お知らせ

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どうも、最近ブログネタが溜まっているのに更新が追い付いていない管理人ですが、今回はYAPC::Hiroshima 2024というカンファレンスイベントに参加してきたので、その感想について書いてみる。

因みにこういう大規模なイベントに参加するのは今回が初めてだ。

YAPC::Hiroshima 2024とは?

まずこのイベントが何なのかについてだが、公式サイトによれば以下のように案内されている。一言で言えば広島で「お好み」について話すイベントと言えるだろう。Perlであっても、なくてもどっちでもいい感じ。

YAPCはYet Another Perl Conferenceの略で、Perlを軸としたITに関わる全ての人のためのカンファレンスです。 Perlだけにとどまらない技術者たちが、好きな技術の話をし交流するカンファレンスで、技術者であれば誰でも楽しめるお祭りです!
今回のYAPC::Hiroshima 2024は「what you like」がテーマです。職種、ロール、プログラミング言語、技術要素... あなたのさまざまな「お好み」を語ってみてください。

登壇者は錚々たる面々であり、なんととほほのWWW入門で有名な杜甫々氏も来られているという、かなり凄い内容だった。ある程度の年齢層の方であれば、とほほのWWW入門にお世話になった方も少なくないのだろうか?私もその一人なので、来る目的の半分くらいはこれだった。

参加の経緯

ここ最近私は技術関係のアウトプット先を増やそうと悶々としており、社内外を問わず色々と顔を広げていく活動をしていた。

社内であれば大勢が集まる雑談チャンネルで話を持ち掛けたり、チーム内で話ができる場を設けたり、社外であれば、それっぽいDiscordチャンネルに入ったり、Slackを探したり、果てはジモティで話し相手が見つからないか探してみたり、手当たり次第に探していたところに三宮.devというコミュニティを発見したのだ。そしてここでYAPC::Hiroshima 2024に参加する人はいませんか?という話がされており、そこでこのイベントに出会った。とにかく飢えていた私は参加を決めた。

行程

当日新神戸から広島へ新幹線で向かい、その日のうちに帰る弾丸スケジュールにした。

本当は前日に入り、翌日に帰ることを考えていたのだが、実は参加を決めた時点では骨折しており、根本的に行けるかどうかが見通せず、ホテルを取れずにいたため「行けたら行く」でスケジュールした結果、こうなってしまったという悲しい話がある。

結果的に骨折は良くなったのだが、その頃には連休のためホテルが抑えられなくなっていたのと、歩けるようになっただけであって、完治したわけではなかったので無理をしない方向に倒した。ビビりだと思う。かつて高熱を出しても命を削りMMOをプレイしていた人間とは思えないビビり方だ。

因みに早起きが苦手なので12時に広島入りするという大遅刻計画となった(開場は9:45)

イベント参加

まず受付に入り、名札に自分の名前とお好みを書いた。テストコードを書くことや、PerlということでCGIがあった時代と絡めて「昔のインターネット」や「個人HP」について書いてみた。

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最初の登壇を聞きに行った。到着時間の関係で既に始まっていたのと、この為に買ったマシンのセットアップが不十分でセットアップをしていたらほとんど何も聞けていなかった。

その登壇が終わったら昼食だったのだが、端末を鞄に戻すのに手間取り机のある席が取れず、椅子しかない席で気合で食べる羽目になった。仕出し弁当が用意されていて、なかなか美味しかった。飲み物を買ってき忘れる体たらくだったが、幸いここで補給できたので助かった。(昼あるし、なんか出るだろうと過信してやってきたのが当たった形だ)

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登壇傍聴

昼食を終え、実際の傍聴を始めることにした。以下は聞いて思ったことを書いているだけなので、実際の発表内容とはそんな関係がない。

Blogを作り、育み、慈しむ - Blog Hacks 2024

まずはSongmu氏の「Blogを作り、育み、慈しむ - Blog Hacks 2024」を傍聴することにしたが、私もブログを書いているのでこれは非常に共感できるものがあった。それとオタク特有の早口の良さというのも共感できる要素だった。

私もこのブログというかサイトはHTML手書き時代から数えれば2002年からやっているわけで今年で22年になるが、何故そこまで続けられるのかと聞かれれば、それは「ブログを書くこと(サイトを作り続けること)が好きだから」だ。ブログというか個人サイトいうのは一国一城である。執筆者や管理人はそこの主で、文字通り何でもできる。これはすごく楽しいと思う。私はそれが好きだから続けられている。

それにWeb技術者として見た場合、ブログを始めとした自分のサイトを持つというのはHTMLセマンティクスやアクセシビリティ、SEO、通信プロトコルやLinuxなど、様々な観点の勉強にもなる。サイトを作るというその行為そのものが技術経験になりえるのだ。ブログシステム、CMSを作るという領域まで行けば、それはもう立派なプログラマーだと思う。変なプログラミングスクールなどに通う必要など全くない。それ自体をポートフォリオとして出すことさえ可能だ。

自分の好きを語れる場としてのブログ、別にブログである必要もなく、個人サイトでもいいのだが、これを持つというのは一つのアイデンティティを持つことにも繋がり非常に良いと思うので、興味がある人には是非やってほしいと思う。

特に「Webをやりたいのですが、何を学べばいいですか?」というような人には大変お勧めできると思う。どっかのフリマアプリのクローンを作ってポートフォリオというよりは採用担当にも響くだろう。

しかし凄いのは900記事以上も古くから積み上げた記事があるという点だった。私はサイト移転を数えきれないほど繰り返してきており、その都度過去のコンテンツが失われているという悲しい状態なので、今後は保持していけるようにしたいと思っているし、正直ブログの破壊的変更を伴わないようにしたいと考えている。

実際、直近でははてなダイアリー>WordPress>adiaryで記事の移行をしているが、この三回の移行では全記事の移行に成功している(記事の数が少ないからできたことではあるが…)

記憶が確かなら、中学のころから今までに書いた記事の総量は1,000を優に超えるはずである。何故なら昔の私は毎日しょうもないことを書いていたからだ。MMORPGをしていた時は毎日の成果を書いていたものだし、色々な妄想を書いたりもしていた。ブログのほかにもMMOサービス側に設置されていたOpenSNS的な奴にもよく書いていた。そういったSNSやmixi、Qiitaなどの傍系も含めれば5,000記事ほど書いていてもあまり不思議ではないが、いずれも現存しないため確認はできない。

今でもブログを書くペースよりネタが増えるペースのほうが早いので多分今後も変わらず増え続けるとは思うのだが、年々ペースが落ちている感は否めない(やることが増えて書く暇が減っている)。とはいえ、Twitteから距離を置いてからは書く量が目に見えて増えているので、これはブロガー的にはいい傾向だろう。

この事についてSongmu氏と懇親会で熱く語れればよかったのだが、当日の私はそこまで頭が回っていなかったのが悔やまれる。

非同期な開発体制を支えるドキュメント文化

次にこんぼい氏の「非同期な開発体制を支えるドキュメント文化」を聞きに行った。いや会議室を変えていないので、そのまま居座っていただけだが。

この議題についてはかなり興味があり、というのも仕事ではドキュメントの整備状況が悪く、声をかけても実装が優先で書いている暇がないというのが実情としてあった。正直私も書くようにはしてるのだが、後手になっている感じは否めない。

聞いていて思ったのは全てのやり取りをドキュメントベースにすれば実現できるのではないか?ということだ。同期コミュニケーションをすべてやめて、ありとあらゆるコミュニケーション手段をドキュメントベースにするということだ。こうすればドキュメントから仕事が生まれるので、ドキュメントがないとか、古いというのは起きないように感じる。

