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今のインターネットは大きくなりすぎた、私は最近よくそう思うようになった。対して昔のインターネットは狭かった。Webサイト、いやホームページというのは数も知れていて、その界隈の大手HP、著名人というのは手が届く存在だった。BBSなどで草根の交流も盛んで、こじんまりとしたオフ会というのもまま開かれていたと思う。

しかし今は大きくなりすぎた。もはや個人サイトというのは大半がよくわからないアフィリエイトブログだ。掲示板なんてものも息をしているのはそうそう見つからない。化石のようなサイトでいまだに常連がいるようなところもあるにはあるものの、そんなのはごく一握りだ。大抵のサイトは消滅し、SNSに潜ったり、ネットから消えたり、果ては中の人が天寿を全うしている例さえある。

SNSでは日々センシティブな話がやり取りされており、激論が繰り広げられ、炎上したり、しなかったりする。炎上してしまえば直ちに個人や零細企業は社会的信用を失ってしまい、おしまいだ。個人レベルで見ればすべてのアカウントを切り捨てて転生するとかいうのもある。かくいう私も幾度なく転生をしてきた人物の一人だ。但しそれは結構昔の話であり、今でいう炎上ではなかった。

私は古きインターネットがよかった。私ももう、いわゆる老害というやつなのだろう、すっかり懐古厨になってしまった。全盛期のROやECOを懐かしみ、今の流行には目もむけなくなった。立派な老人だ。

昔のインターネットはネチケットに問題があれば先輩者から指摘を受けたり、灸を据えられたり、今でいえば人権侵害ともいえることが横行していた。しかし、私はあれがよかったと思う。だからこそインターネットには秩序があった。便所の落書きと言われた2chでさえ、半年ROMってろという言葉があったほどだ。

それが今はどうだろうか?下手に指摘指摘すれば何が起きるかわからない。もはやインターネットにかつてあった秩序はない。意味不明な忖度と、それを破る無法者のような、よくわからない世界が広がっているように私は思う。時代遅れと言われればそれまでだが…。

私は最近物足りないと感じることが増えた。刺激がないからだ。かつては刺激があった。そう、私はMMORPGを満喫していたからだ。当時のMMOは今のものとは違い、毎日出会いがあった。今のMMOには出会いがないと思う。例えばROであれば臨時があった。臨時では一時間ないし、数時間毎回違う面々と顔を合わせ、ダンジョンをその時々のスタイルで攻略していた。やっていることは同じでも、定型作業はあまりなかったと思う。とてもアナログで楽しかった記憶がある。そこに効率なんて言葉はあんまりなかった。非効率でもよかった。だって楽しいから。同じダンジョンに行くだけでもV騎士が前衛をすることがあれば、ぷち強い武器でタゲをとること以外何もできず、あまつさえはPTを壊滅させるような弱いAGI職もいた。それでよかったのだ。最後はみんな笑って済ませていたから。

私はそんな稚拙でしょうもない世界が好きだった。しかし世の中は変わってしまった。もうそのような世界はどこにもないし、あってももう私は見ることができないのだろう。何故なら私は社会人になってしまったからだ。

かつてMMOを楽しんでいた当時、私は授業中寝ている学生だったり、フリーターだったり、ニートだったり、或いはネトゲに没頭し、仕事をまともにしないダメ社会人だった。しかし今の私はもうそれをやめてしまった。切欠はMMOの過疎化やサ終にある。それに伴い、私は徐々にMMOから離れていった。代替となるタイトルも探したが、ROやECOのようなものはどこにも見つけることができなかった。かつてのRO民やECO民が今どうしているのか、私は全く知らない。きっと現実に帰ったり、FF14やVRCをしていたりするのだろう。でもきっとあの頃の充実感がある人はいないのではないだろうか?

FF14にはROやECOにあった臨時や野良の概念は薄い。CFでコミュニケーションが生まれることなどないし、ROやECOのように募集を見て知り合いが来るといったイベントは仕組み上あり得ない。募集であれば多少その要素はあるが、根本的にチャットをするようなゲームではないので、そのあたりに期待はしづらい。つまりFF14は不特定多数と同期的にゲームができるだけのゲームということだ。少なくとも私にとってはそうだった。

それでもFCに入れば、固定のメンツではあるもののある程度コミュニケーションは取れていた。しかしFF14の別名「絆オンライン」という名前からして、そういうのは長続きしなかった。FF14は不正防止や平等性などの観点から様々な制約が課せられており、またコンテンツによっては非常にストレスフルになっており、失敗が許されないとか、面倒ごとが起きると仲間割れが起きたり険悪な雰囲気になりやすいといった特徴がある。

