪路を走る能力も今ほど高くなかった。そこで先に普及したのが鉄道だ。鉄道は乗り合いであるから一般人でも比較的利用しやすいし、線路の敷設は道路と比較した場合、土地を使わない。

そして時代は流れ車道の整備が進み、個々人が自家用車を持てる時代となった今、かつて作られた線路の多くは不要のものとなった。また国内の産業が海外に流出した結果、それらのための鉄道も不要となった。つまるところ、地方鉄道の存敗問題も時計の針を巻き戻して昔に戻れば解決できるといえる。まず車道をなくし、次に産業を取り戻せばいい。元々産業用に敷設されたと言われる加古川線などそのもっともたる例といえるだろう。東京などの都市部には今でも鉄道が残っていて、活躍しているが、これは人口集中の結果、車が使い物にならなくなったからという結果論にすぎないだろう。また長距離を車で移動するのは大変ということで、新幹線のような長距離鉄道も残っていると思われる。

鉄道は車と比べた時に、線路の維持管理や運行管理に膨大なコストがかかり、かなり使われていないと維持できないという決定的な問題があるので、これをクリアするためには、まず車を滅ぼさないとどうしようもないだろう。

さてまぁ色々書いたが、結局のところ人類は過去に戻れない。過去の生活水準に戻りたくないからだ。そして現在の問題を過去と切り離して考えることしかできない。見方を変えれば人間社会が老化してきているともいえる。人間長く生きていると「昔はできたのに、今はできない」といった問題にぶつかることがあるが、まさに今の人間社会がそうではないかと思う。つまり「人類は昔に戻れない」のだ。若返ることはもうできない。

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ジャンル::思考

『医師残業規制の9割「守れず」』という記事が神戸新聞紙面にあり、これを読んだ感想だ。

まず女性は男性になれないし、その逆もしかり、要するに男女情動など土台無理であるという話。

この記事には『長時間労働は女性のキャリア形成を阻んできたとの指摘もあり是正が急務』とあり、また『本来は勤務とすべき業務を「自己研さん」とするケースは多いとされ』ともある。

ソースは失念したのだがキャリア形成においては労働時間が多いほど有利であるという文献を見たことがある。これは当たり前のことで、例えば、労働時間が4時間の人と8時間の人では単純に経験値が倍違う。

一般的に女性は身体上の制約などにより男性より労働時間が短い傾向があるとされている。バリキャリ女性は別として、深夜残業やサービス残業をいとわないのは一般的に男性だろうし、勉強会といった自己研鑽のイベントも圧倒的に男性が多い。

思うに昨今言われる男女差別の一つは男性が頑張りすぎるせいで女性が活躍できない現象のことを指しているのではないかと思う。どちらかというとそれは差別ではなく、どうしようもないことである。

車いすの人が健常者に二足歩行できるのは卑怯だ、差別だ、というようなもので、どうにもならないことだ。そこに対し階段を全廃し、すべてスロープかエレベーターにしろというのが女性の言い分に近いだろう。

そもそもなぜ女性を活躍させないといけないのか?差別だから?少子化で人がいないから?少なくとも女性が働けば働くほど少子化が進むため後者は嘘である。

男性と比べた場合に女性の待遇が低いというのも嘘だ。バリキャリ女性や女医、イラストレーターなど、高位の地位についている女性は少なからず存在する。いわば名誉男性とされる女性の存在だ。男性と同じか、それを超える能力が女性にあれば、ちゃんとそれは優遇される。

しかし今時流のテックカンパニーを見てみよう。GoogleもAmazonもAppleもMicrosoftもMetaも創業者は男性だ。別に女性が創業者になってはいけない法律などなかったはずだ。これがどういうことかというと、差別というより単に女性にその才能がないだけの話だけなのだ。これは事実であり、差別ではない。

仮に男性が女性より有能とした場合、これは差別ではないし、逆に男性の有能さを潰すほうがおかしいと思う。そんなことをしたら世の中は無能であふれ、まさに共産主義になってしまうだろう。共産主義ではすべてが平等だ。

私はこのままではいけないと思う。女性を差別するのではなく、女性の強みを生かせる社会が必要に思う。少なくとも資本主義になる前の日本では女性は立派な労働者の一つだった。キャリアこそなかったが女工として働き続けることができていたはずだ。

キャリアさえなければ妊娠や出産で働けない期間があっても問題にはならない。別に女工でなくともイラストレーターや作家もそうだろう。女性のクリエイターには非常に魅力的な作品を作る人も少なくない。少なくとも日本では清少納言のころからそうだろう。

そこを考え直していくのが本当の働き方改革ではないだろうか?私はそう思う。

このままでは少子化はますます加速し、人類は衰退するだろう。残念なことに子供が増えている世界というのは人権もへったくれもない第三世界の話だ。そこに戻ろうというわけではないが、結局のところ昭和に戻らないとどうにもならない気はする。

因みに男性が女性より労働を頑張ることを「Greedy work」というらしい。