ドキュメントに関する不明点はどう聞くのか?という部分については、もうそれは従業員のメンタルモデルをバキバキに鍛えていくという方向になる気がするので、どこまで実現性があるのかは判らないが、一つの手法としてありだなというのは感じた。

この内容を何とか実業務に生かしていけないかも考えていきたいところだ。

好きな技術《コト》で、生きていく技術

その次はaereal氏の「好きな技術《コト》で、生きていく技術」を拝聴することにした。相変わらず会議室を動いていないが、恐らくこれは私のお好みが、偶々この会議室に集中していたということなのだろう。

内容的には自分の好きな技術をどうやって仕事で使っていくかという部分と、その難しさについての内容だったと思う。これは私も実業務で引っかかることがよくあり、どうすればメンバーが使いたい技術を業務で使わせてあげることができるかという点についてはよく考える。

まぁぶっちゃけた話無理だと思っている。例えばメガバンクのシステム開発をしているとして言語やフレームワークのCanaryやNightylyの新機能を使いたい!と言われてもそんなものは許せない。勿論、それで不具合が出来ないことを立証できれば可能とは言えなくはないが、現実的に不可能だ。何ならその機能は将来的に破壊されたり、削除される可能性もある。その後のことを考えれば無理無理の無理だ。

とはいえ、メンバーは使いたいのだ。私からは無理としか言えないが、無理しか言わないと「この人に話しても埒が明かない、レガシーは嫌だ!モダンがいい!」と思われてしまう。その対策を考えたかったので、このトークを聞きたかったのだ。

結論から言うと「自分が選べる立場になる(CTOとか)」や「個人開発で使う」ということだった。前者については非常に納得できる内容で、私は正直そのためだけにその立場につく努力をしているといっても過言ではない。

私にも使いたい技術や手法はある。それは「システムを楽に安全に保守できる技術」だ。要するに古く枯れた技術とか、テスト容易性に長けた実装手法などだ。しかしこんなのは面白みがまるでない。特にテストなんて誰も書きたくないし、テスト容易性が高い実装は疎結合で何を書いているかが分りづらいのだ。テストがドキュメントになるといわれても、そんなことより動けばいいのである。

何故それがやりたいかというと、私は職務経験上炎上案件に多く入っており、残業地獄を経験してきていたり、実稼働しているシステムでクソのようなバグを多々踏み抜いてきており、こういうのを避けたいからだ。現職でも時間外対応をしているのを見るとウッとなってしまう。

勿論、私の提案によってそれらが全て解決するかといえば、そんな保証はないし、一個も解決しないどころかより悪くなる可能性だってなくはない。私もやってみないとわからない。ただ個人的な経験や世間を眺めていると、少なからずマシになるのではないかという期待はある。

そういうので私はある程度その辺りを良しなにできる立場まではやってきたものの、次に立ちはだかる壁として出てきたのがメンバーの希望をどこまで採用するかだ。これはメンバーのモチベーション低下や、新規採用にも影響する可能性があり、判断が難しい。しかし事業として見た場合、安定して動いているシステムが求められるのは間違いないと考えている。

そこで後者の個人開発といいたいところなのだが、仕事でやっているだけの人には響きづらいし、個人でやったからこそ仕事にも持ち込んで実績にしたいという人もいると思うのが難しいところだ。とはいえ個人開発の実績はよほどの規模のものでない限り知れており、エンタープライズ開発では無意味なことも多いと思う。例えば個人開発で実験的な機能を使って動いていても、それがエンタープライズでも同様にいくとは限らない。

ここ本当に難しいと思っていて、どうしていけばいいのか悩むところだが、正直なんかいい感じで妥協しつつやっていくしかないのだと思う。何に対しても言えることだが、世の中には銀の弾丸であったり、正解というものはないのだ。

強いて言えば事業として見た場合は最小限のコストで、最速のスピードで、最大限の売り上げを出せるシステムを作れることが正義であり、自分がやりたいことをやるという部分とはどうしても乖離していくので、その辺りをなんか上手いことできるのが最良だとは思う。

それをするためには常日頃から様々な経験を積み、手札を増やし、できる限り多くの選択肢を取れるようにしておけることが大切であると、聞いていてそう感じた。これは開発もそうだが、開発以外もそうだと思う。

手札が多ければ選択肢が増やせるので、AがダメでもBがやれるし、最悪Cでもいい、どれかやれればいいという状況が作れる(いわゆる松竹梅というやつだ)。メンバーは他人なのでどうにもならないが、少なくとも自分だけはそういう状態であれればいいのではないかと思う。

古い技術について—SMTP現代事情つまみ食い—

最後にazumakuniyuki氏の「古い技術について—SMTP現代事情つまみ食い—」を聞くことにした。

これは先日Value-DomainのドメインをさくらのレンタルサーバーのメールでSPF, DKIM, DMARC対応させた私にとっては興味深かったからだ。

まず登壇者が関西弁だったので親近感が凄く湧いた。何故なら私は神戸に住んでいるからだ。

今まで何となく使っていたSPFやDKIM、DMARCなどの仕組みが分かったのは非常に参考になったし、今までSPFがあったのに何でいきなりDKIMやDMARKが出てきたのかについてもよく分かり、非常に良かった。

早速DMARKのpnoneからrejectに変更することにした。レポート設定などの他の部分も今後設定していきたいと思う。

またBIMIやARCといったRFCになっていない規則もあるということで、新しい情報を入手する機会になったのもよかった。

ライトニングトーク

アフタートークみたいなやつ?登壇者による話題指定のLTが行われていた。これも面白かった。ただおじさんの自語りみたいな感じだったので若い人にどれほど通用するのかは若干怪しかった。概して年配者の話というのは年少者にとっては老害トークだと思っているが、耳を傾けてくれた人がいるのであれば、それはいいことだと思う。本当は相手の年齢とか情報の新旧とか、そういった部分なしに話が聞けるのが一番だとは思うが、まぁこの話を書いている私自身がおじさんなので何とも言い難いところである。

情報収集の手段

シニアクラスになってくると、まぁみんな似たり寄ったりで、私もそんな感じなので共感する部分が多かった。特にRSSを読むという部分については私もやっていて、個人的なオススメはTinyTinyRSSだ。サーバー設置型のRSSリーダーで、PCとスマホアプリで既読状態などを同期しながら読めるスグレモノだ。さくらのレンタルサーバーに建てる方法については以前記事にしたこともあるので興味のある人は参考にしてみてほしい。前述の内容はオンプレ向けだが、確かクラウド環境向けにDockerを利用したデプロイもできたと思う。

TinyTinyRSSはカスタマイズ性が高く、正規表現によるフィルターも備えているので広告記事とかを柔軟に弾くこともでき、正規表現の勉強にもなるのでオススメだ。複数ユーザーを作成して共有したりすることもできるので、任意のグループの中で共有するといったこともできるだろう。

オンライン

コロナ化などでリモートワークやイベントのオンライン化が盛んになったが、参加している感がなかったり、同時視聴があったり、盛り上がりを出すのが難しいとか、中には演出でよくわからないことをしたというような話もあった気がする。またオンラインが長かったことの弊害で、スライドの文字が小さくなったり、下に書き込みすぎて、現実世界だと後ろの人が見れなくなるという弊害も出てたとかあって面白かった。個人的にはオフラインとオンライン両方のデュアルだとよいと思う。オンラインでは話せないこともはやっぱあると思うので…w