例に漏れずFCは高難易度コンテンツで何かトラブルが起き、空中分解した。私もFCの空気の悪化があり、長くいたFCになじめずにいた。これはFCで固定を作るときに私の知らないところで話が進んでいて、何故かハブられていたというのと、時折FC固定に入れないなんて寂しいねと煽られていたような気がしていたからだ。因みに私はこの時別の固定に入っていたので彼らが何を言いたいのか理解できず頭痛の種の一つになっていたが、最終的にFCに加入し続けるものの、関わらないほうに倒した。FCでは時折内紛が起きており、見ていて疲れたのもある。

そして私の入っていた固定も毎日無断で遅刻してくる上に、予習をしない上に、愚痴を言い散らかす人物がおり、リーダーとその周辺メンバー以外からは少し煙たがられていた。野良より進みが悪く、やっていても楽しくなかったので私はここでFF14から手を引くことを決意した。既にこの時に私にとってのFF14は義務だったのである。楽しいからやるというより義務感でやっていた。

FF14も最初のころは楽しかったのだ。わだかまりもなく、IDもCFではなく気の知れたフレンドや、街で知り合った人と行けていた。しかしそういうのは徐々にできなくなっていった。音楽性の違いというやつである。これはROやECOではまず起きなかったすれ違いだった。

そう、FF14は成熟しすぎていたのだ。稚拙さはなかったし、プレイしている学生もやたら意識が高い。いわばスポーツである。ルールを守ってプレイできているうちは楽しいが、やる気がない奴が着たら楽しくなくなる。昔のMMOにやる気なんてものはほぼなかった。全員やる気に満ち溢れていたし、役立たずといわれる人はまず滅多に見かけなかったからだ。それほどまでに熱量の高いコミュニティだった。ある意味全員やる気があり、やる気がなかったといえるかもしれない。

おそらく私がネットに求めてることは、かつてのインターネットにあったような稚拙さ、意識の低さなのだと思う。今は心理的安全という言葉が流行っているが、昔はそんなものがなかった。各々が好きなことを言い合い、それで成り立っていたからだ。今はそうではない。何を言っていいかは決まっていて、そのルールに沿う必要がある。常に正解があり、それ以外は不正解ともいえる。不正解は悪で、排除しないといけない、そんな風潮があると思う。多分SDGsとか基本的人権や普遍的価値観とやらのせいだと思う。

そういう事を考えていると私は昔のインターネットが懐かしくなる。いろいろ考えることなく、素直に自分の意見が発信できて、それに対して何かしらの反応があった世界。狭いインターネットだ。今は広くなりすぎた。広くなりすぎるとルールが生まれるし、個人の発言なんて炎上目当てで言ったことか、よほど有識者以外は何を言ったところで返事は期待できない。

ROやECOで出会った人々、ギルドやリングの人、相方たちは今何をしているのだろうか?きっと幸せに過ごしているのだろう。FF14でも相方を作ったが結局上手くいかなかった。残念だ。人生で私に相方ができることはもうないだろう。ROで最後に作った相方とは一昨年オフで会う機会があったが、彼はもう私の知らない人になっていた。一番最初の相方の名前はもう思い出すことすらできない。せめてスクリーンショットが残っていればと思うのだが、ROとECOのスクショは色々あってECOをやめたときに消してしまったので思い出す材料さえない。

しかし、ふと思い出す面々もいる。秋田県の彼は映画監督になれただろうか?結婚し基本情報対策に熱を入れたたという、よく炭鉱についてくれた彼はどうしているだろうか?博麗神社が好きで、HDDにMP3を詰めて送ってくれた横浜の彼は今どうしているだろうか?誘っても誘ってもボス狩りに興味を持ってくれず、偶の誘いに乗ってくれた彼女は今どうしているだろう?いつも私についてくれて私のわがままを聞いてくれて、私を振り回してくれたあの子はどうしてるだろう。Zodiacのみんなはどうしているだろう?

