お知らせ

現在サイトのリニューアル作業中のため、全体的にページの表示が乱れています。
投稿日:
ジャンル::思考ジャンル::疑問

「人類」とかいう、やたら主語のでかいタイトルだが、言いたいことは昔に戻ることはできないんじゃないかなということだ。

個人的に最近よく意識するテーマに少子化と地方鉄道の維持に関する問題がある。さて、これと今回のタイトルを紐づけて考えてみよう。

まず少子化は昔からあったわけではなく、割とここ最近出てきた問題だ。では過去はどうだっただろうか?人類は常に少子化だったのだろうか?そんなことはないはずである。100年前に人類は6京人いて、今はたった60億人になってしまったとか、そんな話はない。少なくとも日本においては江戸時代から人口は増加し続けている。これは内閣府の資料「人口構造の変化」を読むとよくわかる。むしろ急激に増え、急激に減っているのである。

人口減少は世界的な問題と言われているが、どこの国も似たような感じだと思う。いや知らんが。結局のところこれをどう解決するかだが、昔に戻るのが一番手っ取り早いと思う。日本人らが人類の英知だとか、日本は愚かだが欧米は賢いなどというあの欧米ですら問題を解決できてないし、もはやそんな事をする気があるようにも見えない。

そもそも日本は過去に人為的に人口増加させることを政策により成功している。「産めよ殖やせよ」である。しかしもうこの政策をとることはできない。何故なら人権侵害だからだ。つまり過去に戻ることさえできれば人口を増やすことは可能と考えることができる。しかし出来ないのだ。何故ならもう過去に戻れないからだ。

これは地方の鉄道においても同様のことが言える。まず日本で鉄道が敷設されたばかりのころは道路がなかった。何故なら道路は敷設するコストが高いからである。広い道幅を確保するためには立ち退きが必要だったり、トンネルを作ったり、橋梁を設けるコストが大きくかかる。また路面の舗装も大変だ。根本的に自動車は個人で買えるものでもなかったし、当時の車は悪路を走る能力も今ほど高くなかった。そこで先に普及したのが鉄道だ。鉄道は乗り合いであるから一般人でも比較的利用しやすいし、線路の敷設は道路と比較した場合、土地を使わない。

そして時代は流れ車道の整備が進み、個々人が自家用車を持てる時代となった今、かつて作られた線路の多くは不要のものとなった。また国内の産業が海外に流出した結果、それらのための鉄道も不要となった。つまるところ、地方鉄道の存敗問題も時計の針を巻き戻して昔に戻れば解決できるといえる。まず車道をなくし、次に産業を取り戻せばいい。元々産業用に敷設されたと言われる加古川線などそのもっともたる例といえるだろう。東京などの都市部には今でも鉄道が残っていて、活躍しているが、これは人口集中の結果、車が使い物にならなくなったからという結果論にすぎないだろう。また長距離を車で移動するのは大変ということで、新幹線のような長距離鉄道も残っていると思われる。

鉄道は車と比べた時に、線路の維持管理や運行管理に膨大なコストがかかり、かなり使われていないと維持できないという決定的な問題があるので、これをクリアするためには、まず車を滅ぼさないとどうしようもないだろう。

さてまぁ色々書いたが、結局のところ人類は過去に戻れない。過去の生活水準に戻りたくないからだ。そして現在の問題を過去と切り離して考えることしかできない。見方を変えれば人間社会が老化してきているともいえる。人間長く生きていると「昔はできたのに、今はできない」といった問題にぶつかることがあるが、まさに今の人間社会がそうではないかと思う。つまり「人類は昔に戻れない」のだ。若返ることはもうできない。

投稿日:
ジャンル::思考

『医師残業規制の9割「守れず」』という記事が神戸新聞紙面にあり、これを読んだ感想だ。

まず女性は男性になれないし、その逆もしかり、要するに男女情動など土台無理であるという話。

この記事には『長時間労働は女性のキャリア形成を阻んできたとの指摘もあり是正が急務』とあり、また『本来は勤務とすべき業務を「自己研さん」とするケースは多いとされ』ともある。

ソースは失念したのだがキャリア形成においては労働時間が多いほど有利であるという文献を見たことがある。これは当たり前のことで、例えば、労働時間が4時間の人と8時間の人では単純に経験値が倍違う。

一般的に女性は身体上の制約などにより男性より労働時間が短い傾向があるとされている。バリキャリ女性は別として、深夜残業やサービス残業をいとわないのは一般的に男性だろうし、勉強会といった自己研鑽のイベントも圧倒的に男性が多い。

思うに昨今言われる男女差別の一つは男性が頑張りすぎるせいで女性が活躍できない現象のことを指しているのではないかと思う。どちらかというとそれは差別ではなく、どうしようもないことである。

車いすの人が健常者に二足歩行できるのは卑怯だ、差別だ、というようなもので、どうにもならないことだ。そこに対し階段を全廃し、すべてスロープかエレベーターにしろというのが女性の言い分に近いだろう。

そもそもなぜ女性を活躍させないといけないのか?差別だから?少子化で人がいないから?少なくとも女性が働けば働くほど少子化が進むため後者は嘘である。

男性と比べた場合に女性の待遇が低いというのも嘘だ。バリキャリ女性や女医、イラストレーターなど、高位の地位についている女性は少なからず存在する。いわば名誉男性とされる女性の存在だ。男性と同じか、それを超える能力が女性にあれば、ちゃんとそれは優遇される。

しかし今時流のテックカンパニーを見てみよう。GoogleもAmazonもAppleもMicrosoftもMetaも創業者は男性だ。別に女性が創業者になってはいけない法律などなかったはずだ。これがどういうことかというと、差別というより単に女性にその才能がないだけの話だけなのだ。これは事実であり、差別ではない。

仮に男性が女性より有能とした場合、これは差別ではないし、逆に男性の有能さを潰すほうがおかしいと思う。そんなことをしたら世の中は無能であふれ、まさに共産主義になってしまうだろう。共産主義ではすべてが平等だ。

私はこのままではいけないと思う。女性を差別するのではなく、女性の強みを生かせる社会が必要に思う。少なくとも資本主義になる前の日本では女性は立派な労働者の一つだった。キャリアこそなかったが女工として働き続けることができていたはずだ。

キャリアさえなければ妊娠や出産で働けない期間があっても問題にはならない。別に女工でなくともイラストレーターや作家もそうだろう。女性のクリエイターには非常に魅力的な作品を作る人も少なくない。少なくとも日本では清少納言のころからそうだろう。

そこを考え直していくのが本当の働き方改革ではないだろうか?私はそう思う。

このままでは少子化はますます加速し、人類は衰退するだろう。残念なことに子供が増えている世界というのは人権もへったくれもない第三世界の話だ。そこに戻ろうというわけではないが、結局のところ昭和に戻らないとどうにもならない気はする。

因みに男性が女性より労働を頑張ることを「Greedy work」というらしい。