35歳定年説

最近の人はあまり知らないらしいが、昔はよく言われていた話だ。コードを書かない誘惑が増えたり、マネジメントで書かなくなるといった話。実際仕事をしていても「コードを書かなくなった」という声はよく聞くし、私も書かなくなったと思う。

個人的には前職でテックリードの地位に就いて以来、MTGや調整ごとをする機会が爆発的に増えた。転職して現職に来て一旦はただのメンバーになったが、改善活動をしているうちに似たような感じになってきている。但し前職でも現職でもコード自体は書いており、恐らく打ち込んだコードの数だけで言えば前々職以前でSESのプログラマーをしていた頃と謙遜ないどころか、増えている可能性さえある。ただ、意識していないと書かなくなってしまうので、その辺りを上手くしようと日々何とかしている。

生成AI

AIが推論して書いてる間に自分で書けるという話が面白かった。また、コードを書くという体験が失われるというのは一つ面白い観点だと思った。書く時間がない人が時短で書くとかそういうのには向くとか、ChatGPTを壁打ち相手として使うのはいい案だと思った。私もChatGPTを一時期壁打ち相手として使っていたのだが、結局生身の人間と話したほうがいいなと思えてきたので最近はやっていない。AIは次第にやり取りが破綻するのと「ガイドライン上話せない」とか言い出すからだ。Jailbreakさせるとある程度話すようになるにはなるのを個人的には知っているのだが、この状態になると会話が破綻しがちでイマイチよくない(AIの認知に関して変な副作用があるのだと思う)

コミュニティ

まさに私がここに来た理由だった。人との繋がりを作るのは大切なことで、上手いこと人を巻き込んでいける人になれるとよいのだと思う。

そして最初は誰しも最初は一人、ぼっちだが、そこからこういった場を使って、繋がりを増やしていく、自分をアピールできるようにしていく。

例えば名札にSNSのアイコンを貼る、QRを付けるとか、私はこの人ですとアピールできるようにしていくとか、その上で日々「何とかの人」として認知されるようにしていくと、徐々にぼっちから抜け出せていくというのがあった。

また過去にはブログを作っただけで声をかけられたという事例もあるようで、ブログを書いたり、今ならツイートをしていくというのも一定の効果があるという話を聞いた。何なら私もそれを目的として今この記事を書いている節があるくらいだ。

SNSアイコンシールみたいなのは個人的にも検討していきたい。いやまぁTwitterそんなに書いてないのがあれだが、私の場合は自分のサイトに誘導するのでも良さそうだ。

キーノート

これは杜甫々氏のトークだった。杜甫々氏は広島在住である。サイトにも書いてあるので、杜甫々氏のファンであればご存じだろう。

内容的には、あのサイトの成り立ちや、杜甫々氏の経歴などであり、これはは非常に聞いていて面白かった。まさに伝説というか、伝説だった。

メモリが5KBしかない世界でどうやって処理をするか、メモリがオーバーフローするとどうなるかみたいな、興味深いお話が多々聞けた。バンク処理辺りはファミリコンピューターでよく使われていた処理そのもので面白かった。PC98については私も幼いころに使っていたので懐かしい気持ちになった。

後何より響いたのは、残業規制がなく、何もかもが自由だったころの時代の話だ。先輩と自分でどっちが実装を担当するかで喧嘩したというのもよかったし、全体的に非常に良かった。

正直この話を聞きに来たようなもんである。余りに良すぎて、これはもう一生モノの経験である。

また杜甫々氏のインターネット歴は1988年からで36年にもなり、インターネット老人会の会長を目指されているとのことで、私より遥かに大々先輩であられた。

実務的な部分についても、言語やフレームワークなどのEoLが短いという話があり、これはかなり納得した。ぶっちゃけAWSやGitHubでさえNode.jsのあの短すぎるリリースサイクルにまともに追従できてないように見えるので、実際問題短いと感じているし、昨今のフレームワークと言語とライブラリの複合技は全てのEoL内にバージョン整合を取るというのが個人的にかなり難しいと感じており、何とか見直せないかは検討していきたいところだ。

懇親会

YAPCのメインイベントと呼ばれることもある部分らしい?多分大抵のイベントにある参加者同士の懇親会だ。

初参加ということもあり、ぼっちムーヴを極めすぎた結果、登壇者と話せなかったのが残念だったが、何名の方とはお話をさせて頂くことができ、今後も継続的にこのような会に参加することへの意義や、自分が登壇することでぼっちを回避できるなどといった様々な利点を聞くことができたので、有意義なものとなった。

特に大井町pmの方からかなり強く背中を押してもらえたのもあり、今後精力的に活動していきたいと感じた。幸い行きの新幹線の中でLTネタを考えていたら無駄に出てきたし、普段からブログネタを作っては書かずに腐らせているので、考えれば話すネタ自体はたくさんある(普通の話も真面目な話も不真面目な話も闇の話も何でも)

問題としてはLTになれていない部分があるので、プレゼン資料の作成や実際の話とかがへたくそなところだろう、この辺りは実務でも役に立つと思うので場数を踏んで鍛えていきたいところだ。

あとがき

まず参加してみて色々身になったというのと、このイベントに参加する前に参加したDevFest: Kobe Developer Dayである程度懇親会の動きを学べていたので、それなりに動けたのは良かったと思う。

反省点としては、余り人に話しかけられず、特に登壇者と一切話せてなかったので、ここは次回改善したい(一体何のために懇親会に参加したのか…。ちなみに前回は登壇者がぼっちだったので話しかけられたというオチがある。)

またLTに関しても以前blessing software KOBEのLT会でやったこと自体はあるので、慣れておくために継続的にやっていき、次回は何か出せるようになりたいところだ。

まずはやってみる、次に続けてみる、続けるというのは三日坊主を連続してるだけでもある種の継続だと思うので、これもやっていきたい。

かつて人生を賭してまでやっていたMMORPGからはもう離れてしまい、続けられなくなってしまっているが、幸いこのサイトだけはずっと続いている。移転でコンテンツが消えてたりしていて、最早残っているコンテンツはカウンターの数字くらいだが、それでも脈々と続けられているので、これからは過去を捨てずに続けていくというのをやっていきたい。個人サイトはその人の顔、外観のイケてなさなど全部ひっくるめて、その人自身であるということも聞いたので、今後とも私の顔として成熟させていければと思う。私が私であり、渡したり得るのはきっとこのサイトがあるからなのだ*1

因みに私のインターネット歴は1995年からなので今年で29年になり、インターネット老人会の会員を勝手に自称している。

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ジャンル::雑記ジャンル::思考

最近仕事での身の振り方や、世を生きるための処世術で悩むことが多いが、一定の方向性が見えてきたのでここに書き記す。

まず結論から書くと「自分が正しいと思ったことをする」ということだ。理由は後述する。

まず悩みについてだが、正解がないことへの正解を出すことに悩んでいた。

例えば上司から「バナナを売ると儲かるらしいからバナナを売って儲かる方法を教えてくれ」と言われ、この上司がバナナを売ることに痛く固執している場合があったとする。バナナを売ること以外を提案しても耳を貸さず、バナナこそが絶対で、バナナ以外に道はないといった具合だ。

私はバナナを売って儲かる方法を考え続け、バナナ以外の選択肢は考えず、ChatGPTにバナナを売ることで年商10億円に達する、絶対に失敗しない銀の弾丸を聞いたりするが、当然答えは得られない。内心上司はアホなのでは?と思いながらやっているわけだが、事実上司はアホである。しかしそのアホに従う私もまたアホなのだ。