他にも、もはや知ることはできない人たちは多くいる。きっと今会ってもお互い理解できないことも多いのだろう。

私のサイトのオエビで絵をかいてくれたあの人は、三重県で暮らす鉄道好きな名古屋なあの人は、チョロQ研究所で出会ったアキバンさんや、ドーモ君やTQMF氏、その他の人たちは、いったい今どこで何をしているのだろう。きっと会ってももう話すこともないのだろうけど、彼らと出会ったような古く狭いインターネットが、また欲しい、私はそう思ったのだ。

インターネットが特別な場所だった時代、何もかもがキラキラしていたあの時代、初めてプロンテラに降り立った時の感動、パッチのイベンターとして活躍した日々、歴代の相方とボス狩りをした記憶、レンタカー屋に聖斧を精錬してもらったあの日、アップタウンに入れた時の感動、頑張ってゴールドサインをとった時の感動、全部よかった。

インターネットはあまりにも大きくなりすぎた。もうあの頃のような楽しさや出会いが生まれることはないのだろう。検索すれば検索したものが出てきて、有識者がまともな解説文を書いていたり、サイトごとに個性があったあの時代、何もかもすべてが新鮮で、毎日が輝いていた古く狭いインターネットが懐かしい。

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ジャンル::サイト運営

今回はトップページのCSSやHTMLの構造の見直しを行った。

以下は整理前と整理後での行差分の比較だが、削除行が多いことがよくわかる。

行差分の比較画像。大幅に行が減っている事が伺える

以下は現在のトップページだが、実は左右のカラムと上下のコンテンツの各4セクションで使っているCSSが全く別物だった。これはHTMLの階層構造に対してCSSを当てていくという大罪をしていたからでもあるが、HTMLにCSSのクラスを書きたくなかったのもある。ただそれだとメンテがしづらいのと、やはり共通化しておきたいなということでAboutやSNSのような部分をlevel2_indent、その下にあるテーブルやBlog, Developmentのような部分をlevel3_indentとして、全体を共通化した。

トップページ

要するに、タイトル行からその下をインデントさせているので、このインデントという単位に抽象化したのだ。

またフッター部分もSponsoredとRootsは元々左揃えの縦並びにしていたのだが、力技でレスポンシブ対応していたのもあり、ズレることがあった。これも妙な拘りを捨てて横並びにした。

結果として見通しは良くなったと思うし、全部のUIがある種の部品化したので、今後のメンテはしやすくなったと思う。この思想を維持したままであれば、CSSのすり替えで見た目を変えるといったことも多分やりやすくはなると思う。やるかどうかは謎だが…。

しかしまぁ、トップページもだいぶ完成形に近づいてきたと思う。何が完成なのかは全く考えてないのであれだが…。

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サービス::その他ジャンル::雑記

ここ数年、誰かと話をしたりしているときに話のネタ元を探すのに苦労することが増えた。恐らく昔は根拠なく話していたことが、今は根拠を求められたり、必要になるケースが増えたからだと思う。相手を納得させる話には説得力が必要で、それには根拠があると捗るためだ。

例えば、「以前ほげほげで見た話なのですが~」と切り出したときに「ほげほげ」がどこだったかというところだ。私は大抵の情報をWebから得ているので話の元には大抵URLがあるのだが、これを失念していると根拠が出せないうえに記憶が壊れているケースもあり、誤った情報を話してしまうことがある。しかしこんなのを普通にブックマークしていても探すのが大変だし、ブックマークもすごいことになってしまう。そこで、記憶のインデックスとしてソーシャルブックマークを使うのはどうかと、ふと思いついたのだ。

最初はdeliciousを使おうと考えたのだが、これはサービスを終了していた。Diggも頭の中を過ぎ去ったが、今ひとつパッとしなかった。そこで行き着いたのがはてなブックマークだ。

ここはインターネット黎明期のころにインターネットをしていた人たちにとってお馴染みのサービスだろう。私も黎明期にはよく使っていたが、その時は特に理由もなく、流行で楽しいからという理由だったと思う。

しかしある時を境に私は利用をやめてしまった。理由はホッテントリの存在である。控えめに言わずとも荒れているし、スパムも多い。これは別に最近に始まったことではなく、以前からこうだった。最近はより酷くなってきている気さえする。しかし別にホッテントリを見ずに純粋に自分だけのブックマークとして使えばいいのではないか?そういう部分に気づいたのである。他者を気にせずに使う分にはストレスがない。そう思い使い始めることにした。

取り合えず今は思い出したときに、過去に見つけた有益情報をブックマークしていっているところだ。きっといつか情報を引き出す時に役に立ってくれることだろう。そう思い今は登録するフェーズにいる。勿論、過去だけではなく、現在見つけた情報についても関心があるものはブックマークしていっているが、どちらかというと過去を引き出したい側面の方が今は強い。