しかしこれでは駄目だと思った。私は恐らく上司を変えないといけない。何せ上司は赤字になろうとバナナを売ろうと言い出す始末だ。最早上司に当初の目標はなく、バナナを売ることだけが目的になりつつある。

要するに上司はどうにかしてバナナを売りたいのである。バナナが売れさえすれば後のことはどうでもいいのだ。会社の業績など関係なく、我を失っている状態ともいえる。バナナを売ることができれば実績を作り、御旗を立てられるとでも思っているのかもしれない。

この様な時に私がすべきことは、上司に従うことではなく、上司を導くことではないか?と思った。上司をバナナの妄信から解き放ち、バナナ以外の道へ誘導するということだ。

ではそういった時にどうすればいいのか?まずバナナを売っても儲からないということは肌感で分かっているのだが、根拠がない。なので、まずは根拠を出す、バナナが難しければ何か説得に繋がる根拠を出すのだ。

しかし「バナナは儲かりません。理由はこうあり、これによってこうです。」と正論を述べたところで上司は不機嫌になるだけだろう。なので、代案を出す。

代案は最低でも二つ以上、更に互いの優劣を出せると恐らくより説得力が出せるだろう

つまるところこのケースで私がすべきことは上司が求める期待通りの模範解答を絞り切った雑巾を絞る思いで出すのではなく、暴走する上司を止め、説得する材料を作り、導くことなのではないかと思ったのである。

他にも類似の悩みは多くある、欧米社会が喧伝する人権及び基本的自由は普遍的価値やSDGsに関してのことだ。これらに関しては何が何でも従わなければならず、これに従わないことは犯罪であるような印象が私の中にある。しかし私はあまり従いたいとは思っていない。これは私は私の生き方をしたいし、なぜ法律ですらないものに従わなければならないのかと思うからだ。いや、仮に法律でもこんな矛盾に満ちた内容に従う気はさらさらない。

正直私は各国の歴史と風俗を「人権及び基本的自由は普遍的価値」という名前で破壊していく欧米が嫌いだし、こんなものはなくていいとさえ思っている。恐らくこの主義の向かう終着点は国民国家と法の破壊で、全てをEUに一極化し、自分たち以外の異文化を排除するところにある気さえしている。参考までに日本の外務省は「人権及び基本的自由は普遍的価値であること。また、各国の人権状況は国際社会の正当な関心事項であって、かかる関心は内政干渉と捉えるべきではないこと。」と発表しているため、日本は破壊される側である。

まぁそれはそれとして、これから必要なのは「誰かがそういったからそうやる」とか「上司が言うので、言われたとおり、期待通りにやる」ではなく、「自分の立場を明確にし、自分が思うことをする」ということだ。

これまでも私は他社の言論に対して指摘するときに極力「正しい・間違っている」とか「良い・悪い」という表現を避けてきた。避けていても相手によってはそう取られることはあるのだが、まぁ個人としては避けてきたのだ。理由としてはいかなる論説にあっても正誤はないと考えているからだ。但し法律や方程式のように、そのスコープ内では存在するので、それは指摘する。スコープの外であれば指摘しない。

例えば現実世界で人を殺すことは日本国においては犯罪であるが、戦時ではそうでない場合があるし、ゲーム内であればどうでもいい話だ。なので単純に「殺人は良いことか?」と聞かれれば私は一概に善悪の判断をしない。戦争やPKゲームの中の話なら殺せば殺すほどいいだろうし、仇討ちでも仇となった側からすればそれは良いことだと思う。勿論、殺される側にとってはたまったものではないだろうが…。

こういった具合に物事を相対的に見ることに努めているのだが、その先で出てきたのが今回の考えというところだ。

究極的に正誤や善悪はその立場によって異なり、絶対的なものはなく、相対的なものであるとしたときに、絶対がないのであれば自分がやりたいことをすればいいというのが私の考えとなった。

この考えにたどり着くまで様々な人と話し、色々考えてきたが、決め手になったのは「答えのないゲーム」を楽しむ 思考技術という書籍だった。私はまだこの本を読み切っていないが、この本には答えのない問題に対する対処法や、反対意見を持つ人との穏当な渡り合い方などが書かれているようなので、是非とも参考にしていきたいと思っている。

まだ三割ほどしか読み進めていないが、非常に実践的で、相手に腹落ちさせるための議論の進め方が書かれた本だと思っているので、自分の主義主張をいかにして他社に飲ませるか、という技法に長けた本だと思っている。読み終わったらこの記事の続きを書くかもしれない。

恐らく今私が嵌っているのは社会人10年目の壁とかいうやつで、新人でもベテランでもなく、中堅社員が陥る穴みたいなものなのだろう。これは「社会人 10年目」などでググると出てくるもので、みんな似たようなことで悩んでいるのだなと感じている。ちなみに私は数え方にもよるが社会人を10年もやっていない。数え方によってはやっているのだが、履歴書ベースだと約9年である。

私の経歴は恐らくかなり特殊な部類で、まず学卒で内定がなく、3年半ほどフリーターをしており、そのフリーター期間も職を転々としていた。ごみ収集、ECサイト制作、コンビニ店員、風俗サイトのSEO施策、ペーパーカンパニーで事務作業、大手家電店での中古情報機器のリサイクル作業など多岐にわたる。いよいよ正規の職に就かないといけないということでハローワークを通じて当時存在したトライアル雇用という既卒者向けの就職支援事業を利用して最低賃金で一社目に入った。酷いブラックだったので、一社目を辞めた後は一年と少しの間、残業代で貯めた貯蓄を原資に反動でニートをしていた。このニート時代ではMMORPGプレイヤーとして新規プレイからほぼ頂点級の廃人にまで上り詰めることができた。数々の実績を残し、正直伝説だったとさえ思う。この時に得た様々な経験は仕事や私生活でも役に立っているので、個人的には無駄ではなかったと感じている。

そこから先は一回転職で事故ってブランクができたものの、完全に定職についており平穏の社会人として生活している。因みに転職での事故というのは離職時の交渉が上手くいかず、一番平和な方法がその月で辞職することだったためだ。私の交渉術がポンコツ過ぎたため、次の入社日まで在職することは難しかった。

まぁこういったことがあり、私は年齢に応じた経験がない。ないが、同年齢の人間より仕事は出来るほうだという自負はある。あるが、このままではまだ駄目だと思っているので、SESで13次から8次、5次、3次に上がり、最終的に事業会社へ入社してきたように、次はメンバー層からマネージャー層に上がらなければならないと考えている。年齢に対する経験年数が浅いというのは一生付きまとってくる課題なので、同一年齢の人間よりできねばならないと思うし、年上のできない人を見ていると純粋にこうなったら終わりだなと感じるので、出来るだけ実績を残して、やれることを増やしていきたいのだ。

まぁ私は非常に怠惰な人間で、基本情報をとると言い出して十数年、未だに取れていなかったりあるので、どこまでやるのかは不透明なところもあるが、それでもやっていこうという志だけは捨てたくない、志だけはという感じだ。

11月の終わりから12月の初めにかけてポエミーな記事を幾つか書いてきたり、社内でも変な話をよくしていたし、ここ数年はそう言ったことで色々悩んでいたが、その悶着に一つの決着がついたのが今回の記事という感じだ。

やっと靄が晴れたような気がするので、これからもこれまでの自分の連続として、やっていけたらなと思うところである。多分これが今年の抱負というか、所信表明だ。

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昨今DXと言って電子化の取り組みや無駄をなくす取り組みが流行っている。無駄をなくすのは良い事だということに私もつい最近まで疑念はなかった。しかし、仕事をしていく中で無駄をなくししすぎてはいないか?という疑念が浮かんだので、ここではその辺りを書いていく。

無駄を減らすということは機械化や、やらなくていいことを減らすということ、つまり効率化である。例えば有人レジをなくして無人レジに置き換える、赤字の地方路線を廃線にし黒字路線に集中する、物流トラックの無人運転化というのは一例となるだろう。実際の例でいえば各地のスーパーをイオンが買収化して一元がしていることや、都市銀行を統合してメガバンクにすることなども、その一環に含まれるだろう。システム開発でもアナログをそのままデジタルに起こしたシステムは非効率だといわれる。紙帳票そのままのレイアウトに書き込むようなe-Taxソフトなどは無駄としての非常に良い例だろう。

しかし、物流の自動化の取り組み、例えばローソン、「冷凍おにぎり」で物流改革 食品ロスゼロにという取り組みは地方に分散する食品工場の必要性を逸させ、特定の都市に工場を集約することができてしまう考えだ。そして現在物流トラックの自動運転が研究されており[^1]、これが進むことにより地方の運送会社で働く人はいなくなるかもしれない。こういったことが進めば地方は衰退し、都市への一極集中が進むだろう。

地方の産業、特に一次産業は衰退の一途をたどっており、例えば農業においては就業人口と作付け面積が減っていることが報告されている[^2]。漁業も同様だ^3。畜産においては明確なデータが見つからなかったが、恐らく同様だろう。これに加えて先に言った食品工場の集約が起きれば、地方の仕事はなくなってしまう。つまり、もうそこには人が住まなくなるわけだ。現に現在でも地方の人口流出は起きており、特に東京一極集中が著しい^5。東京以外では愛知、大阪、福岡への集中もあるといわれており、地方から都市への人口移動が起きているのは明らかである。他にも最近では都心回帰といい、同じ自治体内でも都心に移り住む傾向がある。例えば東京都では多摩地域から区部へ、兵庫県丹波地域では市街地へといった風に、同一の都市内でもより都心部へ人口の移動が起きている傾向がみられる^7

これが進むと恐らく地方はなくなり、最終的に都市しか残らなくなるだろう。それで何が問題か?という部分だが、表面的な問題は実はないと考えている。地方から人がいなくなればまずコストが減る。例えばインフラの整備を始めとした税金の投入は減るし、輸送費なども減り、全体的に言えばSDGsに適うとてもいい話だ。

しかし私は都市化には問題があると考えている。私は都市は人口が過密で土地がないために、子育てに向かないという特性があると考えている。またこれによって子育てそのものに対して排他的な風潮が熟成され、電車などで子供が泣いたり暴れたりすると顰蹙の目を買いがちと言ったものもあると思っている。つまり地方からの人口供給が立たれた都市というのは寿命が限られているのである。欧米ではこれを解決するために移民政策をとっていると考えているが、これは国家の破滅だと私は思っている。その未来は異民族による支配と統治であり、恐らく元あった国家は異民族によって塗り替えられた結果、消滅する。そしてその移民さえもその国の中では破滅のシステムに乗っている限りは繁栄しきれずに滅ぶことだろう。

またもう一つの問題を私は覚えている。それは歴史と文化の消失だ。地方には古来続いた歴史と文化がある。その大半は生活苦から生まれた知恵や神頼みといったものだと思うが、これらは都市化や集落の消滅により徐々に消えて行っている。身近なものだと方言の衰退もそうだろう。もはや意思疎通が不可能なレベルの方言を話す人は高齢者でも中々いない。多くの日本人同士は意思疎通が可能になった半面、方言というのは失われたのだ。そして恐らく方言の衰退は歴史と文化の消失にも関係していて、これは日本が均一化した結果だと私はとらえている。

日本が均一化するとは、つまり日本国全体が各種法令や標準的な教育により一つになるということである。大まかにいえば北海道から沖縄までどこに住んでいようと東京都に住んでいるのと基本的な生活や文化は変わらないということだ。突き詰めると東京圏以外に住むことが無意味とさえ取れかねない。

例えば沖縄に住んでいても東京の映画は見れるし、東京に住んでいてもサーターアンダギーを食べることができる。どこの地域であろうと食べ物には賞味期限や材料など、法令に沿った内容が書かれている。しゃべる言葉も多少の訛りや、語尾の違いがある程度で差がなくなってきている。つまり最早東京以外に住む意味合いがなく、無駄になりつつあるのである。

昨今では子育て支援が求められていて、財源難だというが、例えば東京都を関東一円にまで拡大し、他の道府県を全て廃止し、それらの居住者を新しい東京都に移住させることで、今より節税にすることができるだろう。各道府県の道路や水道などのインフラを維持するのは無駄であるわけだ。恐らくこれを成し遂げることができれば短期間ではあるものの子育て支援として一子あたり1000万円の出産祝い金を出すことさえ不可能ではなくなると思う。まさに「異次元の少子化対策」である。

さて仮に類似企業の統廃合を進め一極化を行い、地方の廃止を行い関東一円に人口を集中させた場合、日本という国から無駄はずいぶん消えるだろう。よくやり玉に挙げられている自衛隊もかなり縮小できるし、他にもインフラなどの様々なものを縮小できるのでいろんなコストが削減できると考えられる。

世間様的には非常に良い取り組みだと思う。いっそのことこれを世界レベルでリードして世界の無駄をなくしていくのもいいかもしれない。例えば世界人口をアメリカに集中させ、世界規模で何もかもすべてを集中させる。SDGsや基本的人権、普遍的価値観に背く物は時間をかけて消してゆく。無駄の削減と世界平和が実現できて非常に良いかもしれない。

しかし果たしてそれでいいのか?争いがなく、人口が減り、無駄がなく、AIを始めとした機械に置き換えられてゆく世界になっていいのか?そこに向かって全力で進むのが果たしていいのか?

振り返ってみてほしい、人類が繁栄していたのはいつだったか?階級や身分を立て差別を行い、人口移動を封じ、地域に人々を閉じ込め、事故が起きようがどうなろうと国威のためであれば無視していた時代が一番栄えていたのではないか?無駄をなくした結果、人類は持続不能な社会を迎えていないかというのが私の究極的な疑問だ。

私が思うには人類繁栄とは、戦争を行い、地域を分断し、年齢など気にせず子をなし、腐ってなければ食べ、どんなに辛く苦しくても不屈の精神で生き抜いていたころではないかと思う。毎日90kgもある米俵を担いで歩く仕事と、机の上でキーボードをたたく仕事、どちらがより健康的だろうか?間違いなく前者である。

人類は無駄をなくし、効率化や合理化を目指せば目指すほど人類の衰退と破滅に向かうのではないかというのが私の今の考えだ。なので私は反対に無駄をしていくことにした。例えば物を買うときにスーパーマーケットではなく個人商店を優先したり、県内・市内産の食材や製品を優先するなどだ。どう考えてもスーパーで買ったほうが効率がいい。個人商店はクレジットカードが使えず不便だ。

私は大手資本に個人商店が潰されていく光景を余り見たくない。出来る限り長く続いてほしい。買い物をするときに店主と話がしたい。地元の農家に頑張ってほしいという思いがあるし、海外資本に決済が支配された結果、日本に蔓延る世界的人権と普遍的価値観に反する文化が排斥されていくのを黙って眺めていきたくないという思いでやっている。