現在私のブックマークは技術的なものや地域の話題のようなものが多い。特に技術の話については引き出しから出したときに中身が抜け落ちていることが多々あるので、これをインデックスの一つにして、すぐに引き出せるようにしておきたい。

ここからは余談だが、実は久々にはてブを使うにあたり、IDの再登録をした。これは過去に、はてなというサービスに失望してこのIDを消してしまったところに所以する。

悲しいことはIDがアッパーケースで登録できなかったところだ。今のIDはlycoliaであって、Lycoliaではない。過去のIDが再び取れたら最高だったのだが、まぁ昨今のサービスだとなかなかないだろう。大昔はよくあったものだが。

まぁ、世の中には小文字しか使えないサービスもあるので、それと同じだと思えばいい。正直大文字が使えるサービスでも小文字で登録しまっている例があるので、深く気にするだけ負けだ。中には過去にアカウントを作ったが消してしまったので、既に使えないサービスもいくつかある。今後はIDを不用意に消さないようにしていきたいものだ。(とはいえIDが多いと管理コストもかかるので難しいところではあるが)

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ジャンル::雑記ジャンル::思考

最近仕事での身の振り方や、世を生きるための処世術で悩むことが多いが、一定の方向性が見えてきたのでここに書き記す。

まず結論から書くと「自分が正しいと思ったことをする」ということだ。理由は後述する。

まず悩みについてだが、正解がないことへの正解を出すことに悩んでいた。

例えば上司から「バナナを売ると儲かるらしいからバナナを売って儲かる方法を教えてくれ」と言われ、この上司がバナナを売ることに痛く固執している場合があったとする。バナナを売ること以外を提案しても耳を貸さず、バナナこそが絶対で、バナナ以外に道はないといった具合だ。

私はバナナを売って儲かる方法を考え続け、バナナ以外の選択肢は考えず、ChatGPTにバナナを売ることで年商10億円に達する、絶対に失敗しない銀の弾丸を聞いたりするが、当然答えは得られない。内心上司はアホなのでは?と思いながらやっているわけだが、事実上司はアホである。しかしそのアホに従う私もまたアホなのだ。

しかしこれでは駄目だと思った。私は恐らく上司を変えないといけない。何せ上司は赤字になろうとバナナを売ろうと言い出す始末だ。最早上司に当初の目標はなく、バナナを売ることだけが目的になりつつある。

要するに上司はどうにかしてバナナを売りたいのである。バナナが売れさえすれば後のことはどうでもいいのだ。会社の業績など関係なく、我を失っている状態ともいえる。バナナを売ることができれば実績を作り、御旗を立てられるとでも思っているのかもしれない。

この様な時に私がすべきことは、上司に従うことではなく、上司を導くことではないか?と思った。上司をバナナの妄信から解き放ち、バナナ以外の道へ誘導するということだ。

ではそういった時にどうすればいいのか?まずバナナを売っても儲からないということは肌感で分かっているのだが、根拠がない。なので、まずは根拠を出す、バナナが難しければ何か説得に繋がる根拠を出すのだ。

しかし「バナナは儲かりません。理由はこうあり、これによってこうです。」と正論を述べたところで上司は不機嫌になるだけだろう。なので、代案を出す。

代案は最低でも二つ以上、更に互いの優劣を出せると恐らくより説得力が出せるだろう

つまるところこのケースで私がすべきことは上司が求める期待通りの模範解答を絞り切った雑巾を絞る思いで出すのではなく、暴走する上司を止め、説得する材料を作り、導くことなのではないかと思ったのである。

他にも類似の悩みは多くある、欧米社会が喧伝する人権及び基本的自由は普遍的価値やSDGsに関してのことだ。これらに関しては何が何でも従わなければならず、これに従わないことは犯罪であるような印象が私の中にある。しかし私はあまり従いたいとは思っていない。これは私は私の生き方をしたいし、なぜ法律ですらないものに従わなければならないのかと思うからだ。いや、仮に法律でもこんな矛盾に満ちた内容に従う気はさらさらない。

正直私は各国の歴史と風俗を「人権及び基本的自由は普遍的価値」という名前で破壊していく欧米が嫌いだし、こんなものはなくていいとさえ思っている。恐らくこの主義の向かう終着点は国民国家と法の破壊で、全てをEUに一極化し、自分たち以外の異文化を排除するところにある気さえしている。参考までに日本の外務省は「人権及び基本的自由は普遍的価値であること。また、各国の人権状況は国際社会の正当な関心事項であって、かかる関心は内政干渉と捉えるべきではないこと。」と発表しているため、日本は破壊される側である。