仮にVISAやMasterに日本の決済が牛耳られれば、美少女系のコンテンツは根絶やしにされ、顔や自らの体を売りにしたアイドルや俳優もいなくなってしまう可能性がある。何故なら彼らは「国際的人権や普遍的価値観に背く」と言ってくるからだ。従わなければ取引停止や、果ては国際的な圧力をかけてくることだってあるだろう。ウクライナ戦争でどれだけの圧力がロシアにかけられたかは記憶に新しいところだと思うが、このままいくと日本はあれを笑っていられない立場になるという話だ。日本の均一化の次に起きるのは世界の均一化である。彼らは世界に存在する無駄を徹底的に排除していく。人権侵害や普遍的価値観に背くという理由でだ。そしてその先にあるものは国民国家の消失だと私は考えている。

そういう意味ではさくらインターネットがガバメントクラウドに指定されたことも私にとっては吉報だった。効率の面でいえばAWSなりAzureなりを作ったほうが賢い。しかしそうなってしまえば日本国そのものを他国の民間組織が間接的に支配できてしまう。理想は中国のように自国内で完結させてしまうことだが、あれは大国でないと難しいので仕方ないだろう。これは日本がまだ国としての意思を残しているいいニュースだと思ったので、応援していきたい。何せうちのサイトもさくらインターネットでホスティングしているしね。

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ジャンル::雑記ジャンル::思考

世の中には様々な文化、集団、思想、風俗、国家、地域などがあり、それぞれが違うというのが私たちが今いる現実だ。

欧米諸国が唱える人権や普遍的価値観にそぐわないものも沢山あるだろう、そして今後グローバリゼーションが進めば、ますますそのようなものは失われていくだろう。それは悲しいことだが、仕方がないことだ。

ただ一つ私が言いたいのは、失われた文化は決して悪しき文化ではなかったということだ。そもそもこの世に絶対的な善悪はない。ある人にとっての善が、ある人にとっては悪で、その逆もまたしかり、それこそが世の中だ。

だから、潰えた文化を過去のものだとか、悪しき歴史だとかと切り捨てず、昔はそんなこともあったんだなとか、今取り戻すとどうなるのだろうとか、その文化は当時どのような役割だったのか、そういったことに思いを巡らせることが出来たらいいのではないか。なんとなくそんなことを思ったので、ここにしたためておく。

世の中には様々な考えがある。その中で自分がどうあればよいのか、それこそがきっと人生というものなのだ。SDGsを守らない人、基本的人権を守らない人、普遍的価値観を守らない人、そう、悪い人は沢山いるかもしれない。しかし自分は自分で、他人は他人で、気にしないことが大切だ。

もし自分がこれらの思想に従う気がないというならそれもいい。そんなのは自由だ。思想統制されているあの中国でさえ、思うだけなら自由だ。なので、自分は自分として生きればいいのだ。

つまり、これは御座候を今川焼と呼ぶ人がいるから今川焼と呼ばないといけないとか、そうではなく、自分が御座候と呼びたければ呼べばいいということと同じ話だ。

人生は有限で、やれることは限られているのだから、そんな大変そうなことよりも、もっとくだらなくてもっと無駄なことに力を注ごう。そして自分の正義があるなら、それは貫こうという話だ。

最近気になっていることが増えてきたので幾つか書き出しておこうと思う。気が向いたり時間があればまた深堀していきたい。

個別に記事にすることも考えたのだが、今ひとつ考えがまとまらないのでこの記事はとりあえず今ある思いの丈を吐き出しておくという感じだ。

地方都市の衰退と日本の消失

前々から言われていることだが日本では東京一極集中が起きており、地方は衰退している。東京は地方から吸い上げつことで成り立っているが、最早地方には東京を支えるだけの人口生産はなくなってきている。つまりこのままいくと日本という国は滅んでしまわないかということだ。

東京は世界的に見ても稀な規模での人口集中が起き、大変な過密状態であり、地価が高く、子育てするにはあまり向かない土地柄というのがある。これは家が狭いとか、就業住宅で子供の声が騒音になるなどがあると思う。また公共交通機関の利用が主になるため、ここでも騒いだり暴れたりする子供の存在が問題視されがちで、やはり子育てには向かないように思う。

個人的には日本を立て直すには東京一極集中を解消し、地方に分散させることで地方を賦活化させることがカギになるのではないかと思う。また地方独自の文化や風習の復活も必要だと考えている。これは無理に地方に分散したところで結局どこでやっても変わらないことをしているのであれば戻す意味がないからだ。

ではどうすればいいかというと、例えば関西では薄口しょうゆ、関東では濃口しょうゆのように、東西でしょうゆの文化が違ったり、ある地方では食べるが、ある地方では食べないものがあったりしたと思うが、これをやっていくことだ。今はしょうゆは濃口しょうゆに統一されようとしており、薄口しょうゆの影は薄くなっている。神戸に住んでいてもそう感じる。これは実際に売り場に行けばわかることだ。ヒガシマル醤油(兵庫県)がキッコーマン(千葉県)に駆逐されかけている。

自由競争の結果と言ってしまえばそれまでだが、このままでは大手企業だけが生き乗り、市場は寡占化され、企業競争力や多様性は失われることだろう。そして、地方も弱体化する。私は今のところそう考えている。これは何も醤油に限った話ではなく、スーパーマーケットがイオングループの支配下に入りイオンブランドばかりが売られるようになる現象や、国産農作物の収穫量が減り輸入作物におされることで、国内農家が衰退して行く様子などもその一つだと考えている。

このままいけば地方の存在意義そのものがなくなると思うのだ。例えば国産作物より輸入作物のほうが安いし、安全上も問題がない、国産は高いだけといえば、地方の主力産業の一つともいえる農業は衰退してしまう。ただでさえ一次産業くらいしかない地方から農業さえ取り上げれば地方はますます衰退するだろう。ローソン、「冷凍おにぎり」で物流改革 食品ロスゼロにみたいなのも生産工場を一極化できてしまうので、こういうのが進むのも危険だなと考えている。割と地方というか、田舎には食品製造工場が多いのだ。山奥とかによくある。

他にも地方を衰退させる変数はたくさんある。例えば標準語教育だ。標準語教育によりその地域に根付いた方言は消滅の一途を辿っている。方言があると他地方の人間と交流しづらく、意思疎通差の困難さや文化の際による障壁が生まれるため、人口移動が抑制されると考えている。他にも地方の文化、祭りや式典、芸能の衰退など、多岐にわたるだろう。

余談だが鉄道廃線が人口に与える影響の因果推論 - 日本地域学会によると、鉄道路線の廃止はあまり影響しないとされている。個人的に見ている中では廃線対象の鉄道は元々旅客輸送用途でなかったものが多い気がするので、単に地方産業が衰退した結果、本来の用途で利用されなくなり廃線になっているのではないかと考えている。

人権主義と国民国家の崩壊

昨今グローバル化が叫ばれ、特に人権が非常に重要であると欧米諸国は声高らかに叫んでいる。私はこれが将来的に国民国家の崩壊にならないかというのを危惧している。

まず日本においては人権問題に関する指摘は内政干渉にならないと外務省が名言している。

人権及び基本的自由は普遍的価値であること。また、各国の人権状況は国際社会の正当な関心事項であって、かかる関心は内政干渉と捉えるべきではないこと。

これは人権を盾にすればいかなる内政干渉も通るという国家の脆弱性といえる。こんなのを認めてはならないと私は思っている。理由は単純でこの普遍的価値とやらをすべて認めてしまうと世界の全ての国が標準化され、最終的に国民国家が崩壊すると考えているからだ。

この人権というのは非常にあやふやな概念で、特に定まったものがあると思っていない。何なら自分自身の人権を無自覚のうちに侵害してる可能性すらある定義だと思っている。例えばグラビアアイドルやAV女優という職業は女性の人権侵害をしている可能性があるので、自分自身で自分自身の人権を侵害している可能性がある。例え本人が好きでやっているとしてもだ。こんな仕組みに意味があるとは私は思わない。

また基本的自由というが、人権侵害という言葉の前に日本にかつて存在した様々な自由は失われて行っている。元々欧米では表現規制が強く、ぶっちゃけ表現の自由など存在しなかった。行動の自由さえ時として制限される。例えば欧米ではヒジャブなどの着用を禁止する法律が幾つかの国にある。^1 [^3]

また欧米ではナチスに対して言及することを禁じている国も一定数存在し^4、ナチスを表現した場合、非常に強いバッシングを受けるのは有名な話だと思う。

他にも暴力や児童虐待に対して極めて強い規制が存在し、FF14でもララフェルのデザインに苦心したという話がどこかにあったと思うのだが、見つけられなかった。代わりに参考になるフォーラムを見つけた。確かララフェルについては人間に見えないようにしているという内容だったと思う。他にも水着なども欧米基準でポルノにならないように配慮しているとかなんとか…。

さて前置きが長くなったが、欧米には他にも様々な人権規制が存在する。ではそのような国は自由なのかといえば、それは不自由だと思う。

こういった人権問題を解消すると副次的にその国の文化が失われたりしたりする側面もあると考えている。人権侵害だからやめろというのは簡単だ。しかしそこで滅んだ文化が戻ってくることは、きっと恐らくない。そして、それを繰り返すうちに世界中の国が同質化してしまわないだろうか?というのが私の懸念だ。

世界中の国を欧米を同質化するのに対して、私は反対だ。人権なり基本的自由というのはその国々に解釈があっていいと思う。これを十把一絡げに統一してしまえば、国民国家の存続問題になるのではないかと危惧している。これはすべての国が同一の文化と法を持つのであれば分ける意味はもうないからだ。正直どの国家も欧米から見れば差別的で人権的に問題のあるシステムでやってきたのだ。それでいいじゃないか。欧米みたいに奴隷を残虐に扱うような持つ国を私は知らない。「黒人だから物のように扱っていい」みたいな思想があれば、それは差別防止が必要だろうが、それがなかった国にまで人権を押し付けるのはどうかと思う。

私は欧米には欧米の、中東には中東の、アフリカにはアフリカの、アジアにはアジアの、日本には日本の法制があってしかるべきだと思っている。それが例え他国からいかように非難されるものであれ変えてはならない、掛け替えのない資本だと思っている。長年続いている大抵の制度には何かしらの理由があると思っていて、それを壊すと恐らく取り返しのつかないことになるのではないだろうか。

参考までに日本の文化保護といったことを訴えるなら、イスラム諸国にある非人道的な刑罰や女性差別といわれる概念も、同様に支持しないと面目が立たないと思っている。そこを否定していればなぜ日本だけを特別扱いする必要があるのか?となるからだ。
またクレジットカード会社の存在も脅威だと考えている、例えばVISAやMasterが強い支配力を持ち、現金決済がもし滅んだとすれば、資金というものは一民間企業が牛耳ることになる。例えば日本が女性の性的消費を辞めないことに欧米がしびれを切らしたら日本国内のVISAアカウントを全て停止するといった措置も取れるということだ。そうでなくとも、日本は欧米の支配下に置かれ、欧米に従わないと何もできなくなってしまうだろう。別にこれは日本だけの話ではない。もっと深刻なのはイスラム諸国だと思っていて、イスラム法の廃止を言い渡される可能性すらある。

そうでなくとも今の欧米諸国の権力は絶大であり、中国やロシアに経済制裁を課すなどの重圧をかけてくる事がある。いずれ日本も対象になる可能性がある。そういったことが続けば欧米諸国以外は弱体化し、やっていけなくなる可能性があるのではないかと考えることもある。欧米諸国もアメリカ以外は正直怪しいが(自分らで作った人権政策で自滅してるように見えるので)…。

女性の活躍とは何か?

女性の活躍という言葉が最近人気だが、女性の活躍とは何だろうか?多分大抵の人は女性の社会進出くらいにしか考えていないと思う。

私は女性の活躍の終着点は男性の淘汰だと考えている。男性がいる限り女性は活躍できないからだ。これは身体能力は男性のほうが高いため、肉体を伴う労働では女性が不利になるからだ。つまり男性に差別する気がなくても自然に差別が起きる。パワードスーツをつければいいというのもあるとは思うが、設備費もただではないし、平等であるためにはパワードスーツが不要な男性にもつける必要がある。しかしこれでは男性側の健康を損なう可能性があると思う(男性は運動不足になる)。果たしてそれでいいのだろうか?と考えたときに男性を消し飛ばすのが最もいいやり方だ。

まず男女が完全に平等であるというのは生物学特性から無理があるので、もう少し考え直したほうがいいと思うのだが、一旦ここでその話は置いておく。

個人的には欧米ですら女性の活躍には失敗していると考えていて、今後も成功するかどうかには疑問がある。例えばGoogle, Amazon, Meta, Microsoft, Apple, ゴールドマン・サックスといった欧米の名だたる大企業のトップは男性である。海外はわからないが、日本では女性の起業を阻止する法律は私が知る限りなかったと思う。旅館の頭を女将というが、トップは基本女性だったのではないだろうか?つまり女性による経営が可能な社会だったと考えている。ではSONYやNEC, 富士通, 東芝といった企業を作ったのは女性か?といえばそれは違う。男性だ。

何故女性は大企業を作らなかったのか?というのは一つ考えてみてもいいポイントだと思う。逆に中小零細規模の企業や団体であれば日本国内では女性がトップであるケースも少なくはないと思う。例えば高知県では女性たちが集まって「とまとみそ」という製品を生産しているし、神戸市でも女性たちが北神みそという神戸市の食材を使った味噌を生産している

個人的には歴史を辿れば男性は人をまとめて狩猟を、女性は集落を守るといったことをしていたと記憶していたので、男性のほうが物事を統率する能力に長けており、その差から来ているのではと考えているが、特に根拠はない。

女性の活躍といっても単に女性の正社員サラリーマンが増えただけで、果たしてそれが良い活躍なのだろうか?ソースは失念したが欧米では女性の社会進出に伴い幸福度や平均寿命が下降傾向で、性犯罪率が増えているという情報を見たことがある。まぁ専業主婦のほうが長生きできるのは自明なのでこれは当然だろう。これは平均寿命は自殺者がいる場合も減るためで、基本的に社会人は自殺しやすい、日本は自殺者数が多いといわれているので尚更だが、欧米でも自殺するための手段として嘱託殺人(他人に銃を向ければ殺してくれる)があると聞くので、この割合如何では大差ないのかもしれない。

私は女性の活躍は社会進出も一つの選択肢だと思うが、企業労働や政治家などになることだけが活躍でもないと思う。例えば地域の自治会や、婦人会といったようなものを取り仕切ったりするのも立派な活躍だろう。道の角にある花壇の養生や、お祭りの手配、道路の掃除、声掛け運動、クリーン作戦など、様々な活動があると思うが、これらも立派な活躍だと思う。むしろ婦人会の会長のほうが肩書のないサラリーマンより立派である可能性もある。