まぁそれはそれとして、これから必要なのは「誰かがそういったからそうやる」とか「上司が言うので、言われたとおり、期待通りにやる」ではなく、「自分の立場を明確にし、自分が思うことをする」ということだ。

これまでも私は他社の言論に対して指摘するときに極力「正しい・間違っている」とか「良い・悪い」という表現を避けてきた。避けていても相手によってはそう取られることはあるのだが、まぁ個人としては避けてきたのだ。理由としてはいかなる論説にあっても正誤はないと考えているからだ。但し法律や方程式のように、そのスコープ内では存在するので、それは指摘する。スコープの外であれば指摘しない。

例えば現実世界で人を殺すことは日本国においては犯罪であるが、戦時ではそうでない場合があるし、ゲーム内であればどうでもいい話だ。なので単純に「殺人は良いことか?」と聞かれれば私は一概に善悪の判断をしない。戦争やPKゲームの中の話なら殺せば殺すほどいいだろうし、仇討ちでも仇となった側からすればそれは良いことだと思う。勿論、殺される側にとってはたまったものではないだろうが…。

こういった具合に物事を相対的に見ることに努めているのだが、その先で出てきたのが今回の考えというところだ。

究極的に正誤や善悪はその立場によって異なり、絶対的なものはなく、相対的なものであるとしたときに、絶対がないのであれば自分がやりたいことをすればいいというのが私の考えとなった。

この考えにたどり着くまで様々な人と話し、色々考えてきたが、決め手になったのは「答えのないゲーム」を楽しむ 思考技術という書籍だった。私はまだこの本を読み切っていないが、この本には答えのない問題に対する対処法や、反対意見を持つ人との穏当な渡り合い方などが書かれているようなので、是非とも参考にしていきたいと思っている。

まだ三割ほどしか読み進めていないが、非常に実践的で、相手に腹落ちさせるための議論の進め方が書かれた本だと思っているので、自分の主義主張をいかにして他社に飲ませるか、という技法に長けた本だと思っている。読み終わったらこの記事の続きを書くかもしれない。

恐らく今私が嵌っているのは社会人10年目の壁とかいうやつで、新人でもベテランでもなく、中堅社員が陥る穴みたいなものなのだろう。これは「社会人 10年目」などでググると出てくるもので、みんな似たようなことで悩んでいるのだなと感じている。ちなみに私は数え方にもよるが社会人を10年もやっていない。数え方によってはやっているのだが、履歴書ベースだと約9年である。

私の経歴は恐らくかなり特殊な部類で、まず学卒で内定がなく、3年半ほどフリーターをしており、そのフリーター期間も職を転々としていた。ごみ収集、ECサイト制作、コンビニ店員、風俗サイトのSEO施策、ペーパーカンパニーで事務作業、大手家電店での中古情報機器のリサイクル作業など多岐にわたる。いよいよ正規の職に就かないといけないということでハローワークを通じて当時存在したトライアル雇用という既卒者向けの就職支援事業を利用して最低賃金で一社目に入った。酷いブラックだったので、一社目を辞めた後は一年と少しの間、残業代で貯めた貯蓄を原資に反動でニートをしていた。このニート時代ではMMORPGプレイヤーとして新規プレイからほぼ頂点級の廃人にまで上り詰めることができた。数々の実績を残し、正直伝説だったとさえ思う。この時に得た様々な経験は仕事や私生活でも役に立っているので、個人的には無駄ではなかったと感じている。

そこから先は一回転職で事故ってブランクができたものの、完全に定職についており平穏の社会人として生活している。因みに転職での事故というのは離職時の交渉が上手くいかず、一番平和な方法がその月で辞職することだったためだ。私の交渉術がポンコツ過ぎたため、次の入社日まで在職することは難しかった。

まぁこういったことがあり、私は年齢に応じた経験がない。ないが、同年齢の人間より仕事は出来るほうだという自負はある。あるが、このままではまだ駄目だと思っているので、SESで13次から8次、5次、3次に上がり、最終的に事業会社へ入社してきたように、次はメンバー層からマネージャー層に上がらなければならないと考えている。年齢に対する経験年数が浅いというのは一生付きまとってくる課題なので、同一年齢の人間よりできねばならないと思うし、年上のできない人を見ていると純粋にこうなったら終わりだなと感じるので、出来るだけ実績を残して、やれることを増やしていきたいのだ。

まぁ私は非常に怠惰な人間で、基本情報をとると言い出して十数年、未だに取れていなかったりあるので、どこまでやるのかは不透明なところもあるが、それでもやっていこうという志だけは捨てたくない、志だけはという感じだ。

11月の終わりから12月の初めにかけてポエミーな記事を幾つか書いてきたり、社内でも変な話をよくしていたし、ここ数年はそう言ったことで色々悩んでいたが、その悶着に一つの決着がついたのが今回の記事という感じだ。

やっと靄が晴れたような気がするので、これからもこれまでの自分の連続として、やっていけたらなと思うところである。多分これが今年の抱負というか、所信表明だ。

2023年の決算として、今年やってよかったことを書いていこうと思う。

地産地消の促進

地産地消自体は3年ほど前からやっている取り組みだが、今年はこれを飛躍的に促進させた。具体的には物を買うときに神戸市産>兵庫県産>京阪神産>近畿地方産>西日本産>国内産>輸入品といった序列で、徹底的な差別化を行うことにした。

これは地域を愛していたいからというのが理由だが、意外な出会いも多く、個人的には満足している。

実際の取り組みとしては以下のようなものがある。

割と徹底的に変えていると思うが、特に生活面の負担はなく、困ったりはしていない。何故なら大半は農作物で、私はスーパーより八百屋が近く、容易に手に入るためだ。また最寄りのスーパーは兵庫県産品の取り扱いが多く、これもあまり不自由しない理由の一つだ。以前調査のために神戸市内のスーパーを10程視察しているが、こういうスーパーは珍しく、あまりないので運よく恵まれていると思う。この地に住んだのは運命だったのかもしれないと思うほどだ。

米についても変更を検討しているのだが、兵庫県産のあきたこまちが見当たらないので悩んでいる。コシヒカリやキヌヒカリは見かけるのだが…。米だけはあきたこまちに強いこだわりがあるため、これは変更しないかもしれない。あきたこまちは秋田県産以外見かけることがほぼなく、正直絶望的だとは思っている。とはいえ何もかもすべて兵庫県産というのも極端な話なので、これはこれでありだと思っている。

因みに今年変えたわけではないが料理酒はキング醸造(兵庫県稲美町)のものを利用している。同社は料理酒で国内トップシェアを誇るといわれているメーカーで、こういうのが県内にあるのは誇らしい。というか兵庫県は伊藤ハム(西宮市)やUCC(神戸市)、ケンミン(神戸市)、フジッコ(神戸市)などもあり、各社ともに県内生産があるため比較的食品製造に恵まれていると思う。関西にスコープを広げても丸大ハムや日本ハム、ハウス食品、サントリー、日清食品、神戸屋など食品製造が多い。

新聞紙面の購読

今年あたりから神戸新聞の電子版を見るようになったのだが、いっそのこと紙面で見てみるのはどうだろう?新しい発見があるかもしれないと思ったのが発端だ。

実際紙面購読をしてみると、Webより記事が見やすいという発見があった。Webでは記事タイトルくらいしか見れなかったのが紙面では紙を見ただけで一気に情報が見れる。これは利点だった。また毎日新聞を取りに行くので、家から一歩も出ない日がなくなった。大したことではないとはいえ、これも利点だとは思う。

紙面を見るのにはサイトにアクセスしなくていいし、一回とってくれば部屋に転がってるのを読むだけというのもいい。情報量もスマホやPCの画面より多く、思いがけない情報が目に入りやすいのもメリットだ。例えば地域限定の情報や、読者から寄せられた一言など、Webだとアクセスするのに地味に労力のかかる部分も見やすい。神戸新聞にはWebで紙面を読む機能もあるが、私は一般プランで年間契約をしているため、来年になるまでこれは使えないし、多分使えたとしても紙面実物より一覧性は悪い気がするので、紙面は見続けるだろう。

他にも必然的に新聞紙やチラシが大量に手に入るので、おやつを食べるときの下敷きなどにも重宝している。

外部との交流

今年はLT会や勉強会にも出ることができた。これによって自分の考えを外部の人に共有したり、外部の人の考えを聞いたり、評価しあうといったようなことができるようになった。また知らない人に話しかける経験もできたので、こういった場でほかの人に近づくためのスキルも身に着けることができた。

こういったことで持っている仮説を他の人に聞いてもらって評価して貰ったり、他の人の意見を聞くことで、自分を客観的に見る機会を作れるので、来年も継続していきたいと思った。アウトプットとインプットの機会を今より増していきたい感じだ。

参考までに今年は以下の会に参加した。

関西では会自体が多くないので自分で作っていくのも一つのような気がした。