AIによる人類の淘汰

ここ最近やたらもてはやされているAIだが、個人的にはAIの存在に危機感を覚えている。それはAIによって人類が滅亡に追い込まれないかということだ。

GPT4を使った人がある人ならわかるだろうが、現時点でもそこそこ賢い。恐らく日当一万円くらいの人がやる仕事なら代替させることも出来なくはない程度のクオリティだろう。

そして今AIは様々な分野に取り入れられ使われているが、身近で使っている人を見ると例えばシステム開発の全工程をAIにやらせるとか、発表資料をほぼ丸ごと一本AIに作らせるといったことをしている。

学生でもAIを使って問題を解くというが、このままいくと人間はAIに指示を出す装置になってしまうのではないだろうか?というのが一つ目の懸念だ。ある程度人生をやってきた人ならわかると思うが、人間は自分でやらなかったことは次第にできなくなってゆく。いわゆる「若い時にはできたのに」というやつだ。これがより進めば義務教育などの学習過程が無意味になり、人間の存在意義そのものがAIに取って代わられる日が来ないかというのを考えることがある。

実際、少子化なども相成ってAIや各種機械を使った無人化の取り組みは昨今かなり加速してきている。そのうち自動車や電車、船舶や飛行機の操縦はAIがやってくれるかもしれない。音楽やイラスト、小説もAIが書くし、それらを鑑賞した感想もAIが書く。もしこうなれば人間は最早不要である。しかし、そうなったときAIの存在価値は何だろうか?人間がいなくなった世界で未来永劫同じことを繰り返し続けるだけの装置として動き続けるのだろうか?

この話はディストピアのような内容ではあるが、起こっても不思議はない未来の一つだと思っている。但し今のところAIは消費電力がえげつないので、どこまで普及するのかについては疑問符がある。

個人的にはAIに課題を見つけてもらい、AIにレポートさせ、AIに解決させるとかいう風なのは人間の介在価値が無に等しいので、この仕事スタイルはしないことにしている。(やっている人は既にそれなりにいると思う)

人間は無意味な作業や苦痛な作業を日々繰り返していると嫌気がさし、改善を考えたりイノベーションを起こすことがあるが、AIや自動化された設備にそんなものはないと考えているので、人は常に苦痛を味わい物事を考えていくべきだとさえ考えている。

わいせつ物の定義

昔から度々話題になって気になるネタだったのだが、最近個人的な見解ができたので書いておく。

e-gov法令検索の刑法によると以下の記述があり、これがしばしば問題になっていると考えている。

(わいせつ物頒布等)
第百七十五条 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。

まず「わいせつ物」に関しては特に定義がない認識だ。恐らくこれを定義することは人類には不可能だと考えている。誰か要件定義できる人がいたらしてほしい。冷静に考えると無理である。

一般的に「わいせつ物」は性器が露出したものが該当すると思っていて、このうち性器には修正を施すことで「わいせつ物」でなくなるとされている。では何故性器を隠すことで除外されるかについてだが、恐らく他に基準を決めようがなかったのだと思う。なので法文には書かれておらず、過去の判例から慣例的に処理されているのではないかと考えている。例え無意味であろうと基準がないと運用できないので仕方がない。

Googleなどが作ってるエロ画像判定AIの判定基準が塵ほども当てにならないことは非常に有名だと思っているので、多分この問題は永遠に付きまとうだろう。そもそもわいせつの定義が人によって大きく異なるので、この問題を正攻法で対処する事は諦めたほうがいいと思う。

なお性器に修正を施したところで販売が可能になるだけであり、それを公に見せつけたりすればわいせつ物頒布等の罪に問われる可能性はある。わいせつ物頒布等というのは非常に弾力的な運用がされていて、例えば海水浴場で水着姿でいることは問題ないが、ショッピングモールで水着姿でいる場合、この罪に問われる可能性がある。つまり適切な場所で適切な表現がされていない場合に、わいせつ物頒布等の罪に問われるわけだ。

なお、性器に修正を掛けていない状態だと販売すらできない理由についてはよくわかっていない。女性の権利保護みたいなのが関係している可能性は考えられるが、正直まともに機能していない気もしており微妙な気持ちはあるが、こういう些細な部分をなくすと風が吹けば桶屋が儲かるの原理で全く関係ない場所で重大な問題が起きることも無きにしも非ずなので、基本的にはこのままでいいのではないかと思う。

ふるさと納税の意義

このネタは面白そうなので一回腰を据えて調べたいと思っているが、一旦今回は速報版程度で書いておく。

ふるさと納税を使うと地方に足りない財源を補う事ができるとされているが、ふるさと納税では寄付額の3割が返礼品に充てられるというが、他にも通販サイトの運営費や、決済手数料、事務手続きなどの費用が発生しているはずだ。これは総務省の資料からも読み取ることができ、返礼品と経費の合計は5割を超えてはならない[^6]とされている。つまり最大で半額が控除されることになる。

またふるさと納税では寄付を行った側の自治体が赤字になる[^7]傾向があり、赤字分は地方交付税で補填されているという話もある[^8]。勿論、不交付団体は対象外だ。

さて、こうして考えると本来納められる税額のうちおよそ半分が虚空に消え去り、そこで出た赤字が国税で補填されているように見える。交付された自治体も泉佐野市のように[^9]額が多ければ利益になるだろうが、そこまで多くなければ単に事務手数料として消えるだけだろう。受け入れるのもタダではないはずだ。

そう考えたときにこの消えた税額というのが増税で打ち消されたりしてはいないだろうか?というのが私の懸念だ。もしそうであればふるさと納税など一日も早くやめ、今まで通り地方交付税交付金で解決したほうが良いと思う。バランスが悪いのであれば調整すれば済む話だ。それに不当な配分が行われている森林環境税といった無駄な税金を整理することで、もう少し増税も抑えることができると思う。例えば渋谷区には森林がないが森林環境税が交付されている[^10]。渋谷区はこれを単に積み立てているというが、これはタダの無駄である。渋谷区は八王子市にでも全額寄付したほうがいいだろう。

人間の存在価値

単純作業の繰り返しのような仕事について「こんなのは人間のする仕事ではない」という言葉をしばしば聞くことがある。では「人間がする仕事」とは何だろう?

先の女性の活躍や、AIの話と被るところもあるのだが、とどのつまり人間は何をするべきで、何のために存在しているのかというところである。AIが何でもしてくれるなら人間はいらないし、婦人会も女性差別だからいらない。東京以外の地方が都民の税金を食いつぶしていると言う話[^11]もあるので、この理屈でいえば地方の人間はいらない。

では、果たして必要な人間とは何か?

これは今流行りのSDGsにも繋がる話だと思っている。なぜ人は生きる必要があり、人や国の不平等をなくす必要があるのか?人や国の不平等をなくすというのは究極的には国民国家の破壊であると私は考えている。例えばその国の風俗とは別の国にはないもので、これは不平等であるといえる。では、もしこの目標が達成されたときに、人は一体何のために生きるのか。

個人的には各社の企業理念や、SDGsのようなスローガン、国際社会の動きや、日々の社会生活などを見ていると、人や国民国家、各地に伝わる風俗は何のためにあるのか、その歴史と伝統は本当に失ってよいものなのか?とか、そういうことを考ええるのである。